第二十八話。
血魔術と影使いの訓練は、その後も続いた。
ミラーカの教え方は、容赦がないくせに妙に的確だった。リアンのようにひたすら身体を酷使させるわけではない。アドールみたいに理屈を積み上げてくるわけでもない。だが、できるまで終わらせないという点では誰よりもしつこい。
血液操作は特にそうだった。
最初はただ、傷口へ血を戻すだけで精一杯だった。だが毎日続けているうちに、血を「動かす」という感覚が、少しずつ当たり前になっていった。自分の中を流れているものを、ただの体液ではなく、意志を通せる力として感じられるようになってくる。
ある日、ミラーカが言った。
「手を出して」
俺が素直に掌を見せると、彼女は針みたいに細い影の棘で、指先をわずかに傷つけた。
赤い血がにじむ。
「今日は吸い上げる方をやるわ」
「吸い上げる?」
「ええ。血を出すだけが血魔術ではないもの」
ミラーカは俺の手を軽く持ち上げ、掌の真ん中を指先でなぞった。
「そこを口だと思いなさい」
「無茶言うな」
「できるから言ってるの」
そう言われると反論しづらい。
俺は掌に意識を向けた。
血を吸う。
吸い上げる。
口ではなく、手のひらで。
最初は何も起きなかった。だが何度も繰り返しているうちに、掌の内側に妙な圧の集まる感覚が生まれる。そこへ血を引き寄せると考えると、皮膚の下がわずかに脈打つ。
「……来たかも」
「続けて」
ミラーカに促され、さらに集中する。
すると、床に垂らした自分の血が、糸を引くように掌へ向かって這い上がってきた。べたりと掌に触れた瞬間、ぞくりとした快感が走る。口から飲むのとは違うが、確かに「吸っている」感覚だった。
「良いわ」
ミラーカが目を細める。
「第二段階ね」
俺は掌を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「本当に手のひらから吸えるようになったのか……」
「ええ。吸血の口が一つ増えたようなものよ」
言い方が嫌だが、事実ではある。
影使いの方も進んでいた。
最初は影を大きくしたり、小さくしたりするだけだったのが、今では自分の身体に纏わせることができるようになっていた。腕に影を巻き付ければ輪郭がぼやけ、足元へ濃く落とせばその場の暗さに溶け込みやすくなる。さらに最近では、ほんの少しずつだが、宙に影を浮かばせることもできるようになってきた。
まだ靄のような、頼りない黒い塊だ。
だが確かに、床から切り離された影を、自分の意志でそこに留められる。
「良い進歩ね」
ミラーカは俺の肩越しに浮かぶ影の球を見て、満足そうに頷いた。
「それじゃあ、畏敬術をやりましょう」
その一言で、空気が少し変わる。
ミラーカは訓練室の中央へ歩き、俺に向き直った。
「畏敬術は、ヴァンパイアの独特なものよ。超常なる魅力の力を操るもの。派手さはないけど、強力な効果があるわ」
俺は少し眉を上げる。
「魅力の力、か」
「そう。ある種のフェロモンを扱う能力よ」
ミラーカはさらりと言った。
「これは、ほとんどのヴァンパイアが所有する能力ね。我々は他のヴァンパイアのフェロモンを感じることができるわ。それで相手の縄張りかどうかも分かる」
なるほど、と俺は思う。
ただ美しく見せる術ではない。もっと生物としての深いところで作用するものなのだろう。
ミラーカは指を立てた。
「そのフェロモンを、より能動的に使えるようにするのが畏敬術よ」
「能動的に」
「ええ。素晴らしい点はね、一人一人にではなく、群衆全体に一度に影響を与えることもできる、ということ」
「それは……だいぶ強いな」
「でしょう?」
彼女は少し得意げだった。
「まずは第一段階の畏敬を学びましょう。これを使うと、側にいる者はよりあなたの近くに行きたいと思い、あなたの意思を受け入れやすくなるわ」
「便利だが、怖いな」
「便利なものは大体怖いのよ」
即答だった。
それからミラーカは、これまでの訓練と同じような口調で言った。
「これも血液操作や影使いと同じように考えてみて。あなたはヴァンパイアの血を引く者。だからフェロモンを操れる能力がある。それを操って、人に影響を与える。そういう感じで」
「まずは何をする」
「まずはフェロモンを出す練習」
ミラーカは数歩下がった。
「どうやってやるのだ?」
俺がそう聞くと、ミラーカはくすりと笑う。
「私がフェロモンを出しているのを、離れたところで感知してみて」
「感知できるものなのか」
「できるわ。かなり離れたところで出すわよ」
そう言って、ミラーカは訓練室の端まで行った。
少しの沈黙。
次の瞬間、ふっと花のような匂いを感じた。
濃い香水のようではない。もっと自然で、けれど確実に人の気を引く匂い。花の蜜と夜の空気と、少しだけ血の気配が混ざったような匂いだった。鼻で嗅ぐというより、皮膚で感じる感じに近い。
「……感じたぞ」
俺がそう言うと、ミラーカは満足そうに頷いた。
「じゃあ、あなたも出してみて」
俺は少し戸惑った。
自分の匂いを出す、という感覚がまだ分からない。
だが、やるしかない。
自分の匂いが拡散していくイメージをする。
胸の内側から、目に見えない何かが外へ流れていく。息に乗るのではなく、皮膚から滲むように。自分の輪郭が少し広がって、周囲の空気に混ざるように。
最初は何も起きない。
ミラーカはただ待っている。
俺は何度も試した。
集中しすぎると逆に固くなり、抜こうとすると散ってしまう。血や影よりもさらに曖昧だ。形がない分、掴みにくい。
三十分くらい、あれこれやった。
その末に、ようやく変化が来た。
自分の周りから、すうっと何かが外へ出ていく感触がある。
風ではない。
魔力とも少し違う。
もっと生々しくて、もっと柔らかい何か。
「……今、出たか?」
「出たわ」
ミラーカが即座に答える。
「それが私に当たった」
感知できるのか、と少しだけ驚く。
ミラーカはゆっくり近づいてきて言う。
「できたわね」
それから、少し真面目な顔になる。
「これ、人や獣を感知する時にも使えるけれど、あまりおすすめしないわ」
「何でだ?」
「他の吸血鬼やワーウルフ、それを狩る者たちの興味を引きつけてしまうからね」
なるほど。
こちらから触れにいくようなものなのだ。便利ではあるが、使いどころを間違えると危険らしい。
ミラーカはそこで、次の段階へ進めた。
「じゃあ、それに自分の魅力を乗せて放ってみて」
「魅力、か」
「たとえば男っぽいところだったり、人懐っこいところだったり、そういう意識よ」
「急に難しくなったな」
「だから術なのよ」
もっともだ。
俺は考える。
男っぽさ。
人懐っこさ。
自分でそういうものを意識するのは、ひどく気恥ずかしい。だが、ミラーカの言うことは分かる。単にフェロモンを撒くだけでは、ただ存在を主張するだけだ。そこに「どう見られたいか」を乗せるのが第一段階の畏敬なのだろう。
俺は目を閉じた。
自分がどういう風に相手へ届いてほしいかを思い描く。
安心感を与えるか。
親しみやすく見せるか。
少し頼れる感じを乗せるか。
色々試した。
うまくいかない。
自分で自分の魅力を考えるという行為そのものが、妙にぎこちないのだ。気取れば違う気がするし、素直すぎると散ってしまう。
それでも繰り返す。
匂いを出す。
そこへ意識を乗せる。
また出す。
乗せる。
散々苦労した末、ようやく一回だけ、手応えのある放ち方ができた。
ミラーカの表情が、その瞬間に少し変わる。
目が細くなり、唇が柔らかく緩む。
「あら」
その声が少しだけ低くなった。
「今のは、いいわね」
俺は思わず目を開ける。
「成功したのか?」
「ええ」
ミラーカは楽しそうに笑った。
「魅力的だったわよ」
その言葉と同時に、彼女がすっと近づいてくる。
何をするのかと思った瞬間、頬に柔らかい感触が触れた。
「……っ」
軽いキスだった。
本当に一瞬。
だが、された側としては一瞬で済まない。
俺は固まった。
ミラーカは少し離れて、面白そうに俺を見る。
「報酬」
「そういうの、先に言え」
「先に言ったら、今みたいな顔は見られなかったでしょう?」
完全にからかわれている。
俺は頬に触れそうになって、やめた。余計に意識しそうだった。
ミラーカは満足そうに言う。
「いいわ。あなた、畏敬術も筋が悪くない」
「こんな調子で、群衆にまで効くようになるのか……」
「なるわよ。ちゃんと練ればね」
それから、少し真面目な声になる。
「ただし、これは使い方を間違えると危ない術でもあるわ」
俺は頷く。
「だろうな」
「意識せずに撒きすぎると、要らない関心を集める。逆に、必要な時に絞れれば、交渉でも潜入でも生存率が変わる」
「身につける価値は大きい、と」
「そういうこと」
ミラーカは訓練の終わりを告げるように、軽く手を打った。
「今日はここまでにしましょう」
俺はようやく息を吐いた。
血魔術の第二段階。
影使いの進展。
そして畏敬術の第一歩。
やることは多い。だが、一つずつ確かに形になっているのも分かる。
頬に残る感触が、まだ少し熱かった。俺はそれをなるべく気にしないようにしながら、ミラーカの後を追って訓練室を出た。




