第二十七話。
カダスの修練は、屋敷の外にある庭で行われた。
庭と言っても、地上の貴族屋敷にあるような明るい花壇ではない。十六階の外周にある、薄暗い空の下の庭だ。黒ずんだ石畳のあいだに低い草が生え、ところどころに灰色の木立が立っている。だが荒れ果てているわけではなく、きちんと手が入っている気配もあった。獣道のように見えていたものが、実際には円を描く歩道であり、いくつかの石碑が一定の間隔で据えられている。
その一つの前で、カダスは立ち止まった。
「まずは占術の話からだ」
二足歩行の狼の姿のまま、カダスは振り向く。
半分霊体めいたその体は、薄い庭の灯りの中で少しだけ揺れて見えた。だが声ははっきりしている。
「占術ってのは、きちんと体系化した術だ。虫の知らせとか、神託とか、第六感みたいなもんを、ちゃんと文字にできる形で扱えるようにした技術だな」
「感覚を、文字に」
「そう。なんとなく分かる、を、誰でも学べる形にしたものだ」
なるほど、と思う。
俺は前世の仲間の顔を思い浮かべた。神託を受ける者と、それを理屈に落としていく学者。その二人が並んで議論していた姿が、妙に鮮やかに思い出される。
カダスは俺の顔を見て、片耳をぴくりと動かした。
「特に、お前みたいな運の持ち主には相性がいい」
「豪運があるからか」
「そういうことだ。運ってのは、ただ都合よく物事が転ぶだけじゃない。流れの濃いところを無意識に踏みやすいってことでもある。占術はそこを扱う」
それは確かに強そうだ。
いや、強いというより、生き残るために有効だ。
カダスは続ける。
「元々は、お前の時代のお前の仲間である神託持ちと学者が、民でも神託を扱えるように始めた術だぞ」
「……そうか」
俺は小さくそう返した。
何となく、嬉しかった。
前世で築いたものが、こういう形で残っている。王だったことの負債ばかりを思わされることが多かった分、そういう残り方をしているものがあるのは救いだった。
だがカダスはすぐに話を切り替える。
「よし。それは後に学ぶとして、今日は精霊から教わる精霊術の取っかかりをやる」
「精霊術」
「我らワーウルフが主に使うものだ。精霊と盟約を結び、魔法の技を教わることができるようになる」
カダスは足元の石碑を軽く叩いた。
「まずは、お前を俺がこの領域のあちこちに据えた霊力の溜まり場……石碑の一つであるこの庭で、数々の精霊と引き合わせる」
「ずいぶん大がかりだな」
「一番確実だからな」
カダスは牙を見せて笑う。
「相性が良ければ、その精霊と親交を深めて、精霊術を学ぶことができる。そういうわけだ」
「俺は何をすればいい」
「今日は立ってるだけでいい。俺がガイドをする。お前に精霊が寄る。嫌なら離れる。気に入られたらそこらに漂う。そんな感じだ」
言い方は軽いが、実際に何が起きるのかは分からない。
俺は少しだけ身構えた。
カダスはそんな俺を見て鼻を鳴らした。
「まずは大きい精霊たちだ」
その声と同時に、庭の空気が変わった。
カダスは胸を張り、低く呼びかける。
「神狼フェンリスよ、現れよ」
次の瞬間、空気が裂けたような感覚があった。
そして、巨大な狼が現れた。
本当に巨大だった。
ただ大きいだけじゃない。輪郭そのものが神話じみている。月光を凝縮したみたいな毛並み、深い夜の色を湛えた眼、踏みしめるたびに地面がわずかに震えるような存在感。狼という形をしているが、獣という枠だけでは足りない。
神狼。
その呼び名が、まるで比喩ではなく正確な分類だと分かる。
フェンリスはゆっくりと俺の方へ歩いてきた。
俺は息を止める。
巨大な鼻先が俺の胸元、肩、首筋を順に嗅ぐ。濃い獣の匂いではない。むしろ、凍てつく風と鉄と夜の匂いがした。
やがてフェンリスは、俺の近くにどっかりと座った。
「……おい」
俺が声を漏らすと、カダスが心底驚いたように言う。
「これはでかい。強いわ」
「そんなにか」
「そんなにだ。フェンリスに気に入られりゃ、『瞬速の術』を得られる」
「瞬速」
「一瞬で距離を食う術だ。単なる加速じゃない。間合いそのものを噛み砕く」
それはかなり大きい。
俺がフェンリスを見ていると、その巨大な狼は何も言わず、ただ静かにそこにいた。だが、その沈黙の中に妙な安心感もあった。
カダスはすぐ次へ移る。
「続くぞ。冷たき嵐のウェンディゴ」
地面が少しだけ軋むような音がした。
現れたのは、長い牙と鉤爪を持つ、人間じみた怪物だった。
細長い四肢。痩せすぎた胴。餓えそのものを形にしたような顔。見た瞬間に、あまり近づいてほしくないと思う。
だが、そいつは出てきた瞬間に消えた。
「……だめか」
カダスが肩をすくめる。
「次だ。月の精霊ルナ」
今度は金と青の輪が、俺の前に静かに現れた。
輪と言っても、ただの円ではない。細い光が幾重にも重なり、その中心に淡く脈打つ核がある。月を切り取って細工したような、美しい存在だった。
ルナは俺の前にふわりと漂う。
触れそうで触れない距離に、静かに留まった。
「ほぉ」
カダスが感心したように言う。
「ルナは『月光の鎧の術』と『月光の武器の術』を授ける」
「どっちも強そうだな」
「実際強い。防御にも攻撃にも使える、かなり使い勝手のいい精霊だ」
ルナは俺の言葉には反応しない。だが、輪の中の光がわずかに脈を速めた気がした。
カダスはさらに呼ぶ。
「次は夢の精霊の二種だ。グリフィン」
風が巻いた。
だが何も残らない。
「これはだめか」
あっさりそう言って、次。
「続いてキマイラ」
地面に影が落ちる。
現れたのは、様々な動物が複合した姿の怪物だった。
獅子のような胴に、山羊めいた角、蛇じみた尾、鳥の翼の名残。だが、恐ろしさより先に感じたのは、妙な愛嬌だった。キマイラは俺の前まで来ると、ぐいと顔を寄せてきて、俺の腕を甘噛みした。
「うおっ」
思わず肩を引く。
だが痛くはない。
軽く歯を当てて、匂いを確かめるみたいな仕草だった。
そのまま、キマイラは俺の横にぴたりとついた。
「ふむ、ふむ!」
カダスが本当に機嫌良さそうに唸る。
「キマイラはお前に、動物に変身できる『変身の術』を授ける」
「変身……」
「これもでかいぞ。相性次第では逃げにも潜入にも使える」
確かに大きい。
俺は思わずキマイラを見た。キマイラは相変わらず楽しそうに尾を揺らしている。妙な奴だ。
カダスは満足したらしく、大きく頷いた。
「さて、ここまでは俺の持つでかい精霊たちだった。ここからは獣の精霊だ」
そう言うと、カダスは両腕を広げた。
「数多の動物の精霊たちよ、現れてかのものを試したまえ」
次々に何かが現れた。
鳥。
虫。
哺乳類。
両生類。
形は様々だ。大きさも様々。透けているものもいれば、妙にくっきりしたものもいる。どれも精霊らしい曖昧さをまといながら、俺の周囲へ集まってきた。
匂いを嗅ぐもの。
舐めるもの。
頭の上を飛ぶもの。
足元を這うもの。
俺はただ立っているしかない。
「……すごいな」
「動くなよ」
「分かってる」
群れはしばらく俺を品定めしていた。
そして、少しずつ去っていく。
残ったのは四つだった。
ハヤブサ。
キツネ。
チーター。
フクロウ。
カダスが満足そうに尾を振る。
「うむ。なかなかのラインナップだ」
まずハヤブサが俺の上空へと留まる。鋭い眼がこちらを見下ろしていた。
「ハヤブサは二つの術だ。相手の嘘を見破る『真実の目の術』と、戦闘指揮が上手くなる『指揮の目の術』」
「真実の目……」
「お前みたいに、人と交渉したり、戦いで全体を見る必要のあるやつには相性がいい」
次にキツネ。
金色に近い毛並みの精霊で、俺の周囲をくるりと回る。
「キツネは『隠惑の術』。これは他者を惑わせる術だな。主に交渉や隠密に使う」
「人に紛れるなら確かに便利そうだ」
「そういうことだ」
チーターは、現れた時からほとんど落ち着きがなかった。地を擦るような低い姿勢で、今にも走り出しそうにうろついている。
「チーターは『稲妻の足の術』。通常の疾走より、かなり速く、長く走れるようになる」
「これも生き残るのに役立ちそうだな」
「役立つどころか、お前なら多用するだろうよ」
最後にフクロウ。
静かだ。気づけば近くの石碑の上に留まっていた。
「フクロウの術は、そのまま『フクロウの術』だ。一定時間、暗闇を見通す目と、忍びの力を上げる」
「……分かりやすくていいな」
「分かりやすいのは強いぞ」
カダスはそこでひと息ついた。
庭には今、フェンリス、ルナ、キマイラ、ハヤブサ、キツネ、チーター、フクロウが残っている。これだけの精霊に囲まれている光景は、正直かなり異様だった。だが同時に、どこか神聖でもある。
カダスが俺の方を向く。
「さて、学ぶ方法だが」
俺は背筋を伸ばした。
「一日一回。それぞれの精霊を呼び出し、親交をする。必ずだ」
「親交ってのは?」
「話してもいいし、黙って一緒にいてもいい。肉を捧げてもいい。大事なのは、心を開くことだ。心を開けば、訓えは与えられる」
「……雑に見えて、結構繊細なんだな」
「精霊相手だからな。命令じゃ動かん」
カダスは順に指を折っていく。
「フェンリス、ルナ、キマイラ、ハヤブサ、キツネ、チーター、フクロウ。この七つは、もう呼び出すことができる」
「戻す時は?」
「戻れ、でいい」
「そのままか」
「そのままだ」
簡単すぎて逆に不安になるが、精霊術というのはそういうものなのかもしれない。
カダスはさらに補足する。
「ルナ以外、肉食だからな。肉を捧げてもいいだろう。特にフェンリスとキマイラは喜ぶ」
「ルナは?」
「特に捧げなくていい。だが高圧的な態度はいけない。あいつは静かな分、そういうのに敏感だ」
俺はゆっくり頷いた。
そして、少しだけ期待して聞いてみる。
「術に関して、お前から教わることは?」
カダスは、あっさり首を振った。
「ない」
「ないのかよ」
「ない。俺から術そのものを教えることはしない。それぞれの精霊から学ぶようにしてくれ」
「完全に仲介役なんだな」
「そういうことだ。俺は道を繋ぐだけ。歩くのはお前」
それはそれで、筋が通っている。
精霊術は師匠から型を学ぶものではなく、精霊との関係の中で身につけるものなのだろう。
俺は庭に漂う精霊たちを見回した。
フェンリスは相変わらず堂々と座っている。
ルナは静かに浮かび、キマイラは尻尾を揺らし、ハヤブサは高みから見下ろし、キツネはどこか楽しげで、チーターは今にも駆け出しそうで、フクロウは何も言わずこちらを見ている。
ずいぶんと、多い。
「……初日から、随分気に入られたな」
俺がそう言うと、カダスは喉の奥で笑った。
「お前、豪運持ちだしな。しかも元王だ。精霊から見りゃ、ただの獲物よりよっぽど面白い」
「面白がられてるだけじゃ困るが」
「その面白さを親交に変えるんだよ」
カダスはそう言って、俺の肩を軽く叩いた。
「ま、悪くないスタートだ。今日からちゃんとやれ」
俺はゆっくりと息を吐く。
やることがまた増えた。
武神套路。
魔法修練。
血魔術と影使い。
それに加えて、七体の精霊との親交。
正直、全部回せるのか不安になる。だが、この迷宮で呪いを解く方法を探すなら、力は一つでも多い方がいい。
俺は庭の中央に立ったまま、小さく頷いた。
「分かった。やる」
すると、ルナの輪がわずかに明るくなった気がした。
キマイラはまた俺の腕を軽く噛む。
フェンリスは何も言わないが、目を細めたように見えた。
カダスは満足そうに牙を見せる。
「そうこなくちゃな」
庭の薄暗い空気の中で、俺は自分の周りにいる七つの精霊の気配を改めて感じた。
ここから、また新しい修練が始まる。




