第二十六話。
アドールとの魔法の授業は、訓練場とはまったく違う空気をしていた。
場所は屋敷の一角にある書庫めいた部屋だった。壁一面に本棚が並び、古びた背表紙と奇妙な金属製の筒がぎっしり詰まっている。部屋の中央には長机があり、その上には紙束とインク壺と、見たこともない鉱石がいくつか転がっていた。ランプの灯りは落ち着いているが、どこか青みがかっていて、訓練というより研究室に近い。
アドールはその長机の向こうに陣取り、骨だけの指先で机を軽く叩いた。
「では、今まで習ったことのある魔法を述べよ」
いきなり試問から始まるらしい。
俺は少し考え、それから一つずつ並べた。
「クリーン、ライト、ティンダー、センスライフ、センスエネミー、センスマジック、カウンターマジック」
アドールの眼窩の青白い光が静かにこちらを見ている。
俺は続けた。
「マジックミサイル、マジックシールド、ライトニング、ダズリング、ホールド、スリープ、ファイアボール、パラライズ、ヘイスト、レビテーション、トランスレイト、エイジング……主な魔法はその辺りだ」
言い終えると、アドールはしばらく黙っていた。
骨の指がかすかに机を叩く。
やがて、顎を鳴らして言う。
「なるほど」
その一言に、微妙な評価がこもっている気がした。
「それらの魔法は、また身につくだろう」
「また、か」
「魔法は一度覚えたものは、なかなか消えぬからな」
アドールは椅子にもたれた。
「ただし、魔法スキルはまた習得するのに時間がかかるぞ」
「やっぱりそうか」
「特に感覚のずれたものはな。再度取り直す時に、そのずれに悩まされるものだ」
そう言って、アドールは小さく鼻を鳴らした。
「かく言うワシも悩まされたわ」
意外だった。
リッチで、大魔術師めいた雰囲気をまとっているこいつにも、そんな時期があったのか。
俺が少しだけ意外そうな顔をしたのが分かったのか、アドールは不満げに言う。
「何だ、その顔は」
「いや……あんたでも苦労したんだなと思って」
「当然だ。死んで骨になったあとで感覚がずれぬわけがなかろう」
それはそうだ。
俺なんかまだ、血も肉も残っている分だけましなのかもしれない。
そこでアドールはふいに話を変えた。
「ちなみに、お前が思う使いやすい魔法とはどれだ?」
試されているな、と思った。
俺は少し考えてから答える。
「センスライフとダズリングとヘイストだ」
アドールの青白い目が、わずかに細まる。
「ほお」
それから、いかにも意外だと言わんばかりに言った。
「なかなかわかっているではないか」
褒められたらしい。
骨だけの顔では分かりにくいが、声色は少しだけ柔らかい。
アドールは指を一本立てた。
「センスライフは、習熟したらだいたいの種族や種類や性別が分かるからな」
「やっぱりそうか」
「迷宮では特に重要だ。見えぬ先を知るというのは、それだけで生存率が違う」
次に二本目の指。
「ダズリングは敵が魔術師でなくとも、相手に隙を作ることができる。目を潰されれば、剣士も獣も反応は鈍る」
「俺もそう思ってた」
「単純で良い魔法だ。派手ではないが、派手でないからこそ使い勝手がいい」
そして三本目。
「ヘイストは、そもそも行動回数が増えるから優位に立てる」
アドールはそこで、机の上を骨の指でとんとんと叩いた。
「魔法は大威力のものばかりが良いのではない。使いどころを増やすものこそ強い」
「同感だ」
前世の俺も、その辺りはかなり重視していた。派手な魔法は確かに強い。だが、本当に生死を分けるのは、相手より半手早く動けるか、先に気づけるか、ほんの一瞬の隙を作れるかだったりする。
アドールは、俺の答えに少し満足したようだった。
「では授業をやろう」
空気が切り替わる。
「まずは、詠唱を行わないで魔法名を言えば発動できることを頭に入れて、魔法を使うようにな」
俺は頷いた。
「それは詠唱破棄のスキルを得るために必要な知識だな」
「そうだ」
アドールは即答する。
それから少しだけ首を傾げた。
「お前は以前、詠唱破棄を覚えていたのか?」
「その通りだ」
俺がそう答えると、アドールはしばらく俺を見たあと、ぼそりと言った。
「ただのボンクラ王ではなかったようだな」
「お前の中で俺はそんな評価だったのか」
「今も半分くらいはそうだ」
「辛辣だな」
「だが、見込みがないわけではない」
そう言われると、悪い気はしない。
アドールは長机の下から一本の杖を取り出した。
細身で、黒木に銀の縁取りがされている。先端には小さな透明鉱石が嵌め込まれ、握りの部分には指に馴染む刻みがあった。
「発動体のワンドだ」
「ワンド」
「魔法の集中を助ける。今のお前にはちょうど良い」
俺は受け取る。
軽い。だが、ただの棒ではない。握った瞬間に、魔力が通りやすい道筋みたいなものを感じる。
アドールは顎をしゃくった。
「修行だ」
その一言で、俺は嫌な予感しかしなかった。
「魔力点がゼロになるまで、センスライフをひたすら唱えろ」
「……やっぱりそういう感じか」
「そういう感じだ」
逃げ道はないらしい。
俺は深く息を吸い、ワンドを構えた。
「センスライフ」
最初は何も起きなかった。
ただ言葉が空気に溶けるだけだ。
もう一度。
「センスライフ」
駄目。
まただ。
「センスライフ」
ひたすら繰り返す。
言葉だけで発動する、という理屈は知っている。だが、知っていることと、今のこの体でそれができることは別問題だった。詠唱を削るということは、魔法の枠組みを自分の内側で先に作っておく必要がある。前世では当たり前にできていたことが、今は手探りだ。
俺は必死に唱えた。
最初は成功しない。
十回、二十回、三十回。
喉が少し乾く。
集中力が削れる。
それでも続ける。
三十分くらい経った頃、ようやく一回だけ、魔法が成功した。
世界が変わる。
部屋の中にある生の気配が、輪郭として浮く。
俺自身。アドール。扉の向こうにいるアンデルセン。さらに遠くの薄い反応まで、ぼんやりと分かる。
「出た……」
思わずそう呟くと、アドールが腕を組んだまま言った。
「黙って続けろ」
容赦がない。
俺はまた続ける。
「センスライフ」
今度は九回失敗して、一回成功する。
その次は、八回に一回。
七回に一回。
どんどん成功する確率が上がっていくのが、自分でも分かった。魔法名を口にした瞬間、以前より少しだけ回路が繋がる感じがある。ワンドも助けてくれているのだろう。
それでも楽ではない。
一回発動するたびに、魔力が削れる。
頭の奥が少しずつ重くなる。
だが、その重さが逆に訓練の進行を教えてくれる。
「センスライフ」
「センスライフ」
「センスライフ」
やがて三回に一回くらいの成功率になった頃、アドールがようやく手を上げた。
「止めろ」
俺はワンドを下ろし、肩で息をした。
「……終わりか」
「いや、確認だ。ステータスを見ろ」
言われた通り鑑定する。
すると、確かに変化があった。
後天性スキルの欄に、新しい表記が増えている。
魔法(初級)
「……入った」
思わずそう言うと、アドールは満足げに顎を鳴らした。
「まずはそれだ」
「初級か」
「十分早い方だ。以前の記憶があるとはいえ、ゼロからならもっとかかる者もいる」
少しだけ、嬉しかった。
剣や影や血とはまた違う。魔法は、前世の俺にとってかなり大きな柱だった。そこへまた手が届いた感覚がある。
アドールは続ける。
「まずはそれが、一回に一回できるようになるまで練習しろ」
「成功率を上げろってことだな」
「そうだ。その他の魔法もやってみるように」
俺は頷く。
するとアドールが、念を押すように言った。
「ただし、詠唱破棄のスキルが身につくまで、魔法名を言うだけでやれ。詠唱はつけるな」
「徹底するのか」
「徹底せぬと癖になる」
なるほど。
半端に詠唱を混ぜると、脳と体がそちらへ逃げるのだろう。今は未熟でも、最短で詠唱破棄へ戻すことを優先しているわけだ。
俺は素直に頷いた。
「分かった」
ここまで指導されて、俺はふと本音を口にした。
「アドール、お前の指導、わかりやすいな」
骸骨の顔では分かりにくいが、青白い光が少しだけ揺れた。
「そうか?」
「理屈と手順がはっきりしてる。やることが分かる」
アドールは少しだけそっぽを向くようにした。
「まあ……ワシだからな」
満更でもない言い方だった。
そこが少し面白くて、俺は小さく笑う。
アドールはそれに気づいても、特に怒りはしなかった。むしろ、骨の指で机を軽く叩きながら、さらに言う。
「一日一回。魔力点がゼロになるまで魔法を使うこと」
「毎日か」
「当然だ」
「厳しいな」
「魔法は積み上げだ。楽をしたければ別の道へ行け」
ぴしゃりと言われる。
だが嫌ではなかった。こういう厳しさは、むしろ助かる。何をやればいいのかがはっきりしているからだ。
その日の授業は、そこで終了した。
俺はワンドを握ったまま、少しだけ天井を見上げる。
ミラーカの術。
リアンの武神套路。
そしてアドールの魔法。
毎日続けることがどんどん増えていく。正直、体も頭も足りるのか不安になる。だが同時に、確実に何かを取り戻している感覚もあった。
俺はクレイヴとして、この迷宮で生き延びるための力を一つずつ積み直している。
そう思うと、少しだけ気持ちが前を向いた。




