第二十四話。
翌日から、ミラーカの授業が始まった。
場所は屋敷の奥にある、少し広めの訓練室だった。床は黒い石でできており、壁には淡い赤の筋が走っている。だが応接室のような優雅さはなく、余計な家具もない。広く、静かで、そして少しだけ寒い。術の訓練にはちょうど良い場所だった。
ミラーカは部屋の中央に立つと、俺の方を見て言った。
「私は、影使いと血魔術と畏敬術を教えるわ」
俺は頷く。
「影使いは私の得意技よ。血魔術と畏敬術は、持っていて損はない術ね。特に、人に紛れて生活するあなたにとっては使いやすい術だわ」
「人に紛れて、か」
「そうよ。あなたはいずれ迷宮の外にも出る。その時、ただ強いだけじゃ駄目。目立ちすぎず、必要な時だけ牙を見せる術がいるの」
なるほど、と俺は思う。
前世の俺は、どうしても王や冒険者としての力の使い方を考えがちだ。だが今の俺は、ダンピールで、呪いを抱え、しかも表では人間に紛れて生きる必要がある。ミラーカの教えは、その意味では今の俺にかなり噛み合っている。
ミラーカは指を一本立てた。
「それぞれ、四段階に分かれているわ」
「四段階」
「ええ。まず影使い」
そう言って、彼女は足元の影へ視線を落とした。
「第一段階は、すでにある影を操ること。第二段階で、物理的な効果のある闇の雲を作り出して、相手を覆うことができる」
そこまで言って、ミラーカは軽く指を払った。
床の影が、ぬるりと動く。
ただ伸びるだけではない。意思を持った液体みたいに這い、壁際へ集まり、黒い靄になって漂う。見ているだけで、そこへ手を入れたくなくなるような濃い闇だ。
俺は思わず目を細めた。
ミラーカは楽しそうに続ける。
「第三段階で、影や暗闇から触手を生み出して戦うことができる」
今度はその靄の中から、細長い影が何本も伸びた。触手だ。だが粘ついたものではない。鞭のようにしなる、鋭さを持った闇そのものだった。
「第四段階で、アメーバ状の影そのものになることができるわ」
「……すごいな」
率直にそう言うと、ミラーカはふっと笑った。
「でしょう?」
まったく隠す気のない自慢顔だ。
「影使いは、第二か第三段階を目指す形でいいかしら」
「第四は?」
「便利だけど、今のあなたには少し危ないわ。形を崩しすぎる術は、今の魂の安定には向かないもの」
その言い方に、俺は素直に頷いた。
次にミラーカは、手首を軽く返した。
影が元に戻る。
「血魔術も第四段階まであるわ」
彼女は自分の爪先で、すっと指先を傷つけた。にじんだ血が宙に浮く。
「第一段階は血液操作」
その血が空中で球になり、細く伸び、また一つに戻る。
「第二段階で、全身のどこでも吸血ができるようになる」
「口じゃなくても、ってことか」
「そういうこと。指先でも、掌でも、必要なら別の場所でもね」
さらっと言うのがミラーカらしい。
「第三段階は血の遡行をして、反応力や思考力を高める」
「遡行」
「血の巡りを意図的に書き換えるの。瞬間的に、自分をより速く、より鋭くできる」
それはかなり強そうだ。
ミラーカはさらに言う。
「第四段階は、離れている相手から血を吸い取ることが可能」
「……嫌な技だな」
「便利よ」
即答だった。
「これも第三段階を目指していきましょう」
最後に、ミラーカは俺の目を見た。
「畏敬術」
その一言だけで、少し空気が変わる。
「第一段階は、魅力的に見せる」
彼女がそう言った瞬間、妙な違和感が走った。
ミラーカの美しさが、一段強く見える。目を逸らしたくないような、もっと見ていたいような、そんな引力が生まれる。
「第二段階で、睨視することで相手に恐怖の感情を湧き立たせる」
彼女が少し目を細める。
それだけで、背筋に冷たいものが走った。敵意を向けられたわけではないのに、本能が一歩引きたがる。
「第三段階で、相手の感情をねじ曲げて、好意的な召使いにすることができる」
「……それはまた、だいぶ危ないな」
「ええ」
ミラーカは平然と頷いた。
「第四段階は、完全に尊敬、献身、恐怖を感じさせ、逆らう気もなくし、自分から従わせるようにする、というとんでもない術だわ」
「自分でとんでもないって言うんだな」
「とんでもないものは、とんでもないもの」
彼女は肩をすくめた。
「これは第二段階までできれば良いわ」
そこまで説明すると、ミラーカは俺に問いかける。
「どう? どれからやる?」
俺は少し考えた。
影使いも魅力的だ。だが今の俺にとって、一番切実なのはたぶん血だ。血への飢えを抱えたまま、それを制御できないのは怖い。なら、まずはそこからだ。
「血魔術を」
そう言うと、ミラーカは満足そうに頷いた。
「いい選択ね」
次の瞬間だった。
彼女の手に影の刃が生まれる。
「え」
そう思った時には、俺の腕が切り裂かれていた。
「っ……!」
熱い痛み。
血が、どっと滴り落ちる。
「な、何を……!」
俺が睨むと、ミラーカは涼しい顔で言った。
「戻して」
「戻してって……!」
「あなたの血で、あなたの傷を塞ぐのよ。第一段階の基本」
言っていることは分かる。分かるが、痛いものは痛い。
しかも集中できる状態じゃない。傷の痛みもそうだし、流れる血を見ていると本能の別の部分がざわつく。
「無理……だろ」
そう言いかけた瞬間、ミラーカがさらに浅く刃を入れた。
「っ、ぐ!」
血がさらに出る。
「このままでは血がなくなるわよ」
その声音だけが静かだった。
冗談ではないとすぐ分かる。
俺は歯を食いしばった。
戻せ。
血よ、戻れ。
頭の中で、ひたすらそれを念じる。
痛い。だが今ここで動かなければ、無駄に血を失うだけだ。意識を血へ向ける。流れを見ろ。自分の中から出たものが、どこへ落ち、どう広がるかを感じろ。
血よ、戻れ。
血よ、戻れ。
ずっとそう念じていた。
最初は何も起きない。
ただ赤い血が床へ落ちるだけだ。
だが、ある時、ほんの少しだけ血の筋が揺れた。
「……動いた」
思わず呟く。
「ええ、その調子」
ミラーカの声が入る。
さらに意識を向ける。
血よ、戻れ。
戻れ。
戻れ。
今度は確かに動く。床に落ちた血が細く集まり、這うように動き始めた。まるで生きているみたいに、俺の足元から傷口へ向かって伸びてくる。
「良いわ、その調子」
ミラーカが繰り返す。
俺はさらに集中した。
血が、体を這う。皮膚の上を登り、傷口へ戻ろうとする。正直気持ちの良い感覚ではない。だが、痛みを誤魔化す暇もなく、ただ必死で血を誘導した。
傷口に血が戻りきったのは、三時間後だった。
俺はその場に座り込みそうになるほど消耗していた。
ミラーカはすぐにヒールを唱え、傷を塞ぐ。
温かい光が腕を包み、切り口が消えていく。
「良いわね」
彼女は満足そうに言った。
「これをずっと続けて、練習するわ」
「ずっと、って……」
「ずっとよ」
笑顔が怖い。
だが、確かに効果はあった。俺は自分の血を自分で動かした。それは紛れもなく術だ。
少し休ませてもらった後、次は影使いだった。
ミラーカがまず見本を見せる。
影を大きくする。
小さくする。
自分の周囲へ影を集め、姿を視認されにくくする。
ただ暗くなるのではない。認識そのものから輪郭がずれていくような、そんな影のまとい方だった。
「じゃあ、あなたも」
ミラーカが言う。
「影を大きくしなさい」
俺は床の自分の影を見る。
「理屈は血が戻るのと同じよ。ヴァンパイアの血があるから、私たちは影を簡単に操ることができる、と思いなさい」
「思いなさいって……」
「思うの。術は理屈だけじゃ動かないわ」
なるほど。理屈より先に、自分の中の感覚を肯定しろということか。
俺は影を見つめた。
大きくなる。
影が広がる。
そう想像する。
最初はやはり何も起きない。
だが、ひたすら念じていると、一時間ほどで影がわずかに揺らぎ始めた。
「動いた……」
「そう」
ミラーカは短く頷く。
さらに続ける。
二時間ほど経った頃には、影を大きくすることも、小さくすることも、なんとかできるようになっていた。
まだ不安定だ。狙った通りの大きさにはならない。膨らみすぎたり、逆に消えかけたりする。だが、少なくとも動く。
ミラーカはそこで手を打った。
「とりあえず今日はこれまでで良いわ」
俺はほっと息を吐く。
血を三時間。影を二時間。頭がぼんやりするし、体も妙に重い。だが、確かな手応えがあった。
「……濃い一日だな」
「最初はそんなものよ」
ミラーカは楽しそうに言った。
「あなたは飲み込みが悪くないわ。ちゃんと伸びる」
「褒められてるのか、もっとやれって意味なのか分からんな」
「両方ね」
そう言って、ミラーカは笑った。
授業はそこで終わった。
だが俺の中では、確かに何かが始まっていた。




