第二十二話。
続いて入ってきたのは、二足歩行の狼だった。
最初に見た時、俺はほんの一瞬だけ目を疑った。
狼だ。だがただの狼ではない。人間と同じように二本の足で立ち、肩や胸の骨格もどこか人に近い。けれど、その全身は完全な肉体ではなく、半分ほど霊体じみて透けていた。毛並みの輪郭が時々揺らぎ、脚先は薄い霧に溶けるみたいに曖昧になる。存在しているのに、少しだけこの世からずれているような姿だった。
そいつは玄関の敷居をまたぐと、真っ先に俺を見た。
しげしげと、値踏みするように。
それから、狼面のまま、にやりと笑った。
牙が覗く。
だが、その笑みには敵意よりも、面白いものを見つけた時の軽さがあった。
「あんた、レイ・デ・リングバード王か」
声は低く、少しざらついている。だが不思議と聞き取りやすい。
「俺の曾祖父さんが世話になった。あんた、ラウレンスって名前に聞き覚えはないか?」
その名を聞いた瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
忘れるわけがない。
俺はほとんど反射で答えていた。
「忘れるものか」
狼は片耳をぴくりと動かす。
「俺の親友で戦友の傭兵で、ワーウルフの群れの長のラウレンスだろ?」
そう言うと、そいつは満足そうに鼻を鳴らした。
「そうだ」
それから胸を張るようにして言う。
「俺は曾孫のカダス。フェンリス族のカダスだ。今は訳あって、こんな姿にさせられてる」
最後のところは、苦笑まじりだった。
カダス。
ワイトロードだと聞いていたが、目の前にいるこいつは、ただの不死者というより、狼霊と死体と人が歪に混じり合ったような印象だった。
「ラウレンスは……」
俺は言葉を切ってから、改めて聞いた。
「あの後、どうなった」
カダスは少しだけ遠くを見るような顔をした。
狼の顔でどうやってそんな表情をするのか分からないが、確かにそう見えた。
「あいつは銀光血盟団を率いて、そのまま戦いの人生を送ったそうだ」
銀光血盟団。
懐かしい名だ。
ラウレンスが作った傭兵団。腕っぷしも忠義もある連中が集まり、どこへ行っても銀の稲妻みたいに戦場を駆け抜けると噂された一団だった。
カダスは続ける。
「人間の嫁と、狼の嫁に囲まれて死んだらしい」
俺は思わず笑った。
「ああ……そうか」
らしい。
いかにもラウレンスらしい最期だ。
「本望だったろうなあ」
しみじみと言うと、カダスは喉の奥で低く笑った。
「俺もそう思う」
それから、またにやりとする。
「と言うわけで、面白いから協力させてもらう。よろしく頼むぜ、クレイヴさんよ」
その言い方が妙に軽くて、少しだけ肩の力が抜けた。
「ああ。よろしく頼む」
俺がそう返すと、カダスは片手をひらひら振り、アンデルセンの案内で中へ入っていった。
玄関先に残された俺は、少しだけ息を吐く。
アドールの時と違って、今度はだいぶ気が楽だった。ラウレンスの名を知っている相手というだけで、こんなにも距離感が変わるのかと思う。
だが、まだ一人いる。
次に現れたのは、フルプレート姿の女性だった。
重厚な鎧。
頭部は兜で覆われていないが、肩から足先までほとんど隙のない装甲だ。装飾は少なく、実戦第一という雰囲気がある。動きに無駄がなく、立っているだけで鍛え抜かれた兵士の気配があった。
デスナイトのリアン。
たぶん、こいつだ。
彼女は玄関に入るなり、俺を一瞥した。
それだけだった。
一瞬だけ視線を合わせると、静かに黙礼する。
俺も小さく頭を下げた。
「リアンか?」
そう聞くと、彼女は短く答える。
「そうだ」
声は低く、落ち着いている。無駄な感情が乗っていない。
「よろしく頼む」
俺がそう言うと、リアンはほんのわずかに頷いた。
「あとで聞きたいことがある」
「何だ?」
「今はいい」
それだけ言って、また黙る。
なかなか会話が続かない。
俺は少しだけ困りながらも、どこかで懐かしさを覚えていた。前世でも、こういうタイプはいた。必要最低限しか喋らず、だがその分だけ筋が通っていて、戦場では誰より信頼できる手合い。
「……そうか」
俺がそう言うと、リアンはもうそれ以上何も言わず、中へ入っていった。
アンデルセンが静かに近づいてくる。
「これから顔合わせでございます」
「ああ」
俺は頷いた。
それぞれ理性と人格を持っている。
だから難しい。
少なくとも会話が成り立つ。だからこそ、雑には扱えない。丁寧に接しないといけないし、どこまで踏み込んでいいかも見極めなければならない。
アンデルセンに案内されて、俺は応接室へ入った。
暖色の壁にランプの灯りが落ちる部屋。だが今日は、そこに集まる面子のせいで空気がまるで違う。
ミラーカはいつも通り優雅に座っていた。
アドールはその横。骨の指先を組み、いかにも不機嫌そうにしている。
カダスは椅子ではなく、少し浮いたような姿勢で宙に寄りかかっていた。霊体じみた下半身のせいで、それが自然に見える。
リアンは椅子には座らず、その後ろで立っている。警護の騎士みたいだ。
俺はそんな彼らの前に座った。
妙な会議だな、と少しだけ思う。
王だった頃でも、ここまで統一感のない顔ぶれで卓を囲んだことはそう多くない。
沈黙を最初に破ったのは、アドールだった。
「ミラーカから話は聞いた」
骨の顎が動くたび、乾いた音がする。
「我らの呪いを解呪すること。それはお前の姿を見れば、お前にも必要だと分かる」
そこまでは淡々としていた。
だが、次の一言には棘があった。
「ただ一つ、聞きたい」
アドールの眼窩の青白い光が、俺を射抜く。
「お前が呪いから解放されたら、どうしたいんだ?」
俺は少しだけ目を細めた。
アドールはさらに続ける。
「また王になりたいとか言ったら、ワシは協力しない」
その言い方は、嫌味と警戒の半々だった。
俺はしばらく考えた。
昔の俺なら、もっと綺麗な答えを言ったかもしれない。民のために、とか、国のために、とか。
だが今は、そういう気分になれない。
「前世は女神の駒にされてた」
俺は率直に言った。
「だから、もうそうするつもりはない」
部屋の空気が少しだけ静まる。
俺はそのまま続けた。
「やるとしたら、自由に生きる者になるな」
王でもなく、神の使いでもなく、誰かの都合のいい駒でもなく。
ただ、自分で選んで動く。
それが今の俺にとっては一番大事だった。
アドールはしばらく黙っていたが、やがて短く言った。
「……わかった」
とりあえずは、それで十分らしい。
次に口を開いたのはミラーカだった。
「じゃあ、教えることの分担を簡単に言うわね」
彼女は楽しそうに指先を鳴らした。
「私が夜と血の力」
いかにも、という感じだ。
「アドールが魔法」
骨だけの顔が少しだけ不満げに歪んだが、否定はしない。
「リアンが近接戦闘」
リアンは無言のまま頷いた。
「カダスは神聖魔法……と言いたいけれど」
ミラーカがそこで、ちらりと俺を見た。
「お前はもう神はこりごりだろう?」
それを聞いて、カダスが狼面のまま肩をすくめる。
「まあな」
俺も苦笑した。
確かにそうだ。神聖魔法は便利だ。強いし、対不死者にはよく効く。だが、今の俺にとって神という単語そのものが、あまり気分のいいものじゃない。
カダスはそのまま言った。
「だったら占術と、俺らワーウルフに伝わる精霊術のいくつかを教える」
占術。
精霊術。
どちらも俺の小説にも出した。だが神聖魔法ほど体系立っていない分、使い手の感覚や相性が大きくものを言う術だ。
「面白そうだな」
俺がそう言うと、カダスは牙を見せた。
「だろ?」
ミラーカは椅子の背にもたれながら、俺を見た。
「あなたはこれから、四人にそれぞれ教わることになるわ」
「忙しくなりそうだ」
「忙しくなるわよ」
即答だった。
アドールがそこで口を挟む。
「まずは基礎から叩き込む。王だった頃の知識がどれだけ残っていようが、今のお前はレベル1の半端者だ」
「分かってる」
「ならよろしい」
骨のくせに、妙に教師じみた言い方だった。
リアンも初めて少し長く喋った。
「体の使い方は、変わっているはずだ。今のお前の体で戦う方法を覚え直す必要がある」
「……ああ」
それは本当にそうだ。
前世の記憶があろうが、今の肉体は別物だ。剣を振る感覚も、間合いも、速度も、全部が違う。鉤爪が短くなったとはいえ、今の俺は人と吸血鬼と呪いの混じりものだ。
「後で確認する」
リアンはそれだけ言って、また黙った。
カダスは顎に手を当てるみたいな仕草をした。
「占術は焦らなくていいが、精霊術は相性を見ないと分からん。まあ、試してみりゃいい」
ミラーカが笑う。
「こんな感じね。楽しみでしょう?」
「楽しみ半分、怖さ半分だな」
俺がそう答えると、アドールがぼそりと言った。
「半分で済んでるだけ、大したものだ」
それが嫌味なのか感心なのか分からず、俺は少しだけ肩をすくめた。
だが、こうして話していると分かる。
四人とも癖は強い。強すぎるくらいだ。
それでも、少なくともこの場では俺を完全な部外者扱いはしていない。使える駒、協力者、呪いを解くための手足。立場の呼び方は色々あるだろうが、とにかく会話の席には着かせてくれている。
それだけで、今は十分だった。
俺は静かに息を吐き、改めて四人を見回した。
ミラーカ。
アドール。
カダス。
リアン。
理性を持った怪物たち。
そしてその前に座る、元王で、今はダンピールのクレイヴ。
ひどく歪な集まりだ。
だが、この歪さの中にしか、俺の生きる道はないのだろう。
俺は椅子に座り直し、はっきりと言った。
「じゃあ、改めて頼む」
四人の視線が集まる。
「俺に、力を貸してくれ」
その言葉に、最初に笑ったのはカダスだった。
「面白くなってきたな」
アドールは鼻を鳴らす。
「せいぜい使い潰されんようにすることだ」
リアンは短く頷く。
「努力しろ」
そしてミラーカは、満足そうに目を細めた。
「ええ。ここから始めましょう、クレイヴ」




