第二十一話。
次の日、俺は昼まで眠りこけていた。
目が覚めた時、最初に思ったのは、静かだ、ということだった。
あのストーカーだった頃の、喉の奥を焼くような渇きも、骨の中を掻きむしるような痛みも、頭の裏側でずっと唸っていた狂気も、今は遠い。完全に消えたわけではない。底の方に薄く残っている気配はある。だが少なくとも、目を開けた瞬間に自分を繋ぎ止めるために渇望と唱え続けなければならないほどではなかった。
その事実だけで、ひどく肩の力が抜けた。
俺はベッドの上でしばらく天井を見ていた。
豪奢な天井だ。模様が彫られ、角には小さな花の飾りがある。こんな屋敷に閉じ込められているのに、その豪華さが妙に現実感を薄める。だが、薄めたところで現実は現実だ。
俺はクレイヴだ。
ストーカーの呪いを抱えたまま、ダンピールになった男だ。
そして今は、ミラーカの継子として、この十六階の理性ある不死者たちの呪いを解くための道具……いや、協力者というべきか、とにかくその立場にいる。
そこまで頭の中で整理してから、ようやく起き上がった。
用意されていた食事は、簡素だが温かかった。パンに、薄く味のついた肉の煮込み、刻んだ果実。俺はそれを黙々と食べる。
食べながら、女死体たち……いや、もうそう呼ぶのも少し違う気がしていた。だから食後、俺は一人の女死体に鑑定を使った。
結果はすぐに出た。
グール。
そう表示されていた。
種族名として、はっきりと。
俺は少し目を細める。やはりただの死体ではなかったらしい。鑑定を続けて読むと、対象になった人間にヴァンパイアの血潮を混ぜて作られている、とあった。
さらに、グールとヴァンパイアは血の契りを交わしており、熱狂的な忠誠を示す、と。
「……熱狂的、か」
思わず小さく呟く。
確かに、あの無言の働きぶりはただの使役ではなかった。機械みたいに従っているが、単なる命令系統では説明できない一体感があった。血による契約。なるほど、それなら納得はいく。
続けて読める部分を追う。
グールはグールであり続けるために主人の血が必要で、それを失うと崩れるらしい。普通のグールには食事はほとんど必要がない、とも書いてある。
だがミラーカは、きちんとグールたちに食事を与えていた。
そこまで読んだところで、さらに理由が表示された。
それは、グールたちの血を飲むため。
俺は少し黙った。
人間がほとんど入ってこない十六階では、人間の血を継続的に確保するのは難しい。だから、グールに食事を与え、その血を保ち、それを利用する。吸血鬼側にとっても、グール側にとっても、ある種の循環なのだろう。
「ミラーカもミラーカで、苦労してるんだな」
そう思った。
もちろん、だからといって彼女が善人という話ではない。俺を助けたのだって、最終的には自分の目的のためだ。それでも、この迷宮で血を維持し、眷属を維持し、屋敷と仕組みを保っていくのは相応に大変なのだろう。
グールの個体ごとにもう少し見ていくと、戦闘能力もなかなか多彩だった。
守護兵として優秀、と言ってよさそうだ。腕力だけの存在ではなく、連携、追跡、拘束、護衛、そういった役割に合わせて技能が積まれている。昨夜、俺を抱えたり、洗ったり、爪を切ったりしていたあの器用さも納得がいく。
ただ、潜在能力のような部分までは読み取れなかった。
「やっぱり、今の鑑定は第二段階か」
自分でそう確認する。
物は読める。自分や他者のステータスは読める。だが、その奥……潜在や由来の深い部分までは届いていない。
鑑定能力も上げないとな。
その思いは強くなった。
次に、アンデルセンにも鑑定をかけさせてもらった。
本人は少しも嫌がらなかった。むしろ興味深そうに俺を見ていた。
結果は、さすがと言うべきだった。
アンデルセンは第八世代のヴァンパイアだった。
「第八……」
前世で戦ったヴァンパイアは、第九世代だったはずだ。あの時でさえ十分厄介だった。それより一つ上ということは、単純に考えてかなり強い。
実際、ステータスも化け物じみていた。
四百を超える数値がいくつもある。
生命力も魔力も敏捷性も、いちいち俺とは別世界だ。今の俺が真正面からどうこうできる相手ではない。アンデルセンが穏やかな執事のように振る舞っているから忘れそうになるが、こいつも立派な怪物だった。
「アンデルセンさん、あんたかなり強いな」
俺がそう言うと、アンデルセンは少しだけ口元を緩めた。
「嗜み程度でございます」
「その嗜みで普通の人間は千切れ飛ぶだろ」
「比較対象によります」
そう言ってしれっとしている。こういうところが腹立たしい。
食後、手持ち無沙汰になって俺はアンデルセンへ読み物を頼んだ。
「何か、本はないか」
「ございますが……あまり専門的でない本は、そう多くありません」
そう前置きされて出てきたのは、料理本だった。
俺は思わず笑ってしまった。
「料理本かよ」
「比較的、穏当でございます」
確かにそうかもしれない。魔導機械の設計書や、死霊術理論の論文を渡されるよりはよほどましだ。
ただ問題が一つある。
書かれている文字が、俺の知っている言語ではない。
前世の記憶が戻りつつあるとはいえ、まだ完全ではない。読み慣れた文字ではないと、どうしても引っかかる。
だから俺は鑑定を使って内容を読み取ろうとした。
だが、うまくいかない。
いや、まったく読めないわけじゃない。表紙の料理名や、一部の素材名は分かる。だが本文の細かな説明になると、途端に霧がかかったみたいに曖昧になる。
「……やっぱり、最盛期よりだいぶ劣ってるな」
前世の俺……レイだった頃なら、この程度の文書はほとんど問題なく読めた記憶がある。だが今の俺は、まだそこまで達していない。
逆に言えば、訓練の余地がある。
鑑定を繰り返し使い、少しずつ読める範囲を増やしていけば、段階は上がるはずだ。設定上もそうしていた。読む。見抜く。解釈する。そうした積み重ねが鑑定を育てる。
だから俺は、この訓練を続けることにした。
料理本を開き、題名を読み取り、素材を追い、また次の頁へ。精神点の消耗を見ながら、無理のない範囲で繰り返す。地味だ。だが、確実に意味はある。
ミラーカは今日は会えなかった。
アンデルセンの話では、何か作り物に精を出しているらしい。いかにも彼女らしい。銃を嬉々として見せてきた顔を思い出して、少しだけ笑ってしまう。
そして翌日。
俺はかなり早く目が覚めた。
精神の状態は、昨日よりさらに良い。
起き抜けに鑑定してみても、精神点は前よりちゃんと回復していた。まだ完全とは言えないが、少なくとも「眠っても戻らない」という最悪の状態ではなかったらしい。それだけでかなり安心する。
今日は、三人の客が来る日だ。
リアン、アドール、カダス。
ミラーカの仲間たち。
俺は食事を軽く済ませると、玄関近くで待つことにした。部屋の中でぼんやりしているより、落ち着かなかったのだ。どんな連中が来るのか、気になって仕方がない。
やがて、気配がした。
重々しいわけではない。だが、ただ者ではない存在感だ。
最初に姿を見せたのは、ローブ姿の老人だった。
痩せている。
いや、痩せているというより、肉がない。
顔は骸骨だった。
完全に骨だけの頭部に、深いフードがかかっている。だが目の部分には青白い光が宿り、ただの骨ではないと分かる。ローブも古びているようでいて、妙に整っていた。
「リッチのアドール……か」
俺が心の中でそう当たりをつけたのと同時に、その老人……アドールは俺の方を見た。
そして開口一番、吐き捨てるように言った。
「お前があのクソ王か」
「……いきなりだな」
俺は少しだけ眉を上げたが、相手は本気で不機嫌そうだった。
「以前はそうだったかもしれないが、今は違う」
俺がそう返すと、アドールは骨の顎をぎしりと鳴らした。
「お前のおかげで、私の研究は異端とされたのだ」
その言葉に、俺は一瞬黙る。
前世の記憶の断片を探る。レイだった頃、王として禁忌研究や危険な術式に規制をかけたことは何度かあった。その中に、死霊術や魂魄研究への締め付けもあったはずだ。
こいつは、その被害者側か。
「……それは、すまん」
俺は率直にそう言った。
開き直る理由はない。昔の俺に事情があったとしても、こいつにとっては人生……いや、生涯の仕事を潰された側なのだろう。
アドールはしばらく、ごにょごにょと小さく何か言っていた。
文句なのか、呪詛なのか、独り言なのか分からない。だが、露骨に攻撃してくる様子はない。
そこへアンデルセンが現れ、深く一礼した。
「アドール様、どうぞこちらへ」
アドールは俺をもう一度、じろりと見た。
青白い光の宿る眼窩が、嫌なくらい知性を感じさせる。
そしてそのまま、アンデルセンの案内で中へ入っていった。
俺はその背を見送りながら、小さく息を吐く。
「……先が思いやられるな」
リアンもカダスも、こんな感じならなかなか大変そうだ。
だが同時に、少しだけほっともしていた。
少なくともアドールは、ちゃんと会話のできる相手だった。
嫌味で、根に持っていて、いきなりクソ王呼ばわりはしてきたが、それでも理性も意志もある。そういう相手となら、まだやりようはある。
俺は玄関の方へもう一度視線を戻した。
次は、誰が来るのか。




