第十九話。
眠りの底で、俺は少しずつ変わっていく自分を感じていた。
最初に訪れたのは、痛みの鈍麻だった。
これまでずっと俺の内側を齧っていた苦痛。喉の奥から腹の底までまとわりついていた飢え。骨の内側を引っかくみたいな不快感。そうしたものが、一枚ずつ薄皮を剥がされるように遠のいていく。
完全に消えるわけじゃない。
だが、鈍くなる。
和らぐ。
その感覚は恐ろしいほど甘美だった。
同時に、まるで母の手に抱かれているような優しい感覚があった。温かく、柔らかく、抗わなくていいと囁くような抱擁。だがその反対側では、父の手で離されるような冷たい感覚もある。突き放されるような、切り分けられるような、旧い何かから剥がされていく感覚だ。
愛されながら切断されるような、奇妙な両立。
銀の糸は絶えず俺を愛撫していた。
腕から、脚から、首筋から、胸から。
細いのに確かで、冷たいのに親密で、俺の中へ深く入り込んでいく。そしてその奥から、温かくてぬるいものを全身に送ってくる。血液に似ているのに、もっと濃密で、もっと意志のある何か。
それが体を巡るたび、俺の肉体は浮遊しているような感覚を覚えた。
椅子に座っているはずなのに、どこにも接していないような妙な軽さがある。上下も前後も曖昧になり、時の概念すら失われていく。数分が数時間にも思え、数時間が一瞬にも感じられた。
どれほどそうしていたのか分からない。
やがて、俺の体は痙攣した。
びくり、と強く。
続いて、全身の筋肉が一斉に引き絞られたような感覚が走る。
その瞬間、俺は獲得したのだと分かった。
美しさを。
それは人の言う端正さや愛らしさじゃない。
もっと超現実的な意味での美しさだった。
肉食動物の優雅さ。
獲物を追うために最適化されたしなやかさ。
闇の中でだけ完成する均衡。
見た者に寒気を覚えさせる類いの、捕食者の美しさだった。
「……っ、あ……」
俺の口から、苦悶の声と恍惚の声が同時に漏れる。
苦しい。
だが甘い。
壊されている気もするし、作り直されている気もする。
その最中、機械がその内部から何かを紡ぎ出しているのが分かった。
音ではない。
感覚だ。
内側で、見えない織機が動くみたいに、何かが糸のように編まれていく。そしてそれが、俺の体の一部に実体化した。
血なのか、臓器なのか、別の機構なのかは分からない。
ただ、それが新しい継ぎ目になったことだけは分かる。
魂と肉体が、その何かによって繋ぎ止められた。
今まで擦り切れかけていた俺の輪郭が、そこでもう一度結び直される。
やがて意識がゆっくり浮上を始めた。
眠りは浅くなる。
沈んでいたものが上へ押し上げられていく。
その途中で、俺はぼんやり考えていた。
これから俺は、食餌の方法を学ばなければならない。
血を。
口から吸い上げるのか。
それとも、女が言っていた口から吸わない方法で摂取するのか。
飢えは、もうすぐそこに来ている。
前の飢えとは違う。
もっと尖っていて、もっと明確で、対象の輪郭がはっきりしている飢えだ。
そんなことを考えていると、機械のシューッという音がやけに大きく聞こえ始めた。
現実へ戻ってきたのだと分かる。
ヘルメット越しに、気配を感じる。
女。
燕尾服。
女死体たち。
その存在が、視界がなくても分かった。
ふいに、口の中が疼いた。
犬歯だ。
抜けるような鈍い違和感のあとに、新たな鋭さが生まれる。長さ自体は大きく変わらない。だが質が違う。今の俺は、それで犠牲者の皮膚を容易く割き、血を吸うことができるだろう。
そんな思いが、ごく自然に浮かぶ。
ぞっとする。
だが同時に、理性も戻ってきていた。
今はいつでも好きに噛みついていいわけじゃない。
時と場所を選ばなければならない。
それがはっきり分かる程度には、俺はまだ俺だった。
身じろぎをする。
するとヘルメットが自動的に上がっていった。
暗闇が晴れる。
続いて、銀の糸がちくちくとした痛みを残しながら外れていく。腕から、脚から、首筋から、順番に抜けていくたび、そこへ冷気が触れるような感覚があった。
金のバンドもほどけた。
自由になる。
目の前に、女と燕尾服の顔があった。
二人とも、笑っていた。
その瞬間だった。
ふと、二人の名前が頭に浮かんだ。
何の前触れもなく、しかし確信を伴って。
「……ただいま、ミラーカ、アンデルセン」
自分でも驚くほど自然に、その名が口をついた。
女……ミラーカが、ゆっくりと微笑む。
「おかえりなさい、クレイヴ」
燕尾服の男……アンデルセンは、深く一礼した。
「こちら側へようこそ、クレイヴ様」
その言葉に、胸の奥がざわつく。
こちら側。
確かに俺は、もう前と同じ側にはいない。
俺は機械から立ち上がった。
体は軽かった。
飢えはある。
だが、これまでの衝動や狂気や痛みは、ほとんど感じない。あったとしても、遠くに薄く残る程度だ。あの喉を焼くような渇きも、腹を引っ掻くような苦痛もない。
残っているのは、血への飢えだけだ。
それは前よりも澄んでいた。
アンデルセンが、すぐにワイングラスを差し出す。
中に入っているのは、赤い液体。
ワインではない。血だ。
それが分かった瞬間、俺は喉の奥で唾液が一気に溢れるのを感じた。よだれが垂れそうになる。醜いと思う暇もないほど、体が正直に反応していた。
俺はグラスを受け取る。
少しだけためらったあと、飲んだ。
「……っ」
恍惚感が、全身を走った。
酒とは違う。
食事とも違う。
熱いものが喉を通り、胸の中で花開くような感覚。筋肉がほどけ、意識が冴え、同時に深いところが満たされる。怖いくらい、気持ちがいい。
「どう?」
ミラーカが面白そうに聞く。
「それが、血を飲むっていうことなの」
俺はグラスを見たまま、小さく息を吐いた。
「……悪くない」
そう思ってしまった。
その事実が少し怖かった。
ミラーカはくすりと笑う。
「あなたはダンピールだから、始終飲まなくてもいいわ。たまに飲めばいいのよ」
「たまにって、どれくらいだ?」
「二週間に一度くらいかしらね」
そこで彼女は少し考えるように視線を流した。
「ただ、あなたには吸血鬼の独自の技も伝授する予定だから、もう少し短い間隔になるわ」
俺は黙って頷いた。
二週間に一度。
それが重いのか軽いのか、今はまだ判断がつかない。
だが、さっきまでの限界寸前の状態を思えば、受け入れるしかない条件でもあった。
「……そうか」
そう言ってから、俺はグラスをテーブルへ戻した。
そして、ミラーカを見た。
「仕事の話をしよう」
ミラーカは満足そうに頷く。
「そうね」
彼女は俺を、あの応接室へと連れていった。
暖色の壁。
優雅な家具。
ランプの灯り。
数日前……いや、体感ではもっと前の話のように思えるが、最初に通されたあの部屋だ。そこでミラーカはゆったりと腰を下ろし、俺にも座るよう促した。
「まずは、この世界へようこそ」
俺は皮肉でも返そうかと思ったが、やめた。今は無駄だ。
ミラーカはそのまま続ける。
「仕事を始める際に、いくつかの掟を教えるわ」
掟。
その言葉に、俺は自然と背筋を伸ばした。
ミラーカは指を一本立てる。
「まず、父母殺しは御法度」
「父母殺し……?」
「自分を生んだヴァンパイアを殺すことよ。殺しをすれば、誰にでも分かるように身体に徴が刻まれるわ」
その言い方は穏やかなのに、内容は冷たい。
「そうなれば、他のヴァンパイアに狩られる対象になる」
俺は頷く。
つまり、眷属が親を殺すことは大罪だ。
ミラーカは二本目の指を立てた。
「勝手に子供を作ることは厳禁。私のような長老にお伺いを立てなさい」
「長老……」
「その辺りはおいおい教えるわ」
三本目。
「都市には大抵、ヴァンパイアのコミュニティがあるわ。都市に入ったら、必ず長老を探し出して挨拶すること」
「面倒だな」
「秩序よ」
即答だった。
「子供をもし作ることがあったら、その子に責任を取って育てて、何かあれば自分で処理すること」
そこまで言って、ミラーカは少しだけ目を細めた。
「長老がどんな者を指すのかは、そのうち教えるわ。とにかく、あなたはこのミラーカの継子なのだから、それを意識した行動をしなさい」
継子。
その言い方は、眷属よりも少しだけ家族に近い響きがある。だが油断はしない。これはあくまで関係の枠組みであって、優しさの証明ではない。
俺はその辺りを胸の中で整理しながら聞いた。
「……で、仕事は?」
ミラーカは、そこでほんの少しだけ真顔になった。
「私には、三人の仲間がこの十六階にいるわ」
その言い方からして、ただの取り巻きではないのだろう。
「デスナイトのリアン。リッチのアドール。ワイトロードのカダス」
一人ずつ、ゆっくり名を置く。
「それに私。この四人にかかっている呪いを解くこと」
それが。
彼女が俺に与える仕事だった。




