第十八話。
「具体的に、何をするんだ?」
俺がそう聞くと、女はワイングラスの脚を指先で軽くなぞりながら、少しだけ考える素振りを見せた。
「そうね。普通に血を啜って吸血鬼にする方法は使わないわ」
その言い方に、俺は眉をひそめる。
普通に血を啜って、という言い方がさらりと出てくるのが嫌だった。だが女は気にした様子もなく続ける。
「私の血を増やしたものを、今のあなたの血と入れ替えてもらう方法を使うわ」
「……どういうことだ?」
女はグラスを置いた。
「吸血鬼にする時、本来は一度、霊的な死を与えるの。人としての境界を越えさせて、夜の側へ引き込む。その過程で新しい血が根を張るのよ」
そこまで言って、女は少しだけ首を傾けた。
「でも、今のあなたにはそれができないわ。霊的な死を与えた瞬間、あなたはストーカーの呪いに完全に呑まれてしまうもの」
俺は黙った。
確かに、今の俺はぎりぎりのところで理性を繋いでいるだけだ。そこへ更に死の境界をまたぐような刺激を加えれば、どうなるかくらいは想像できる。
女は静かな声で説明を続ける。
「代わりに、丸二日、機械に座ってもらうの。私の血が入った血を少しずつ体に入れて、吸血鬼の要素をあなたの中へ根づかせる。そうしながら、ストーカーの衝動を抑えていくのよ」
「二日……」
「ええ。あなたはそのまま座っているだけでいいわ。眠っている間に進むようにするから、苦しみはかなり抑えられる」
かなり、という言い方が気になった。
女はそれを読んだみたいに、わずかに口元を上げる。
「衝動や苦痛や飢えからは解放されるわ」
そこで一拍置いて、さらりと言った。
「別の飢えは来るけれどね」
嫌な言い方だ。
だが、もうその程度で怯む段階でもない。
俺は女を見た。
「なぜ、そこまでしてもらえるんだ?」
女のような存在が、何の理由もなく俺を助けるとは思えない。むしろ、何かを要求されるのが自然だ。
女はその問いに、今度は少しだけ真顔になった。
「私も、呪いを受けた身だから」
その一言には、作りものめいた響きがなかった。
「あなたは呪いを解きたいように、私も呪いを解きたい。それには協力してもらうことが必要なの」
「俺に?」
「ええ。あなたには処置の後、それが叶えられるよう動いてもらうわ」
女はそこで目を細める。
「ただじゃないわよ」
俺は小さく息を吐いた。
そうだろうな、と思う。そうであってほしいとすら少し思った。見返りもなく救われるなんて、今の状況ではかえって不気味だ。
「わかった」
俺は言った。
「協力する」
女はそれを聞いて、満足そうでも安心したようでもない、妙に静かな顔で頷いた。
「いい返事ね」
「ところで」
俺はそこで気になっていたことを口にした。
「名前は?」
女はわずかに笑った。
「あなたが処置を終えてから名乗るわ」
「もったいぶるな」
「順番は大事よ」
そう返されて、俺は肩をすくめるしかなかった。
だが女は、そこで話を終わらせなかった。
「それより、あなた」
「何だ」
「名前を決めなさい」
「名前?」
俺が聞き返すと、女は頷く。
「名前のない者は、色んなものの影響を受けやすいわ。あなたは今、半端な状態にいる。人でもなく、怪物でもなく、王でもなく、ただ剥き出しの魂に近い」
その言葉は、妙に腑に落ちた。
確かに今の俺は、地球での俺でも、完全なレイでも、ただのストーカーでもない。境界の上に立っている感じがある。
女は少しだけ考えるように視線を上げ、それから言った。
「あれなんてどうかしら。あなたが唱えている、『渇望』っていう名前」
俺は目を瞬かせた。
女は続ける。
「渇望する、という言葉はクレイヴと言うわ。クレイヴなんてどうかしら」
クレイヴ。
口の中で転がす。
音が短くて、鋭い。悪くない。何より、自分を繋ぎ止めるために何度も唱えてきた言葉が、そのまま名になるというのは、妙にしっくりきた。
何者かになりたい渇望。
失いたくない理性。
生き残りたいという欲。
その全部が、その音に入っている気がする。
「……クレイヴ」
もう一度言ってみる。
いい響きだった。
「それにする」
女は満足げに頷いた。
「いい名前ね」
俺は少しだけ口元を緩めた。
こんな場所で、こんな状態で、名前一つ決めただけなのに、不思議と少しだけ輪郭が戻った気がした。
俺はクレイヴだ。
少なくとも今は、そう名乗る。
女は立ち上がった。
「じゃあ、この後、機械に座ってもらうわね」
俺は黙って頷く。
「準備ができるまで、食事を楽しむといいわ」
そう言って、女は部屋を出ていった。
しばらくすると、テーブルに食事が並べられた。
サラダ。
肉。
炒めたライス。
昨日より少しだけしっかりした食事だ。湯気が立っている。匂いもちゃんといい。
俺は席に着き、少しだけぼんやりとその皿を見た。
この屋敷の空気や女死体たちの無言の働きを見ていると、まともな食事が出てくることそのものに未だに違和感がある。
俺は肉を口に運びながら、脇に控えていた燕尾服の男へ聞いた。
「野菜と肉と米、どうやって手に入れてるんだ?」
男は一礼してから答える。
「米と野菜は、他のこの階層にいる者たちと交易して手に入ります」
「交易……」
「はい。肉は下の階へ取りに行きます」
「下の階って」
「十七階より下です」
俺は少しだけ目を見開いた。
なるほど、と思う。理性ある不死者がいるなら、食料の流通があってもおかしくはない。むしろ、この女がこの屋敷を維持しているなら、そういう仕組みがある方が自然だ。
俺は炒めたライスを噛みしめた。
米の感触が妙に懐かしい。地球のものとも違う気がするが、それでも穀物の温かさは安心をくれる。
食事を終え、お茶を飲んでいると、女が戻ってきた。
「では、案内するわね」
俺は立ち上がった。
女が先導し、俺はそのあとを歩く。燕尾服の男は少し後ろについた。
連れて行かれたのは、昨日の心理テスト装置のある部屋だった。だが、その横には新しい椅子が置かれていた。
ただの椅子じゃない。
アームチェアだ。
赤と金と黒を基調にした、精緻な薄い浮き彫りが各所に施された椅子。肘掛けには蔦のような模様、脚には獣の爪のような意匠、背もたれには夜空めいた文様が走っている。頭上には、美しい彫刻が施されたヘルメットが待ち構えるように吊られていた。
ぞっとするほど美しかった。
俺はその前で一瞬立ち尽くした。
女が優しく、だが逆らわせない声音で言う。
「座って」
俺は従った。
椅子に腰を下ろすと、体が妙にしっくり収まる。座り心地が良いことが逆に不気味だ。
女と燕尾服の男が、俺の腕をそっとアーム部分へ乗せた。
その途端、繊細な銀の糸のようなものが、腕のあちこちに触れてきた。
「……っ」
ちくり、とした痛み。
一度ではない。何本も。細い糸が皮膚を探るように刺さってくる。血管を探しているのだろうと直感で分かった。
次いで、金のベルトがするりと現れ、俺の腕を固定した。
反対の腕も同じだ。
足首にも、腿にも、ベルトが巻き付く。足元もまたちくちくする。どうやら足にも銀糸が入っていくようだった。
そして頭上のヘルメットがゆっくり降りてくる。
俺の頭を包む。
視界が、真っ暗になる。
暗い。
だが、恐怖で目を見開いても何も見えないほどではない。どこか奥に、ごくごく薄い赤い光がある気がする。
女の声がした。
近いようでいて、少し遠い。
「クレイヴ。寝ている間に終わるわ」
クレイヴ。
そう呼ばれると、少しだけ自分が定まる気がする。
女は続けた。
「次に起きてきた時は、新たな生活が始まるわ」
俺は暗闇の中で、小さく答えた。
「……わかった」
少しだけ沈黙があった。
それから、女の声が低く、美しく響いた。
「疾く、眠れ。魔法を聴け。スリープ」
その言葉が耳に触れた瞬間、まぶたのない場所にまで眠気が広がった。
急激だった。
意識が、重くなる。
抗う気も起きないほど自然に、深いところへ沈められていく。
眠りに落ちながら、俺は機械がスーッと息を吐くような音を立て始めるのを聞いた。
その音は静かで、冷たくて、どこか優しかった。
俺はそのまま、暗い深みへ沈んでいった。




