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第十七話。

女は俺の対面に静かに腰を下ろした。


その動作には無駄がなかった。ガウンの裾が揺れ、オレンジ色がランプの灯りを受けて燃えるように見える。燕尾服の男がすぐ横に控え、優雅な手つきで飲み物を差し出した。


女の前には、血のように赤いワイン。


俺の前には、湯気の立つ茶だった。


その対比が、妙にいやらしかった。


女はワインをグラスごと軽く持ち上げると、香りを確かめるようにほんの少し傾け、それから一口含んだ。飲み方まで絵になっているのが腹立たしい。だが、その優雅さの向こうにあるものが人間ではないと、今の俺にははっきり分かる。


女はグラスを戻し、俺を見た。


「元王様。あなたには今宵、選択肢が二つあるわ」


俺は黙ってその先を待った。


「理性を失って処分される道と、理性を保つために私の眷属となる道。その二つしか、あなたを救うことができないの。どうする?」


言っていることがあまりにも直接的で、逆にすぐには意味が入ってこなかった。


処分。


眷属。


どちらもろくでもない単語だ。


俺は眉を寄せる。


「……どういうことだ?」


ようやく口を開くと、女はくすりと笑った。


「ようやく話してくれたわね」


からかわれているようで癪だったが、今はそんなことに構っている場合じゃない。


女はグラスを指先で回しながら続ける。


「あなたは、自分が思うよりずっと化け物化が止められなくなっているの。擦り切れそうになっていると言ってもいいわ」


その言葉に、俺は思わず自分の指先を見る。


短く整えられた鉤爪。


ローブの下にある青白い皮膚。


そして、ずっと燻り続けている衝動。


否定できない。


女は俺の顔色を確かめるように見つめたまま言う。


「あなたは理性を保つために、ここへ来た。私はあなたの理性を保つ方法を知っている。でも、それはあなたを別のものに変えることになるの」


「別のもの……」


喉が乾く。


だが、その乾きはさっきまでの渇きとは少し違っていた。嫌な予感を飲み込む前触れみたいな乾きだ。


「それは可能かしら?」


俺は少し黙ってから聞いた。


「……俺は何になる」


女は、まるで最初からその質問が来るのを分かっていたみたいに、すぐ答えた。


「不死者と人間の合いの子ね。ダンピールと言って過言ではないわ」


その単語に、心臓が強く跳ねた気がした。


ダンピール。


俺の小説にも出てきた存在。


吸血鬼と人間の合いの子。呪われた血を受け継いだ人間。夜の力を引き継ぎながら、人間にも吸血鬼にもなりきれず、その狭間を生きる者。


俺が、それになるのか。


女は静かに俺を見ている。


冗談を言う顔ではなかった。


俺は無意識に唇を噛んだ。


「……ストーカーの呪いはどうなる?」


それが一番肝心だった。


理性を保つ代わりに別の化け物になる。そこまではまだ分かる。だが、元の呪いが消えないなら、それは単なる上塗りじゃないのか。


女はあっさり答えた。


「それは変わらないわ」


その一言が重かった。


「一定時間。そうね……一年か、二年は保つわ。そのあと、また私のところに来て処置する必要があるわね」


「処置……」


「ええ。呪いを解かねば、あなたが一生ストーカーのままなのは変わらないわ」


結局、根本解決ではない。


理性を保つための延命だ。


だが、その延命がなければ今ここで終わる。


そこまで思った時、またあの衝動が、体の奥から湧き上がってきた。


喉の渇き。


肉への欲。


目の前の女に対する、どうしようもなく歪んだ飢え。


俺は顔をしかめた。


女はそれを見て、俺の前の茶を顎で示す。


「お茶を飲みなさい。それでしばらく正気を保てるから」


俺は少し迷ったが、結局カップを取った。


香りは甘いようでいて、奥に苦みがある。薬草茶のようでもあり、花の香りのようでもある。一口飲む。


「……っ」


思った以上に強い味だった。


だが、不味くはない。


飲み込んだ瞬間、頭の奥にかかっていた熱が少しだけ和らぐ。喉の渇きも、腹の底の衝動も、完全ではないが一段階薄くなった。


女は満足そうに微笑んだ。


「明日の朝、返事をしてちょうだい」


そう言って立ち上がる。


グラスの中の赤が、灯りを受けて揺れた。


「考える時間くらいはあげるわ」


女は部屋を出ていった。


残された俺は、お茶をもう一口飲んだ。


燕尾服の男がすぐに言う。


「ご案内します」


俺は黙って立ち上がった。


さっきまであれほど強かった衝動が、だいぶ和らいでいる。完全に消えたわけじゃないが、少なくとも会話が成り立つ程度には収まっていた。


別の部屋に案内される。


そこは先ほどの応接間とはまた違う、私室めいた場所だった。だが長居する間もなく、今度は女死体が数体、中へ入ってきた。


嫌な予感がした。


次の瞬間には、もう抱え上げられている。


「お、おい」


抗議しようとしたが、女死体たちは無言のまま俺を運んだ。


連れて行かれた先は、浴室だった。


湯気が立ち込めている。


大理石めいた床。深い浴槽。壁には暗い色のタイルが貼られ、その中を赤い筋がゆっくり流れている。豪奢なのに、どこか生き物の内臓みたいな不快さがある。


女死体たちは容赦なく俺のローブを脱がせた。


「待っ……」


言い終える前に、湯の中へ沈められる。


熱い。


だが耐えられないほどではない。むしろ、冷え切っていた体の芯に熱が染みてくる感覚があった。


そして引き上げられると、今度は体を洗い始めた。


腕。


肩。


背中。


胸。


脚。


無言で、てきぱきと。


死体に洗われているという状況そのものは悪夢みたいだったが、不思議なことに、湯の温かさと、こびりついていた汚れが落ちていく感覚に、少しだけ気が緩んだ。


もう一度浴槽へ沈められる。


しばらく浸かってから引き上げられ、今度は体を拭かれた。


そのあとに着せられたのは、柔らかな絹のシャツとズボンだった。


肌触りがいい。


あまりに人間らしい着衣で、一瞬だけ自分が化け物であることを忘れかける。


再び部屋へ戻されると、テーブルには食べ物が並べられていた。


肉。


パン。


スープ。


簡素な献立だ。だが、湯気が立っている。その隣には、さっきと同じ茶も置かれている。


俺は自分で食べるのかと思ったが、違った。


女死体たちが機械的に食べ物を持ち上げ、俺の口へ運んできた。


「……自分で食える」


そう言ったが、聞いていないのか、聞くつもりがないのか、無言のまま続ける。


結局、俺はされるがままに食べさせられた。


肉は柔らかかった。パンは温かく、スープは薄味だったが胃に染みた。どれも普通の食事だ。普通であることが、今は妙にありがたい。


食べ終わると、俺はそのままベッドに寝かされた。


柔らかい。


清潔なシーツ。


天蓋こそないが、十分に豪華な寝台だ。


横になると、そこでようやく考える余裕が出てきた。


ダンピールになった後のこと。


俺は血を欲する生活をしなければならないのか。


血を飲んで生きるのか。


人間の血を?


それとも別の方法があるのか。


それでも、確かに一つだけ分かることがある。


女の言う通り、俺の限界は近い。


精神点は削れ、衝動は強まり、鑑定を使うだけで意識が落ちた。あのままなら、俺は遅かれ早かれ完全に化け物になる。


それなら。


理性を残したまま、別の存在になる方がまだましなのかもしれない。


そんなことを考えていたら、いつの間にか意識が沈んでいた。


翌朝、目が覚めた。


寝起きは最悪だった。


頭が重い。体は鉛みたいだ。何より、目覚めた瞬間から衝動がそこにいた。昨夜の茶で抑えられていたものが、朝とともにまた戻ってきている。


俺はすぐに自分を鑑定した。


精神点。


ほとんど回復していない。


「……やっぱり駄目か」


そう呟くしかなかった。


普通なら眠れば少しは戻るはずだ。だが、今の俺はそうじゃない。削れた理性の器そのものがもう傷んでいるのかもしれない。


簡単な朝食が出た。


パンと果物。


どちらも軽い。


それを食べると、すぐにまた燕尾服の男が現れた。


「こちらへ」


俺は何も言わずについていく。


昨日の部屋に通される。


暖色の壁。ランプ。長椅子。変わらない。だが、今日の俺の方が明らかに追い詰められていた。


しばらくして、女が入ってきた。


昨日と同じ燃えるようなガウン。


同じ涼しい目。


女は俺を見るなり、柔らかく聞いた。


「返事は決まった?」


俺はすぐには答えなかった。


代わりに、昨日から気になっていたことを聞く。


「……俺に制約はあるのか?」


女は少しだけ口元を上げた。


「あるわ」


やはり、と思う。


「私の命令には従わないといけなくなるの」


そこは予想通りだった。


眷属になるというのなら、支配関係が発生するのは当然だ。


女は続ける。


「あとは、血への衝動が抑えきれなくなることかしら。あなたは血を定期的に摂取する必要があるわ」


俺は顔をしかめる。


女はすぐに付け加えた。


「でも安心して。血を口から飲まなくてもいい方法もあるから」


少しだけ肩の力が抜けた。


「あと、私は第六世代の吸血鬼だから、特にきつい制約はないわね」


「第六世代……」


「鏡にも映るし、ニンニクも食べられるし、宗教的シンボルの影響もないし、流れ水も渡れるわ。太陽光の下でもダメージは喰らわないわよ」


そこまで言われると、もはや俺が知っている古典的吸血鬼とはかなり違う。


だが、完全に違うわけでもないのだろう。血への衝動、眷属の縛り、それらは確かにある。


俺はしばらく黙った。


考える時間なんて、実際にはもうなかった。


精神点は回復していない。


衝動はまた戻っている。


このまま外へ出ても、長くはもたない。


女の条件は重い。命令に従う必要がある。血も必要になる。呪いそのものも消えない。結局、根本的な救いではない。


それでも。


「……もはや」


俺はゆっくりと言った。


「化け物に変わるのも、すぐなんだろ」


女は否定しなかった。


俺は自嘲気味に笑いそうになり、それすら上手くできなかった。


「だったら、それを受け入れる」


声にすると、妙に静かだった。


諦めだけじゃない。


それしか生きる道がないと、もう分かっていたからだ。


女はその答えを聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。


満足そうにも見えたし、憐れむようにも見えた。


「賢明よ」


その一言が、やけに冷たく聞こえた。

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