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第十六話。

気づいた時、俺は運ばれていた。


最初は何が起きているのか分からなかった。意識の底からゆっくり浮かび上がってきたせいか、視界はぼやけ、頭の芯が鈍く痺れている。体も思うように動かない。いや、動かせないのだと気づくまでに少し時間がかかった。


鎖だ。


俺の体は何重にも鎖で括られていた。


腕も胴も脚も、きつくではないが確実に動きを奪うように巻かれている。暴れれば締まりそうな巻き方だ。そこでようやく、自分が誰かに抱えられていることを理解した。


二人。


左右から、女が一人ずつ俺を支えている。


死体だ。


そう思った。


だが、死体と言い切るには妙に生々しい。腐りきってはいない。むしろ死んでからまださほど経っていないような、張りをわずかに残した肌をしている。青白くはあるが崩れてはいない。目の焦点だけが虚ろで、表情だけが綺麗に抜け落ちていた。


その二人の女が、俺を抱えながら歩いている。


靴音が硬い床に響く。


どうやら、屋敷の中らしい。


意識が少しずつ戻るにつれて、周囲が見えてきた。


壁は黒い。


だが単なる黒ではない。そこに白とピンクの筋が入っていた。筋目、と呼ぶべきか、血管のようなものと呼ぶべきか迷うような線だ。それが壁面いっぱいに走り、しかも絶えず動いている。ちらちらと流れ、絡まり、方向を変え、天井にも広がっていた。


生きているみたいだった。


嫌な汗が出そうになる。


だが汗が出るのかも分からない体だ。


俺は運ばれながら視線を巡らせた。


通路の途中には、何かの機械と思しきものがあった。


鈍く青い金属でできている。金属のくせに、ただの工業製品とは思えない。計器らしきものがいくつも取り付けられ、細い針が震えている。突起、管、輪、付属器具のようなものが無数に増設され、その全体がひとつの巨大な生き物の骨格みたいに見えた。


その上部には、大きな鐘状の物体がぶら下がっている。


あまりにも異様で、見ているだけで喉の奥が冷たくなった。


二人の女死体は、そんな機械の前まで俺を運ぶと、その下にある椅子へ俺を座らせた。


座らされる、というより固定されたと言った方が近い。鎖のせいで身動きが取れないまま、体の位置だけが整えられる。


その瞬間、機械が音を立て始めた。


かたかた。


しゅうしゅう。


低い呻き声のようなものが、どこからともなく混じる。


まるで巨大な獣が息をしているみたいな騒音だった。


俺は鎖に縛られたまま、それを見上げることしかできない。


その時だった。


足音がした。


ゆっくりと、よく磨かれた靴音。


そちらを見る。


現れたのは、燕尾服を着た男だった。


五十前後だろうか。


灰色の髪をきっちり撫で付け、口髭を整え、銀青の瞳をした男。老紳士と呼ぶにはまだ若く、だが若々しいとも言い切れない、奇妙に完成された外見だった。背筋は真っ直ぐで、仕草は洗練されている。


この狂ったような屋敷の中に立っているのに、その男だけは上流階級の晩餐会からそのまま抜け出してきたみたいに整っていた。


男は俺の前まで来ると、わずかに頭を垂れた。


そして、低い声で言った。


「いらっしゃいませ。お客様」


その言葉の選び方に、ぞっとする。


俺が何かを言う前に、男は続けた。


「まずは、われわれの心理テスト装置にかかっていただきたい。あなたをテストすることになります。よろしくお願いします」


何を言っているのか分からない。


いや、言葉の意味自体は分かる。だが、状況と噛み合わなすぎて脳が拒否する。


「待……」


声を出そうとしたが、喉がうまく動かなかった。


その間にも、男は二人の女死体へ視線を向ける。


無言の合図だったのだろう。


女たちは機械の脇へ回り、滑車のようなものを回し始めた。


鐘が下りてくる。


鈍い金属音を立てながら、ゆっくり、確実に。


俺はそれを見上げるしかない。


逃げられない。


鐘状の物体は、そのまま俺の頭上から降りてきて、ついには肩口から下へ、俺の体をすっぽり覆った。


暗くなる。


だが完全な暗闇ではない。内側には薄く赤い光があった。


次の瞬間、内側から何かが這ってきた。


「……っ」


肉質のものだった。


冷たいのに柔らかい。柔らかいのに弾力がある。粘膜じみた感触が、俺の肩、首、胸、腕、腹、脚へとまとわりついていく。全身の形を確かめるように、なぞるように、押し当てるように。


それは、ひどく淫靡な抱擁に似ていた。


だからこそ、余計に気味が悪かった。


気持ち悪い。


吐き気すら覚える。


鎖の中で身をよじろうとしたが、肉質のものはむしろその動きに合わせて形を変え、さらに密着してきた。


機械が本格的に動き始める。


しゅうしゅうと蒸気のような音。


奥の方で何かが回転する唸り。


細い金属が擦れるような高音。


そのすべてが混ざり合い、俺の頭蓋の内側を震わせた。


そして、頭の中にむずむずとした感覚が生まれる。


最初は虫が這うような、落ち着かないだけの感覚だった。だがそれはすぐに広がり、思考の奥へ入り込んでくる。


「っ、やめ……」


言葉にならない。


そのまま、幻覚が始まった。


最初に見えたのは、不規則な写真みたいなものだった。


意味のない断片。


誰かの横顔。


血のついた石畳。


焼けた空。


泣いている子供。


笑う女。


知らないはずなのに知っている気がする顔。


それらがばらばらに現れては消える。


次に、動画のような場面が流れ始めた。


誰かが走っている。


誰かが剣を振るっている。


誰かが倒れている。


誰かが祈っている。


誰かが誰かを抱きしめている。


場面場面に対して、俺の中から反応が引きずり出される。


喜び。


笑い。


怒り。


悲しみ。


俺はそれに対して、自分でも制御できないまま反応していた。嬉しいものには嬉しいと、滑稽なものには笑いそうになり、理不尽なものには怒りが湧き、喪失には胸が潰れそうになる。


見られている。


試されている。


そう分かる。


だが、その時の俺には抵抗する余力がなかった。


やがて、頭の上を細かい金属が撫でるような感触がした。


ぞわぞわとした、嫌な刺激だ。


その直後。


俺の半生が、頭の中を駆け抜けた。


地球での記憶。


学校。


会社。


バイク。


キーボードを叩く指。


小説を書いていた夜。


書き終えた日曜日。


山道。


転落。


白い世界。


そこに、前世の記憶が重なる。


レイとしての人生。


冒険者になったこと。


仲間たちと駆けた迷宮。


剣を握り、魔法を覚え、敵を斬り、王へ至るまでの道。


嫁たちの笑顔。


子らの姿。


王座の重み。


そして死。


そのあとにまた別の生。


別の肉体。


別の場所。


そこから呪いに巻き込まれて、魂が剥がれたこと。


俺はそれらを、走馬灯のように見せられた。


ただ眺めるだけじゃない。


追体験だ。


その時々の喜びも、痛みも、悔しさも、満足も、怒りも、全部がいちいち胸に刺さる。自分のことであるはずなのに、遠い誰かの物語を無理やり自分へ流し込まれるみたいだった。


その中で、はっきり分かっていく。


ああ、俺はレイだったのだ、と。


男に言われた時よりも、もっとずっと確かな形で、それが腹の底へ落ちてくる。


否定できない。


これは俺の記憶だ。


俺のものだった時間だ。


やがて、機械のしゅうしゅうという音がゆっくり弱まっていった。


肉質の触感が、全身から剥がれていく。


鐘が上がる。


光が戻る。


俺は椅子に座らされたまま、しばらく動けなかった。


頭が重い。


胸の中がぐちゃぐちゃだ。


地球の俺と、レイだった俺と、そのさらに間にあった誰かの残響が、まだ完全に分かれてくれない。


その時、また燕尾服の男が現れた。


「ご案内いたします」


静かな声だった。


俺は答えられない。


女死体たちが再び俺を抱えた。鎖はまだ体に巻かれている。抵抗する気力もなかった。


館内を連れ歩かされる。


黒い壁。


動く筋目。


気配のあるようでないような天井。


どこを曲がり、どこを通ったのか、正確には覚えられなかった。ただ、機械の間を抜け、長い廊下をいくつも越え、やがて空気の違う場所へ入ったことだけは分かった。


通された部屋は、さっきまでの場所とは明らかに異なっていた。


暖色系の壁。


ランプの灯り。


優雅な家具。


長椅子、低いテーブル、猫脚の飾り棚。どれも生者の住むサロンみたいに整えられている。狂気じみた屋敷の中に、そこだけ切り取られた客間のようだった。


俺は長椅子へ座らされた。


すると、そこでようやく鎖が解かれた。


腕が自由になる。


だがすぐに、別の女死体たちが入ってきた。


今度は手に道具を持っている。


金属の鋏、やすり、布。


俺が何をされるのか理解する前に、女死体たちは俺を押さえつけた。


「安全のためです」


燕尾服の男が穏やかに言う。


その直後、女死体たちが俺の爪を切り始めた。


「……は?」


思わず間抜けな声が出る。


だが誰も気にしない。


鉤爪の先を慎重に切っていく。全部を根元から落とすわけじゃない。あくまで危険が減る程度に、鋭さを丸めるような切り方だ。


俺は抵抗する気になれなかった。


もう色々ありすぎて、感情が追いつかない。


それに、正直なところ、その処置は少しありがたかった。自分の爪が凶器そのものだと、常に意識し続けるのも消耗する。


切り終わると、燕尾服の男は一礼して部屋を出ていった。


残された俺は長椅子に浅く座り、ぼんやりとランプの光を見ていた。


しばらくして、扉がまた開く。


今度は燕尾服の男に加えて、もう一人が入ってきた。


女だった。


オレンジ色の、燃えるような色合いのガウンをまとっている。鳶色の髪は豊かで、光を受けて柔らかく揺れた。肌は薔薇色。血色というには艶やかすぎる色味だ。若い。見た目だけなら二十代半ばほどだろうか。美しい、という言葉で済ませていいのか迷うくらいに、整いすぎている。


だが、その美しさの中に何か人ならざるものが混じっている。


目だ。


目の奥だけが、年齢とも体温とも合わない。


女は部屋へ入るなり、俺を見た。


そして、口元にわずかな笑みを浮かべて言った。


「転生者さん、あなたをなんと呼べばいいかしら」


その声音は、親しげでいて、どこまでも観察者のものだった。


女は一歩、また一歩とこちらへ近づく。


「元レイ・デ・リングバード王様」


その呼び方に、俺の背筋を冷たいものが走った。

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