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第十五話。

荒野は、思っていた以上に広かった。


壁を抜けた直後に見えた歪んだ屋敷の輪郭を目指して歩き出した時は、まだどこかに希望があった。あそこまで行けば何かある。理性ある不死者の棲家なら、ああいう異様な建築物の中にあるはずだ……そう思っていた。


だが、その輪郭は歩くほどに遠ざかり、やがて蜃気楼みたいに薄れて消えた。


「……は?」


思わず立ち止まる。


目をこすりたくなるが、左目は塞がっているし、右目だってあまり信用できない。空気が歪んでいるのか、地面そのものが認識をずらしているのか。十六階の惑いの魔法が、外周にまで染みているのかもしれない。


俺は行く当てもなく彷徨った。


乾いた大地を、ただ歩く。


ひび割れた地面。崩れた墓碑のような石。黒ずんだ枝。どこもかしこも死んでいるのに、どこかだけは妙に生きているような、嫌な気配が満ちている。


どれだけ歩いたか分からない。


足はまだ動く。体力は尽きていない。だが、気力が削られる。似た景色ばかりで、距離感も方向感覚も曖昧だ。進んでいるのか、円を描いているのかも分からない。


たまらず俺は立ち止まり、水袋を取り出した。


少しだけ飲む。


喉を潤すというより、自分を人間側に引き止めるための行為みたいだった。続けて干し肉を齧る。硬い。塩辛い。だが、その塩気がまだまともな思考を残してくれる。


遠くから、犬か狼の吠える声が聞こえた。


低く、短く、何頭分も重なっている。


俺はそちらを避けて歩いた。


今の俺に獣の相手をする余裕はない。普通の獣かどうかも怪しいし、仮に普通でも群れなら危険だ。


歩きながら、ふと思いついて自分を鑑定した。


半透明の板が浮かぶ。


そして、そこに表示された数値を見て、背筋が冷えた。


精神点が、かなり減っている。


「……まじか」


声が掠れる。


さっきより明らかに減っている。まだ残ってはいる。だが余裕があるとは言えない数字だった。


俺は舌打ちしたくなるのをこらえる。


確か設定では、鑑定も収納も精神点を使う。王命だって、あんな明らかに異常な力だ。削られて当然だろう。


だが、それだけか?


このストーカーとしての理性を維持すること自体に、精神点が使われている可能性もある。渇望を唱えて自分を繋いでいるこの状態そのものが、ただでは済んでいないのかもしれない。


いずれにせよ、結論は同じだ。


精神点が尽きたらまずい。


「気絶したら……どうなる」


口に出した瞬間、その想像が嫌でも浮かんだ。


俺自身が消えるのか。


それとも、そのまま倒れて、何かに喰われるのか。


あるいは理性だけが剥がれて、体だけがストーカーとして動き出すのか。


どれ一つとしてろくな末路じゃない。


「このままじゃ駄目だ」


俺は水袋をしまい、また歩き出した。


休みたい。眠りたい。だが今は駄目だ。少なくとも、何かしらの安全圏か、話の通じる相手を見つけるまでは。


しばらく進むと、前方にいくつもの影が見えた。


動く死体だ。


一体や二体じゃない。何人もいる。あてもなく彷徨っているように見える。歩き方はばらばらで、肩を落としているやつもいれば、首を傾けたまま進むやつもいる。


俺は身を低くした。


だが、そいつらは俺に気づいても、特に興味を示さなかった。視線のようなものが一瞬掠めても、そのまま別方向へ去っていく。


「……知性は、ないな」


俺は小さく呟いた。


鑑定しなくても分かる。残っているのは徘徊の本能だけ。こいつらに王命を使っても、良い結果は出なさそうだ。案内しろ、と命じても壁へ連れて行ってくれるような幸運はもう望めないだろう。


俺はできるだけそいつらに干渉しないように歩いた。


ところが、進むほどに、動く死体の数が増えていく。


二体、三体、五体。


遠くにも、近くにも、ゆらゆらと影がある。


荒野のあちこちに点在していた不死者が、少しずつ一方向へ濃くなっているように見えた。


「核心に近づいてるのか……?」


希望とも不安ともつかない声が漏れる。


理性ある不死者の棲家があるなら、その周囲に死体が集まっていてもおかしくない。番兵か、従者か、あるいはただその場に引き寄せられているだけか。


どちらにせよ、数が多くなっている方へ進むしかない。


俺はその流れに沿うように歩いた。


その途中で、犬の群れが現れた。


不意だった。


低い唸り声もなく、気配も薄く、気づいた時にはもう近くにいた。痩せた犬。いや、犬というより、半分狼に近い体つきのやつもいる。毛並みは荒れ、肋骨が浮き、目だけが妙に光っている。


群れは俺の周囲を囲むように広がった。


「……っ」


動けない。


逃げれば追うだろう。威嚇すれば飛びかかられるかもしれない。


犬たちは俺の匂いを嗅ぎにきた。


鼻先がローブの裾を掠める。脚の匂いを嗅ぐ。鉤爪の先にも顔を近づける。俺はまんじりともできず、ただ立ち尽くした。


衝動が強くなる。


犬を食いたい。


柔らかい喉を裂きたい。


温かい肉に噛みつきたい。


その欲が、じわじわと喉の奥をせり上がってきた。


駄目だ。


渇望。


渇望。


必死で唱える。


今ここで一頭でも襲えば、群れ全部が敵になる。それに、そんなことをしたらもう後戻りできない気がした。


犬たちはしばらく俺を嗅ぎ回っていたが、やがて一頭、また一頭と離れていった。


助かった。


そう思った瞬間、今度は別の考えが浮かぶ。


こいつら、どこへ行く?


群れの後を見れば、一定の方向へ歩いていく。ふらついているようでいて、目的地がある足取りだ。


「……ついていくか」


俺は少しだけ迷ってから、犬たちの後を追った。


獣は餌場や棲家や安全地帯を知っていることがある。ましてここが不死者の外周なら、人間より地の利があるのは向こうだ。


しばらく歩くと、ついに建築物が見えてきた。


今度は蜃気楼じゃない。


確かにある。


歪んだ屋敷。


近づくにつれて、その異様さがはっきりしてくる。石造りの洋館みたいな外観の上に、尖塔じみたものが継ぎ足され、さらに寺院の回廊みたいな部分が噛み合っている。窓の形も柱の様式も統一されていない。色々な建築様式を、無理やり一つに縫い合わせたみたいな屋敷だった。


そして、その周りを。


何十もの動く死体が取り囲んでいた。


立っているもの。膝をついているもの。壁際を彷徨うもの。門らしき部分の近くに密集しているもの。あまりにも多い。


「……これか」


とうとう、と思う。


同時に、体の内側で何かが切れそうになる。


衝動が抑えられない。


喰いたい。


飛び掛かりたい。


壊したい。


屋敷も、死体も、犬も、全部まとめて引き裂きたい。


頭の中がまた赤く染まり始める。呼吸が浅くなる。爪が勝手に開く。


「くそ……!」


俺は慌てて自分を鑑定した。


数値を見る。


精神点。


ほぼ空だった。


「っ」


血の気が引く。


これ以上削れない。


いや、もうとっくに削れている。鑑定をしただけで、残りの底が見えた。


この状態で渇望を繰り返しても、どこまで保てるか分からない。


襲いかかるか。


それとも。


俺は一瞬だけ考えた。


このまま狂って突っ込むくらいなら、気絶した方がまだましだ。


少なくとも、自分で自分を壊す瞬間を選ばずに済む。


賭けだ。


最悪、倒れたまま何かに喰われるかもしれない。だが今の精神点でこの数を前にしたら、どのみち長くはもたない。


俺は震える意識のまま、もう一度鑑定を使った。


そして、さらにもう一度。


精神点が削れる感覚がある。


頭の芯が抜ける。


視界が揺れる。


それでも、俺は続けた。


鑑定。


鑑定。


鑑定。


数字がどう変わったか、もうまともに追えない。半透明の板すら滲んで見える。


渇望、と唱えようとして、口がうまく動かない。


足元が崩れる。


屋敷の輪郭が遠ざかる。


死体たちの群れが揺れる。


犬の気配がまだどこかにある。


最後に思ったのは、こんなやり方で倒れるのはひどく間抜けだ、ということだった。


だが、襲いかかって終わるよりはずっといい。


そう信じるしかなかった。


俺の意識は、そこで途切れた。

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