第十四話。
散々だった。
糸を工夫し、曲がり角ごとに印を増やし、歩幅まで意識して進んだというのに、気がつけばまた入り口近くの階段が視界に入っていた。あの登り階段、取っ手に結びつけた糸、冷たい石の匂い。何度見ても、見覚えがある。
「……またかよ」
喉の奥から、掠れた声が漏れた。
十六階の惑いの魔法は、想像以上に性質が悪い。ただ方向感覚を狂わせるだけじゃない。こちらが理屈で対処しようとするたび、その理屈の隙間を縫うようにずらしてくる。糸の目印は確かに消えていない。だから完全に無意味ではない。だが、意味があるからといって突破できるわけでもない。
苛立ちと疲労がじわじわ溜まる。
渇望。
そう念じて、俺は一度壁に額を当てた。落ち着け。焦るな。焦って走れば終わりだ。この階は、焦ったやつから呑むために作られている。
その時、不意に思い出した。
俺が小説で書いた、十六階の突破法の一つ。
「……右の壁沿い」
口に出した瞬間、それが妙に現実味を帯びた。
迷路であれ遺跡であれ、右手を壁につけて進めば、少なくとも完全に無限でない限り、どこかへは出る。理屈として単純すぎて、さっきまでの俺は逆に採用していなかった。だが、この階の魔法が認識を狂わせる類いなら、複雑な工夫より単純な反復の方が強いかもしれない。
俺は右手を壁へ置いた。
冷たい。
ざらついた石の感触が、指先の鉤爪越しに伝わる。
一定のリズムで壁を触るように進む。角に来たら右へ。壁が途切れたら、その続きへ。とにかく右手を離さない。
最初は何も起こらなかった。
同じような扉、同じような角、同じような薄闇。だが、ただ壁を触り続けるという行為そのものが、少しずつ意識を一本にまとめてくれる。考えすぎないで済む。今はそれだけでありがたい。
途中で、徘徊する死体たちに出くわした。
通路の先から、乾いた足音がいくつも近づいてくる。骨の擦れるような音も混じっている。俺はすぐに近くの部屋へ意識を向けた。探知すると、部屋の奥に何かいる。だが今は通路に留まる方が危険だ。
俺は扉の陰へ身を滑り込ませた。
死体たちの群れが、すぐ横を通る。
腐りかけた顔。骨が覗いた腕。鎧の切れ端をぶら下げたまま歩く個体もいる。だが、反応は薄い。こちらへ首を向けるものもいたが、襲いかかってはこない。
「……人間じゃないからか」
俺はほとんど息だけで呟いた。
生者への敵意は濃いが、俺のような半端な呪われ者には薄い。助かったと同時に、少し嫌な気分になる。自分がそちら側に寄っている証明みたいだった。
群れをやり過ごし、また進む。
右手を壁に沿わせて。
探知を切らさず。
忍びを意識しながら。
時間がどんどん過ぎていく。
感覚としては、相当歩いた。何度も角を曲がり、何度も似た扉の前を通った。途中で何もない廊下が続く時もあれば、扉の向こうに嫌な気配を感じて迂回することもあった。
疲弊がじわじわ重くなる。
腹はまだ空いていない。さっきの干し肉と水が効いている。だが、それとは別に精神が削られていく。ずっと気を張り続けているせいで、頭の芯が鈍く痛い。右手で壁をなぞる単純作業すら、時々自分が何のためにやっているのか分からなくなりそうになる。
渇望。
何度目か分からないその言葉で、自分を繋ぎ直す。
そして進み続けた時、ふいに壁の感触が変わった。
「……?」
石のざらつきが薄くなる。
通路の空気も違う。少し広い。音の返りも違う。
俺は立ち止まった。
ここだけ明らかに感触が違う。
右手を壁から離さず、そのまま慎重に前へ進む。すると、通路はまっすぐ伸び、その先に下へ降りる階段のある部屋が現れた。
十七階への階段だ。
「は……?」
俺はしばらくその場で固まった。
右の壁沿いで進んだ結果、辿り着いたのは外周ではなく、中央寄りの下降階段。
「違うだろ……」
落胆が、ずしりと胸に落ちた。
進んだのは確かだ。無駄ではない。だが目指していた場所ではない。外周にあるはずの理性ある不死者の棲家とは逆方向に近い。
一瞬、もうどうでもよくなりかけた。
このまま座り込んでしまいたい。何なら十七階へ逃げ込みたいとすら思った。だが、そんなことをしても状況はもっと悪くなるだけだ。
とにかく休もう。
今の思考じゃ、もうまともに判断できない。
俺は探知を使いながら、近くで何も感じない部屋を探した。階段部屋から少し離れたところに、空に見える玄室が一つある。俺はそこへ向かい、扉を押し開けた。
中に入った瞬間、奥に動かない死体があるのが見えた。
「まずっ」
そう思った時には遅かった。
そいつは俺を感知したらしい。ぴくりと頭が動き、次の瞬間には起き上がった。干からびた肉が骨に張りついたような不死者だ。動きは遅そうに見えたのに、立ち上がりは異様に速い。
俺は慌てて扉を開けて逃げた。
背後から足音。
追ってくる。
廊下へ飛び出し、ひたすら走る。忍びも何もない。もう音を立てまいとか、気配を殺そうとか、そういう段階じゃなかった。
追いつかれる。
探知しなくても分かる。気配がどんどん近づいてくる。しつこい。足音も軽くはないのに、妙に間隔が詰まる。
恐怖と焦りで、また頭が赤く染まりかける。
「くそっ……!」
パニックになる。
そして最悪なことに、衝動がそこへ乗った。
逃げるんじゃなく、立ち向かえ。
殺せ。
壊せ。
その声に引っ張られるように、俺は振り返ってしまった。
不死者が迫る。
俺は吠えるような声を上げ、鉤爪で殴りかかった。
格闘戦になった。
だが、明らかに向こうの方が強い。
俺の爪は腕に食い込んだが、手応えが薄い。死肉を裂いても、痛みで怯む感じがない。逆に向こうの拳が腹に入った。鈍い衝撃。壁に叩きつけられそうになる。
「がっ……!」
その一撃で、少しだけ制御が戻った。
勝てない。
何やってる。
俺は再び逃げ出した。
不死者は追ってくる。しつこい。死体のくせに執念深い。廊下を曲がっても、扉の陰を抜けても、気配が離れない。
その時、前から別の気配が来た。
群れだ。
ガイコツ戦士の群れ。
骸骨に剣や槍を持たせた、あの手合いが列をなして歩いてくる。最悪だった。前から骨の群れ、後ろから動く死体。挟まれた。
俺は横の部屋へ飛び込んだ。
扉を引き、体を押しつける。
直後、外で衝突音が響いた。
金属がぶつかる音。骨が砕ける音。何かが壁に叩きつけられる音。
争ってる。
動く死体とガイコツ戦士の群れが、廊下でやり合い始めたらしい。
「……っ、頼む、そのままやれ」
俺は扉を押さえながら祈るように思った。
だが、そんな都合よくはいかない。
争いの音がやがて止んだ。
静寂。
嫌な静寂だ。
俺は扉をほんの少しだけ開けた。
死体が勝ったようだった。
骨の欠片が廊下に散っている。その向こうで、あの死体がこちらへ顔を向けた。
「っ」
慌てて扉を閉める。
直後、向こうから押してきた。
強い。
両手で押さえる。だがじりじりと開いていく。俺の筋力は高いはずなのに、それでも負けそうになる。死体のくせに力が強すぎる。
少しずつ、少しずつ扉が開く。
腕が軋む。
頭の中が真っ白になる。
どうする。
どうする。
どうする。
その時、不意に思いついた。
命令。
単純な命令。
王命。
扉が大きく開いて、あいつが入り込んでくる、その瞬間に。
「案内しろ!」
叫ぶ。
王命を全力で叩きつける。
案内しろ。
俺を、どこかへ。
止まるな。
通れ。
道を示せ。
死体の動きが、ぴたりと止まった。
扉を押す力も消える。
俺は荒い息を吐きながら、信じられない気持ちでそいつを見た。
不死者はぎこちなく俺の腕を掴んだ。
冷たい。
そして、そのまま歩き出す。
「……通った」
呟く暇もなく、俺は引かれるまま廊下へ出た。
死体は迷いなく進んだ。右へ、左へ、また右へ。俺が散々迷った廊下を、少しも躊躇わず進んでいく。惑いの魔法の影響を受けないのか、それとも元からこの階の動線を知っているのか。
やがて、そいつは一枚の壁の前で止まった。
何の変哲もない石壁だ。扉もない。装飾もない。
死体は俺の腕を離すと、そのまま踵を返して去っていった。
「お、おい……」
呼び止めても振り返らない。
俺はしばらくその壁を見つめた。
案内しろ、と命じた。その結果がこれだ。なら、意味がないはずはない。
俺は恐る恐る壁に手を伸ばした。
感触がおかしい。
石に触れているのに、奥行きがない。表面だけがある。
「幻覚……?」
俺は喉を鳴らした。
幻壁だ。
そう思った瞬間、胸の奥がどくりと鳴る。外周へ通じる隠し道。自分が裏設定に置いていたものと合致する。
だが、壁の向こうが本当に安全かは分からない。むしろ、もっと危険かもしれない。
それでも今は、行くしかない。
渇望。
恐怖も、痛みも、疲労も、狂気も、全部がまたこちらを呑み込もうとしてくる。だが俺はその言葉を噛みしめ、壁へ体を押し込んだ。
通れる。
石を抜けるような、冷たい膜を破るような、気持ち悪い感覚が全身を撫でる。
一歩。
また一歩。
そして、壁を通り抜けた。
そこは、広大な荒野だった。
俺は思わず立ち止まった。
暗い。
だが閉塞した廊下の暗さじゃない。天井は高い。いや、天井というより、はるか上方に黒い虚空が広がっている。そこに青白い光がぼんやりと漂い、荒野全体を薄く照らしていた。
地面は乾いていて、ひび割れている。石と灰の混ざったような土がどこまでも続き、ところどころに崩れた墓碑のようなものや、黒ずんだ木立の残骸が立っている。遠くには歪んだ屋敷の輪郭みたいな影も見えた。
空気が違う。
十六階の廊下より、ずっと開けている。だがその分だけ、不気味だった。
「……ここが」
掠れた声で呟く。
「外周か……」
そう思った瞬間、膝から力が抜けそうになった。
辿り着いた。
本当に。
あの迷い廊下を抜けて、ようやく。
安堵と同時に、また新しい不安が胸を満たす。
ここに、理性ある不死者たちがいるのか。
いたとして、どこに。
どんな顔で。
どんな言葉で。
俺を迎えるのか。
乾いた荒野の風もない空間で、俺はローブの前を押さえた。鉤爪の先が布に引っかかる。人間らしさの残りかすみたいなその感触だけが、妙に心強かった。
渇望。
そう念じる。
外周へは来た。
次は、ここで生き延びて、話せる相手を見つける番だった。




