第十三話。
干し肉を食い終え、水をもう一口だけ飲んでから、俺は背負袋の中身を改めた。
一つ目。
食料。干し肉がまだ何本か入っている。硬そうな黒パンもある。保存食としては悪くない。
二つ目。
水袋。こちらは半分ほど入っている。量は心許ないが、ないより遥かにいい。
三つ目。
火口箱。小さな石と火打金、それに火口らしい乾いた繊維が入っていた。火が起こせるのは大きい。
四つ目。
糸。細いが丈夫そうな糸が巻かれている。罠や目印に使えるだろう。
五つ目。
カンテラ。油は少ないが、まだ使えそうだ。ただ、今の俺が持ち歩けば遠目にも目立つ。使いどころは慎重に選ぶ必要がある。
六つ目。
杭にハンマー。探索用だろう。道の目印、固定、扉の簡易封鎖、色々使える。
「……当たりだな」
小さく呟く。
武器や回復薬ではない。だが、今の俺にはこれで十分すぎるほどありがたい。生きるための道具が一通り揃っている。
俺はそれらを一つずつ収納へ入れていった。
やり方は感覚で分かる。意識を向け、入れると決めるだけでいい。自分の内側にある見えない箱へ落としていくような感覚だ。背負袋そのものも、いざという時に使えるかもしれないので空にして収納に入れた。
次にローブだ。
ローブ姿の男から奪ったそれは、血と埃で少し汚れていたが、破れてはいない。着てみようとして、俺はすぐに顔をしかめた。
鉤爪が邪魔だ。
袖に通すだけで苦労する。しかも自分の肩幅や腕の長さの感覚がまだ馴染んでいない。何度か布を引っ掛け、危うく裂きそうになりながら、どうにか羽織ることに成功した。
続いてベルト。
こちらも苦戦したが、腰に巻くと少しだけ体が締まった感じがした。ナイフはもう抜かれているが、ベルト自体が人間の道具だというだけで妙な安心感がある。
ローブの裾を引き、袖口を見て、俺は静かに息を吐いた。
「……少しだけ、ましか」
青白い皮膚も、鉤爪も、塞がった左目も消えない。醜いものは醜いままだ。だが、布一枚纏っただけで、むき出しの化け物感が少し薄れた。
いくぶんか、人間らしさを感じる。
そんなことで救われるのは我ながら単純だと思う。だが、今はその単純さに助けられていた。
俺は壁にもたれたまま、十六階の構造を思い出す。
十六階は不死者のフロア。
部屋が整然と並び、廊下全体に惑いの魔法がかかっている。似たような角、似たような扉、似たような廊下が延々と続き、方向感覚を少しずつ狂わせる構造だ。部屋の中には不死者が配置されている。単なる徘徊ではなく、何かの役割を持って留まっている個体も多い。
中央に近い部分には強力な不死者が多く、ボス部屋がある。そこから十七階に降りることはできる。だが、今の俺が目指すのはそこじゃない。
外周部分。
俺が裏設定で置いていた、理性を持った不死者たちの棲家。
そこへ行く。
そして、不死者たちと交渉する。
理性の保ち方、呪いに飲まれない方法、この階の事情、可能なら解呪に繋がる情報。聞きたいことはいくらでもある。
「リッチ、デスロード、ワイトロード、ヴァンパイア……」
声に出して確認する。
そして、固有名を持った特別個体たち。
そう設定した。
だが、設定したからといって、本当にいるのか。いたとして、俺の想像通りか。言葉は通じるのか。通じたとして、話し合いに応じるのか。
応じたとして。
こちらの言うことを聞いてくれるのか。
そこまで考えると、不安しか出てこない。
ストーカーの俺を見て即排除するかもしれない。逆に、面白がって弄ぶかもしれない。研究対象のように扱われる可能性だってある。
それでも、他に道はない。
十五階へ戻るのは論外だ。十七階へ行く理由も今はない。なら、外周へ行って理性ある不死者に賭けるしかない。
俺は立ち上がった。
膝が少し震えたが、踏ん張る。
「行くか」
返事はない。
だが、今はそれでよかった。
玄室の扉をそっと開ける。
廊下には冷たい空気が流れていた。十五階の生臭さとは違う。乾いていて、古い石と骨の粉みたいな匂いがする。音も妙に響かない。吸われているようで、不気味だ。
俺は扉の取っ手部分に糸を結びつけた。
目印。
惑いの魔法があるなら、まずは自分で痕跡を残すしかない。杭を打つには音が出る。今は糸の方がましだ。
糸の端を見て、俺は廊下へ出た。
渇望。
一度だけ心の中で唱える。
探知。
忍び。
その二つも意識する。
廊下は整っていた。左右に同じような扉。床石の幅も同じ。曲がり角の角度も似通っている。わざと人の認識を削るために作られたみたいな構造だ。
右へ行くか、左へ行くか。
俺は壁に手を当て、外周へ向かう感覚を頼りに歩き始めた。
最初は慎重だった。
数歩進むたびに振り返る。目印は見えるか。探知に反応はないか。扉の向こうに何かはいないか。そうやって一つずつ確認しながら進む。
しばらく歩く。
右へ曲がる。
また同じような廊下。
左側に扉が二つ。右側に一つ。少し先にまた角。
「……本当に嫌な作りだな」
呟いて、すぐ口をつぐむ。
声を出すな。
廊下を進む。
途中、扉の向こうにかすかな気配を感じた。動かない。おそらく部屋の中に留まっている不死者だろう。関わらない。今は通り過ぎるだけだ。
さらに進む。
また角。
また扉。
また似たような石壁。
時間の感覚が少しおかしくなってくる。
自分がどれだけ歩いたのか、どちらへ何度曲がったのか、頭の中の地図が少しずつ曇っていく。これが惑いの魔法か。強制的に意識を飛ばすわけではない。ただ、判断の連続を少しずつ削ってくる。
だからこそ、糸だ。
俺はそのことに少しだけ安心しながら歩いた。
そして、しばらく経ってから、廊下の先に見覚えのあるものを見つけた。
扉。
その取っ手に、糸。
「……あ?」
立ち止まる。
扉の横には、見覚えのある登りの階段まであった。
俺はしばらく、それを見つめた。
十六階へ入ってきた近くの位置にある、あの階段だ。見間違いじゃない。糸も、自分で結んだものだ。
「元に、戻ってきた……?」
思わずそう口にする。
馬鹿な。
俺は外周を目指して歩いていたはずだ。少なくとも、そのつもりだった。右へ曲がり、左へ曲がり、できるだけ同じ場所を踏まないよう意識していた。
なのに、結果はこれだ。
ぐるりと回された。
俺はぞっとした。
ただ迷いやすい、なんてものじゃない。自分では進んでいるつもりでも、廊下そのものが認識をずらしてくる。目印がなければ、俺は今、自分が前進していると信じたまま延々同じところを歩いていたかもしれない。
喉が乾く。
さっき水を飲んだばかりなのに、別種の渇きが湧いてくる。
焦るな。
渇望。
心の中で唱える。
落ち着け。
俺は扉に結んだ糸を見つめた。
使える。
少なくとも、目印は機能している。なら次は、もっとはっきり痕跡を残して進めばいい。糸だけじゃなく、曲がり角のたびに短く切って結ぶか。扉ごとに本数を変えるか。あるいは杭を打つか。
だが杭は音が出る。
音は避けたい。
なら、糸の使い方を工夫するしかない。
俺は扉の前にしゃがみ込み、糸巻きを取り出した。ローブの袖が邪魔だが、さっきよりは慣れている。
「一本は出発点」
小さく確認する。
「次の角に一本。右に行ったら二本。左に行ったら三本……」
そうやって符号を決めれば、自分の歩いた経路をある程度は追えるはずだ。惑いの魔法で認識がずれても、物理的な印までは消えないだろう。
それに、戻ってきたということは逆に言えば、この階は完全な無限迷路ではない。癖がある。流れがある。その流れを読み切れれば、外周へ抜けられる可能性はある。
俺はゆっくり立ち上がった。
不安は消えない。
むしろ増した。
理性ある不死者たちが本当にいるのかも分からない。会話が通じるかも分からない。その前に、この階の廊下に弄ばれて終わるかもしれない。
それでも。
今の俺にできるのは、一つずつ対策しながら進むことだけだ。
糸を持つ。
探知を意識する。
忍びを意識する。
渇望を唱える。
その全部を抱えたまま、俺はもう一度、廊下の暗がりを見た。
同じ石壁。
同じ扉。
同じようでいて、さっきとは違って見える。
この階は、俺を試している。
そう思うと腹が立つ。だが、同時に少しだけ冷静にもなれた。
「……いいだろ」
掠れた声で呟く。
「もう一回だ」
今度は、迷わされる前提で進む。
そう決めて、俺は扉の取っ手に新しい糸の印を足し、再び十六階の迷い廊下へ歩き出した。




