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第十二話。

探索者たちがボス部屋へ入ってから、しばらくは中で激しい音が響いていた。


剣戟。


何かが石に叩きつけられる音。


短い詠唱のような声。


それから、男の声で飛ぶ指示。


「右だ!」

「下がれ!」

「脚を止めろ!」

「魔法、まだか!」


暗い前室の中で、俺は壁に張りついたまま耳を澄ませていた。


探索者たちは、やはりただの雑魚じゃないらしい。連携もしているし、誰か一人が指揮も執っている。あの様子だと、ある程度の修羅場はくぐってきた連中だ。


だが、それでも。


嫌な予感は消えなかった。


中にいるのは十五階のボスだ。しかもストーカーの強個体。さっき通路で見たレベル15や18の個体ですら、俺にはどうにもならない怪物だった。その上を張る相手だ。四人いたからといって、あっさり勝てるとは思えない。


渇望。


心の中で一度だけ唱える。


次に何が起きても、動けるように。


その時だった。


中から、男の断末魔が響いた。


短い、だが喉を裂くような悲鳴。


その直後に、別の声が叫ぶ。


「逃げろ!」


その一言で、俺は反射的にドアの前から退避した。


壁際へ飛びのく。


いや、飛びのくほど綺麗じゃない。半ば転がるようにして、扉の正面線上から外れる。


次の瞬間、ボス部屋の扉が乱暴に開いた。


二人の探索者が飛び出してくる。


血まみれだった。


片方は肩口を大きく裂かれている。もう片方も脚を引きずっていた。目が合った。いや、正確にはカンテラの光の中で、向こうが暗がりにいた俺を見つけた。


一瞬の停止。


そして、次の瞬間には反応されていた。


「うおっ!」


前にいた探索者が、考えるより先に蹴ってきた。


前蹴り。


まともに腹へ入る。


「……っが」


俺は尻餅をついた。


息が抜ける。


視界が揺れる。


だが、探索者たちは俺に追撃しなかった。そんな余裕がなかったのだろう。そのまま横を抜けて、前室の入り口へ全力で逃げていく。


二人だけ。


つまり、残り二人は。


「……やられたのか」


掠れた声で呟く。


腹の鈍い痛みを押さえながら、俺は開いたままの扉へ目を向けた。


中を覗く。


ボス部屋は広かった。円形に近い空間。崩れた柱。床に刻まれた古い紋様。その上に、二人の男が倒れている。


一人はローブ姿の男。


もう一人は戦士風の男。


どちらも動かない。


そして、そのそばに立っていた。


剣を持ったストーカーが。


人型に近い。


青白い皮膚。だが俺よりずっと引き締まって見える。片手に握った剣は、探索者のものを奪ったのか、それとも元から扱っていたのか。血が刃から滴っている。


取り巻きはいない。


一体だけ。


だが、それだけで十分すぎる威圧感があった。


腹の底がざわつく。


あの死体を食いたい。


あの探索者に飛び掛かりたい。


目の前の強者に挑みたい。


剣を奪いたい。


殺したい。


喰いたい。


衝動が一気に溢れる。


喉が鳴る。


視界がまた赤く濁りかける。


「……渇望」


俺は無理やり声にした。


渇望。


落ち着け。


渇望。


ここで呑まれるな。


俺はボス部屋の入口の陰で、何度もそう唱えた。


そして、唱えながら自分に言い聞かせる。


入ったら王命。

入ったら王命。

入ったら王命。


戦うな。


殺すな。


止めるだけでいい。


止めて、奪って、逃げる。


それだけだ。


剣持ちのストーカーは、倒れた探索者に顔を向けた。


食事に入るつもりだ。


今なら間に合う。


俺は息を止め、部屋へ滑り込んだ。


その瞬間、剣持ちがこちらに気づく。


速い。


振り返りが速すぎる。人間の戦士そのものみたいな動きで、しかもそこに獣じみた速さが乗っている。


向かってくる。


殺気が一直線に突き刺さる。


俺は反射で叫んでいた。


「止まれ!」


王命を意識する。


言葉に、意志を全部叩き込む。


止まれ。


止まれ。


止まれ!


一瞬、空気が張った。


剣持ちストーカーの動きが、ぴたりと止まる。


「……通った!」


思考より先に体が動いた。


今だ。


何か奪え。


生きるための何かを。


俺はまず、倒れている二人の探索者へ飛びついた。


背負袋。


二人とも持っている。


俺はそれを掴み、収納を意識した。


消える。


入った。


できる。


次。


ローブ姿の男。


ローブが使えるかもしれない。偽装、保温、何でもいい。俺はローブの端を掴み、乱暴に引き剥がして収納へ放り込む。


戦士風の男。


腰にベルト。


そのベルトに、ナイフが刺さっているのが見えた。


「それだ」


俺はベルトごと掴み、収納へ入れた。


剣は無理だ。


抜く時間がない。


欲張るな。


階段だ。


十六階への階段へ走る。


ボス部屋の奥、右寄り。そこに下へ続く石段があるのを、俺は設定で知っている。体はまだ腹の蹴りの痛みを引きずっている。だが、それでも動けた。


背後で、気配が再起動する。


王命の拘束が切れた。


剣持ちストーカーが追ってくる。


速い。


明らかに向こうの方が速い。


石を蹴る音がすぐ背後まで迫る。


「……っ」


間に合え。


階段へ飛び込む。


一段。


二段。


三段。


ほとんど落ちるように駆け下りる。


後ろから気配が迫り、剣の風切り音みたいなものが聞こえた気がした。


だが、次の瞬間。


気配が止まった。


俺は転がりそうになりながらも階段をさらに下り、十六階へ踏み込む。


振り返る。


剣持ちストーカーは階段の上で止まっていた。


降りてこない。


いや、降りられないのか。


十五階と十六階の境目に、何かの制約があるのだろう。階層のボスだからか、あるいは不死者のフロアへの干渉を禁じられているのか。理由は分からない。


だが、今はそれで十分だった。


「は……っ、は……っ」


俺はその場で崩れそうになるのをこらえながら、さらに数歩進んだ。


生きた。


本当に、なんとか。


十六階にたどり着いた。


安堵が押し寄せると同時に、足の力が抜けそうになる。


だが、まだ駄目だ。


まだ安全じゃない。


まずは隠れ場所。


俺は探知を意識しながら周囲を探る。


十六階は十五階よりさらに冷たい空気をしていた。湿気が少なく、代わりに乾いた墓所の匂いがする。通路の構造も少し違う。より整っているが、その整い方が逆に不気味だ。


近くに玄室があった。


探知に何も反応はない。


少なくとも今は空だ。


俺はそこへ急いだ。


扉を開ける。


中へ入る。


そして、今度はためらわず扉を閉めた。


ごとり、と鈍い音が響く。


少しだけびくりとしたが、それ以上の反応はない。


ようやく、密室。


俺は扉に背を預け、そのままずるずると座り込んだ。


「……生きてる」


口から漏れたのは、ほとんど泣きそうな声だった。


数秒、いやもっと長く、ただそうしていた。


渇望。


心の中で念じる。


でも今のそれは、理性を保つためだけじゃなかった。


本当に、ギリギリのところで生き延びたいという、むき出しの願いそのものだった。


俺は震える手で、戦利品を取り出した。


背負袋を二つ。


ローブ。


ベルト。


それらを床へ並べる。


まず背負袋を開く。


干し肉。


水袋。


「……っ」


思わず声が漏れる。


当たりだ。


少なくとも今の俺にとっては、これ以上ない当たりだった。


俺はすぐに水袋を掴んだ。


少し迷う。ストーカーの俺が、人間の食料を受け付けるのか。そんな不安はあった。だが喉の渇きは限界に近い。


飲む。


水が口に入る。


冷たい。


喉を通る。


染みる。


「うま……」


泣きそうになった。


ただの水だ。


たぶん普通の、ぬるくなった水袋の水だ。


それが、信じられないほど美味かった。


干し肉も口にする。


硬い。塩気が強い。噛み切るのに少し力がいる。だが、そのたびに肉の味が広がる。


食える。


ちゃんと食える。


しかも美味い。


本当に泣きそうになった。


ここまでずっと、化け物になった自分が何を受け入れ、何を拒むのか分からなかった。理性があると言っても、食事まで人のままとは限らない。


けれど今、俺は水を飲み、干し肉を噛んでいる。


人間の食い物を、人間みたいに。


その事実だけで、胸の奥がひどく熱くなった。


「……よかった」


今度こそ、はっきりそう言った。


息がようやく整ってくる。


腹の蹴りの痛みも、まだあるが耐えられる。


手足の震えも、少しずつ落ち着いていく。


玄室の中は静かだった。


何も反応はない。


少なくとも今は、誰も来ない。


俺は干し肉を握ったまま、壁にもたれる。


生きて、十六階にたどり着けた。


それだけで、今は十分だった。


十五階を抜けた。


探索者も、ストーカー強個体も、全部ギリギリでかわした。


そして今、扉の向こうには不死者のフロアが広がっている。


まだ何も終わっていない。


理性を保つ方法も、解呪の道も、これから探さなければならない。


だが。


少なくとも俺は、最初の地獄を越えた。


その事実に、ようやく少しだけ心が追いついてきた。


俺は水袋をもう一度傾け、小さく息を吐く。


干し肉の塩気が、やけに沁みた。


こんなものが美味くて泣きそうになるなんて、数時間前の俺なら絶対に信じなかっただろう。


けれど今は、それでよかった。


ただ、生き延びたことが嬉しかった。

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