第8話 俺を見ろ
放課後の鐘が鳴り終わる前から、旧庭園には人が集まっていた。
水の枯れた噴水。
腕の欠けた石像。
昨日、ジンとリュカが殴り合った場所を囲むように、白嶺の生徒たちが立っている。
今日は、三年が多かった。
普段は別の棟にいる連中まで来ていた。誰もが隣の者と低い声で話し、ときおり庭園の入口へ目を向けた。
ジンは噴水の縁に手を置いていた。
その隣に、セトが座っている。
「そこから見えるか」
「はい」
「立たなくていいからな」
セトは小さくうなずいた。
頬には、まだ赤い跡が残っていた。唇の傷も痛む。保健室で休んでいるうちに腹の痛みは少し引いたが、体を伸ばすと、まだ奥のほうが引きつった。
ペトラが、ジンの袖を軽く引いた。
「腕、曲げてみて」
「今かよ」
「今。もう一回ほどけたら、私が雑に縫ったみたいで嫌だから」
ジンは言われたとおりに肘を曲げた。
ペトラが縫い目を確かめ、うなずく。
「大丈夫」
「どうも」
「代金はあとで」
「わかってるって」
少し離れたところで、リュカが顔を上げた。
ジンと目が合った。
二人とも、そらさなかった。
やがてリュカのほうが、庭園へ入ってきたオスカーへ向き直る。
オスカーは上着を脱ぎ、彼へ渡した。
続けて、指輪を一つ外す。
それもリュカの手へ落とした。
「失くすなよ」
「失くしませんよ」
リュカは指輪を上着の内ポケットへしまった。
オスカーは襟元を緩め、袖をまくった。
長い指には、古い傷がいくつもあった。
ジンはそれを見て、噴水から手を離した。
「……ちゃんと殴ってきた手だな」
ペトラが横目で見る。
「今さら心配になった?」
「別に」
ジンは庭園の入口を見た。
「負けられちゃ、困るだけだ」
*
「上着、預かってくれ」
「ああ」
シルヴァンが差し出した上着を、イヴォは受け取った。
いつものように畳みかけて、途中でやめる。
自分の鞄の上へ、そのまま置いた。
「帰りは自分で持てよ」
「わかってる」
シルヴァンは襟元へ指を入れた。
留め具が、なかなか外れなかった。
イヴォは見ていたが、手を出さなかった。
ようやく外れる。
シルヴァンは息を吐き、肩を一度だけ回した。
「小試験、最後の問題は何だった」
「今、それ聞く?」
「思い出せなくて」
「俺もわからなかった」
「……そうか」
二人は少しだけ笑った。
すぐに、笑いは消えた。
庭園の中央で、オスカーが待っている。
シルヴァンはそちらへ歩いた。
人垣が割れた。
いつものように、道ができる。
けれど、その先に空いている椅子はなかった。
オスカーが、数歩先に立っていた。
「来たな」
「ああ」
「もう一度聞く。お前が負けたら、頭を下りる。それでいいんだな」
「私が負けたら、下りる」
オスカーが口の端を上げた。
「あとから、言い方が違ったなんて抜かすなよ」
ジンの顎がわずかに上がった。
シルヴァンはオスカーだけを見ていた。
「言わない」
「なら、始めようぜ」
オスカーが構えた。
シルヴァンも、両手を上げる。
庭園が静かになった。
誰かの靴底が、石を擦った。
その音が消える前に、オスカーが踏み込んだ。
*
最初の拳を、シルヴァンは避けた。
大きくは動かなかった。
首と肩をわずかにずらし、オスカーの腕の脇から拳を返す。
乾いた音がした。
オスカーの頬が横へ向く。
続けて、もう一発。
今度はオスカーの腕が間に入った。
それでも、シルヴァンはそこで止まらなかった。
足を運び、相手の正面から外れる。
振り返ってきた顔へ、短い拳を当てた。
「お……」
人垣のどこかで、声が漏れた。
オスカーが二歩、離れる。
口元を親指で拭った。
血がついていた。
「速えな」
シルヴァンは答えなかった。
肩を上げず、呼吸を整える。
ジンが目を細めた。
「……やるじゃねえか」
イヴォには聞こえていた。
けれど、そちらを見なかった。
あの間合いは知っている。
一歩、近すぎれば拳が飛んでくる。
追いかければ、追いかけた先で当てられる。
何度もやられた。
だからこそ、イヴォはまだ喜ばなかった。
オスカーが、今度はゆっくり前へ出た。
シルヴァンが打つ。
オスカーの顔に当たる。
だが、下がらなかった。
次の拳を腕で受けながら、もう一歩入ってくる。
シルヴァンが足を引いた。
その袖を、オスカーの左手がつかんだ。
「っ」
体が引かれる。
踏み込んできた肩が、目の前を塞いだ。
腹へ、右の拳が入った。
シルヴァンの息が止まった。
もう一発。
彼は相手の胸を押し、腕を振りほどいた。
離れたところへ、今度は顔へ拳が飛んできた。
視界が横へ揺れた。
靴が石畳を擦る。
噴水の縁に腰が触れた。
その瞬間、オスカーが前へ出た。
「下がってばっかじゃ、終わんねえぞ!」
拳が、シルヴァンの脇腹を捉えた。
膝が落ちた。
「シルヴァン様!」
イヴォが一歩出た。
隣から、ジンの腕が出る。
胸の前を塞がれた。
「まだだ」
「わかってる」
イヴォは低く返した。
わかっていた。
それでも、足が動いた。
シルヴァンは片膝をついたまま、息を吸おうとしていた。
うまく吸えていなかった。
セトは、腹へ手を当てた。
昼、自分も同じようになった。
声を出したいのに、息が入ってこなかった。
目の前の人も、同じだった。
学院の中で、誰もが道を空ける人だった。
その人が、石畳に手をつき、肩を震わせていた。
「どうした、連合長」
オスカーが言った。
「立てよ」
シルヴァンは顔を上げた。
唇が切れていた。
血が顎へ流れている。
「……言われなくても」
膝を起こす。
足へ力を戻す。
上体が伸びきる前に、オスカーが来た。
シルヴァンは腕を上げた。
重い音がした。
受けた腕が、自分の頬へ押しつけられる。
それでも、空いている手を返した。
拳が、オスカーの口元を打つ。
二人が離れた。
どちらも、息が荒くなっていた。
*
シルヴァンの袖が、血で汚れ始めていた。
口を拭うたびに、その跡が増えた。
オスカーの頬も腫れていた。
最初ほど、笑わなくなっている。
だが、前へ出てくる足は止まらない。
「オスカー先輩! いけ!」
リュカの声が飛んだ。
周囲の三年も声を上げる。
シルヴァンが拳を出した。
当たった。
けれど、その直後にはオスカーの肩が目の前にあった。
押される。
足が乱れる。
顔へ来た拳を避けきれず、頬を打たれた。
シルヴァンは横へよろけた。
踏みとどまろうとしたところへ、腹を殴られた。
声が漏れた。
片手が地面についた。
イヴォの指が、強く握られた。
爪が掌へ食い込んでいた。
オスカーが肩で息をしながら、シルヴァンを見下ろす。
「もういいだろ」
シルヴァンは答えなかった。
「連合長として、義理は果たした。あの特待のために喧嘩までしてやったんだ。十分、格好はついたろ」
ジンの顔つきが変わった。
だが、何か言うより先に、低い声が返った。
「……誰が」
シルヴァンだった。
石畳についていた手を、膝へ移す。
「誰が、格好つけに来たって?」
「だったら何だ。家の名を背負って、そこまで――」
「俺が嫌なんだよ」
シルヴァンが立ち上がった。
膝が一度、揺れた。
それを踏ん張った。
「お前に負けたまま、下りるのが嫌なんだよ」
オスカーの眉が動いた。
シルヴァンが、もう一度拳を上げる。
構えは最初ほど綺麗ではなかった。
髪が顔に張りついている。
片方の袖はまくれ落ち、肩には土がついていた。
イヴォは、その顔を見た。
学院長の前で見せる顔ではなかった。
家の客を迎えるときの顔でもなかった。
二人だけで殴り合って、負けて、それでも「もう一本」と言ってくるときの顔だった。
「シルヴァン!」
声が出た。
敬称はつかなかった。
「顔、上げろ! まだ見えてるだろ!」
シルヴァンの目が、一瞬こちらへ向いた。
すぐにオスカーへ戻る。
その横から、ジンが声を張った。
「勝てよ!」
人垣の何人かが、彼を見た。
ジンは構わなかった。
「その席、次は俺が取りに行くんだぞ! 勝手に空けんじゃねえ!」
シルヴァンの口元が、わずかに上がった。
傷が開いて、すぐに顔が歪む。
「……うるさい奴だな」
オスカーが来た。
シルヴァンは拳を出した。
頬を打った。
けれど、オスカーは止まらない。
左手が、また袖へ伸びた。
シルヴァンは腕を引いた。
空いた腹へ来る拳を、肘で受ける。
腕の奥まで痺れた。
それでも、今度は引きずられなかった。
横へずれ、オスカーの口元へ打ち返す。
追わずに、一歩離れた。
オスカーが血の混じった唾を吐いた。
「……逃がさねえぞ」
踏み込んでくる。
左手が動いた。
シルヴァンは袖を引きかけた。
その左手は、開かなかった。
拳が頬へ飛んできた。
避けきれなかった。
視界が横へ流れる。
続く右を両腕で受け、シルヴァンは下がった。
膝が揺れた。
足を踏み直す。
イヴォが息を詰めた。
シルヴァンの目は落ちていなかった。
拳を受けた腕の向こうから、オスカーを見ていた。
ジンは、二人の足元へ目を落とした。
下がるたび、シルヴァンは乱れた足を置き直していた。
打ち返したあとも、無理に追っていない。
まだ、何かを待っている。
噴水の縁が、すぐ後ろにあった。
さっき、膝をつかされた場所だった。
セトの指が、石の縁を握り締めた。
「シルヴァン先輩!」
初めて、大きな声が出た。
自分でも驚くほど、必死な声だった。
「負けないで!」
シルヴァンは足を止めた。
息を吸うだけで、腹が痛んだ。
後ろへ下がる足を、今度は出さなかった。
オスカーも止まった。
どちらの腕も、最初より低くなっていた。
「俺を見ろよ!」
シルヴァンが叫んだ。
「オスカー!」
「見てるよ!」
オスカーも叫び返した。
石畳を蹴った。
拳をもらっても止まらずに来る、あの踏み込みだった。
左の指が開いた。
見えた。
シルヴァンは、その手が袖へ届く直前に足を出した。
伸びてくる腕の外へ、半歩だけ。
掴みに来た指が、空を切った。
腹を狙った拳が、制服だけを擦る。
シルヴァンの膝が軋んだ。
それでも、踏み直さなかった。
オスカーの顔が、こちらを向いた。
引き戻される腕より、先に打った。
短く、まっすぐに。
拳が、顎を捉えた。
シルヴァンはそれ以上、追わなかった。
拳を戻し、そこに立った。
オスカーの足がずれた。
踏み直そうとした。
間に合わなかった。
背中から、地面へ落ちた。
*
誰も、すぐには声を上げなかった。
シルヴァンは立っていた。
腕はもう、ほとんど下がっていた。
オスカーが体を起こす。
片手を地面についた。
リュカが動きかける。
「来んな」
オスカーが言った。
リュカが止まった。
オスカーは膝を立てようとした。
腕へ力を入れる。
体が少し浮く。
けれど、立ち上がれなかった。
荒い息が、庭園に聞こえていた。
シルヴァンは待っていた。
自分の膝も、震えていた。
やがてオスカーが、地面についた拳をほどいた。
「……俺の負けだ」
シルヴァンは、しばらく動かなかった。
聞こえた言葉が、遅れて体へ届いた。
肩が落ちる。
次の瞬間、膝から力が抜けた。
尻餅をつくように座り込む。
イヴォが前へ出た。
「シルヴァンの勝ちだ」
その声で、ようやく周囲が動いた。
息を吐く者。
隣の肩を叩く者。
黙って背を向ける者。
セトは立ち上がりかけ、腹を押さえて座り直した。
「だから、急に動かない」
ペトラに肩を押される。
「はい……」
返事をした声が、少し震えていた。
ジンは噴水の縁を軽く蹴った。
それから、シルヴァンのところへ歩いていった。
イヴォが先にしゃがんでいた。
「おい」
シルヴァンが顔を上げる。
「上着、自分で持つんだろ」
「……少し、待て」
「待つよ」
イヴォは、そこで初めて笑った。
「今日はな」
ジンが二人の前に立つ。
シルヴァンの顔を見下ろした。
「ひでえ顔」
「お前も、昨日はこんなだった」
「俺のほうが、まだましだろ」
近づいてきたペトラが、即座に言った。
「似たようなものよ」
二人とも、彼女を見た。
ペトラは気にせず、シルヴァンへ布を渡した。
「口。血、落ちるから」
「……ありがとう」
向こうでは、リュカがオスカーへ肩を貸していた。
オスカーが彼の腹のあたりを見る。
「お前、そこ、まだ痛むだろ」
「いいから。掴まってください」
オスカーは一瞬黙り、それから腕を回した。
ヴェルナーが反対側へ寄る。
三人で、ゆっくりと立ち上がった。
オスカーがシルヴァンを見た。
「頭は、お前だ」
シルヴァンも、顔を上げる。
「ジンの席にも、もう口は出さねえ」
「ああ」
「だが、俺はお前の下にはつかねえ。俺の組は、連合を抜ける」
庭園が、また静かになった。
シルヴァンはオスカーの後ろを見た。
そこにいる顔を、一人ずつ見た。
昨日まで、同じ談話室にいた連中だった。
笑ったこともある。
くだらない揉め事を、一緒に片づけたこともあった。
それでも、今はオスカーの後ろに立っている。
「……わかった」
シルヴァンが答えた。
オスカーは何も言わなかった。
リュカの肩を借り、庭園を出ていく。
何人もの三年が、そのあとを追った。
ヴェルナーはすれ違いざまにセトを見た。
セトの肩が硬くなった。
けれど、目は伏せなかった。
やがて、足音が遠ざかった。
庭園は、来たときより広く見えた。
「……減ったな」
ジンが言った。
「そうだな」
シルヴァンは答えた。
イヴォが彼の横へ立つ。
「ほら。保健室」
腕を差し出した。
シルヴァンはその腕を見た。
少し迷ってから、つかんだ。
「頼む」
「重かったら、途中で下ろすからな」
「そんなに重くない」
「さっき、全然立てなかったくせに」
イヴォが引き上げる。
シルヴァンは立ち、すぐに顔をしかめた。
ジンが少し先へ出て、振り返った。
「何だよ、その歩き方」
「殴られたんだよ!」
シルヴァンが睨む。
ジンはそこで二人を待った。追いつかれると、今度は同じ速さで歩いた。
ペトラがため息をついた。
「二人とも、黙って歩いて」
*
手当が終わるころには、校舎の窓へ西日が差していた。
シルヴァンの頬には冷たい布が当てられ、両手には包帯が巻かれた。
保健室では、喧嘩に勝ったことよりも、怪我を増やしてきたことについて長く叱られた。
イヴォは隣で聞いていた。
途中、何度か笑いそうになり、そのたびにシルヴァンに睨まれた。
鞄を取りに談話室へ戻ると、ジンたちがいた。
ジンは、自分の席で昼のパンを食べていた。
ペトラは針箱を片づけている。
セトはその間に座り、腫れた頬を押さえていた。
部屋の奥には、空いた椅子がいくつもあった。
シルヴァンは、そこを見た。
すぐには足が動かなかった。
「そこ、立ってると邪魔だぞ」
ジンが言った。
口にパンが入っていた。
「入るなら入れよ」
シルヴァンは彼を見た。
「お前、本当に遠慮がないな」
「今さらだろ」
イヴォが横を通り、長卓の椅子を引いた。
シルヴァンの席の、すぐ隣だった。
そこへ腰を下ろす。
鞄を足元へ置き、長く息を吐いた。
「疲れた」
「お前は、殴り合ってないだろ」
「見てるほうも疲れるんだよ」
イヴォが顔を上げた。
「少しは考えろ、馬鹿」
シルヴァンは目を丸くした。
ジンが、ぶっと吹き出しかけた。
ペトラがすぐに言う。
「食べながら笑わない」
「いや、今のは無理だろ」
セトは、口元を隠しかけた。
イヴォがシルヴァンの隣で、平気な顔をしている。
セトも手を下ろし、少し笑った。
シルヴァンは自分の椅子を引いた。
ゆっくり座る。
脇腹が痛んだ。
背もたれへ寄りかかると、今度は肩が痛んだ。
「……どこも痛い」
「そりゃ、あんだけ殴られればな」
ジンが残りのパンを置いた。
「治ったら、俺とやれよ」
シルヴァンが顔を上げる。
「まだ言うのか」
「言う。忘れんな」
「忘れたくても、お前が言いに来るだろう」
ジンが笑った。
イヴォが横から口を挟む。
「俺も、先に一本約束してたんだけど」
「何だよ。順番待ちか」
「割り込むな、ジン」
「そんな予約、知らねえよ」
ペトラがジンへ手を出した。
「その前に、袖代」
ジンが黙った。
シルヴァンが、ジンの顔を見て笑った。
ジンは一度だけ睨み返し、ポケットを探った。
卓の向こうで、また言い合いが始まった。
シルヴァンは、誰もいなくなった側の椅子へ一度だけ目を向けた。
それから、隣で勝手に自分の昼食の包みを開けているイヴォを見た。
「それ、俺のだぞ」
「知ってる。食わないのか」
「食う」
「じゃ、半分」
「なんでだよ」
イヴォは返事の代わりに、パンを二つに割った。
大きいほうを、シルヴァンの前へ置く。
シルヴァンはそれを受け取り、今日はもう背筋を伸ばさずに、椅子へ深く座り直した。




