第7話 自分の口で
朝の白嶺は、まだ静かだった。
白い石壁の下を、掃除係が箒を引いていく。校舎の窓は半分ほどしか開いておらず、正門から聞こえる生徒の声も遠い。
セトは、裏庭にいた。
使われなくなった水盤の前で、両手を上げる。
右を出す。
戻す。
左を出そうとして、足が絡んだ。
「……っ」
誰も見ていないのに、周囲を確かめた。
昨日、来なくていいと言われた。
それでも来てしまった。
ジンがいたら、謝るつもりだった。
何を、どう言うかは、まだ決められていなかった。
セトはもう一度、拳を上げた。
「肘」
背後で声がした。
振り返る。
ジンが、鞄を肩にかけて立っていた。
昨日よりも頬の腫れが目立つ。唇の傷には、薄く血の固まった跡があった。
「開いてる。それだと、顔、がら空き」
セトは慌てて肘を下げた。
「あの、僕」
「もう一回やってみろ」
「でも」
「見てるから」
セトは水盤へ向き直った。
拳を出す。
戻す。
ジンが近づいてきて、二本の指で彼の肘を少し押した。
「ここ」
「……はい」
「肩、上げすぎ。息止めんな」
セトが息を吐くと、ジンは手を離した。
しばらく、二人とも黙っていた。
校舎の向こうで、誰かが友人を呼ぶ声がした。
「昨日の、あれ」
ジンが言った。
セトの肩が硬くなる。
「来んなってのは、言いすぎた」
「僕が、あんなことを言ったから」
「あれは腹立った」
はっきり言われて、セトはうつむいた。
ジンは頬の傷を指で触り、すぐに顔をしかめた。
「でも、お前にまで当たることじゃなかった。悪い」
セトは顔を上げた。
ジンは少し横を向いていた。
謝るときまで、あまり器用ではなかった。
「僕も……すみません」
「うん」
「見ていただけじゃ、ないのに」
「うん」
「教わってるって、言えなくて」
ジンはしばらく何も言わなかった。
それから、足元へ鞄を下ろした。
「手、上げろ」
セトが迷っていると、彼は自分の腕を軽く上げた。
「あと二本だけ。授業、始まるから」
「……いいんですか」
「そのために来たんだろ」
セトは両手を上げた。
今度は、肘を開かなかった。
*
セトが校舎へ戻ったあと、ジンは鞄を拾った。
水盤の脇を通りかけたところで、白銀の髪が見えた。
シルヴァンとイヴォが、庭へ続く小道に立っていた。
「朝っぱらから、何だよ」
「話がしたい」
シルヴァンが答えた。
ジンは二人を見比べる。
「二人がかりで?」
「聞くだけで済むなら、二人とも手は使わない」
イヴォが言った。
「言い方が物騒だな、お前」
「昨日のお前よりは、ましだ」
ジンは黙った。
イヴォも、それ以上は続けなかった。
シルヴァンが一歩前へ出た。
「昨日は、私が間違えた」
前置きはなかった。
「お前が勝ったのに、私が座るのを止めた。オスカーたちを引き留めるために、お前を待たせようとした」
ジンは鞄の紐を握っていた。
「悪かった」
「……それで」
「今日、お前の勝ちを認めるかどうか、話し合うつもりはない。勝負はついている」
「オスカーも、そう言ってたぞ」
シルヴァンの眉が動いた。
「勝ったのは認めるってな。お前も言った。リュカも、負けたことは否定してねえ」
「ああ」
「それで俺は、立ってた」
シルヴァンは目をそらさなかった。
「そうだな」
「だから、今ここで何言われても、信用はできねえぞ」
庭を抜ける風が、二人の上着を揺らした。
イヴォが何か言いかけて、やめた。
シルヴァンは一度、息を吐いた。
「……言っただけなら、昨日と同じか」
「そうだよ」
ジンが鞄を背負い直した。
「昼、俺は座るからな」
「ああ」
「また待てって言われても、待たねえ」
「わかった」
ジンは歩き出した。
イヴォの横を通るところで、腕を軽くつかまれる。
「あと、一つ」
「何だよ」
「俺が昨日言ったのは、俺が見ていたことだ。こいつに頼まれて喋ったわけじゃない」
ジンはイヴォの顔を見た。
「お前の代わりに、主様へお願いしてやったつもりもない」
「……わかった」
「なら、あの言い方はするな」
ジンは少しだけ顎を引いた。
「ああ。悪かった」
イヴォの指が離れた。
そこで、始業前の鐘が鳴った。
三人が同時に校舎を見る。
「まずい」
最初に走ったのはジンだった。
イヴォがその背中へ声を投げる。
「おい、話を聞いたせいで遅れたとか言うなよ!」
「足止めしたの、お前だろうが!」
シルヴァンは二人を追いかけかけて、自分の教室が反対側だと思い出した。
舌打ちして、踵を返した。
*
二時間目が終わったあと、セトは廊下で呼び止められた。
「セト」
本家の三年、ヴェルナーだった。
襟元の紋は、セトのものとよく似ている。
ただ、その周囲を囲む銀の縁が違った。
「これ、昼に談話室へ持ってこい」
革表紙の本を二冊、差し出される。
セトは反射的に両手を出した。
「はい」
「昨日は面倒なことになったな」
ヴェルナーは本を渡しながら言った。
「あの特待には、あまり近づくなよ」
セトの指に力が入った。
「お前まで、ああいう揉め事に巻き込まれたら、本家に何て言えばいい。俺だって庇いきれないぞ」
「あの」
「何だ」
セトは口を開いた。
廊下の向こうから、ヴェルナーの友人たちが歩いてくる。
その姿を見た途端、用意していた言葉がなくなった。
「……本は、どこへ」
「いつもの場所でいい」
ヴェルナーは彼の肩を軽く叩き、友人たちのほうへ向かった。
セトは本を抱えたまま、その場に立っていた。
また言えなかった。
下を向くと、革表紙に自分の指の跡がついていた。
*
昼の談話室は、いつもより人が多かった。
長卓の周囲はもちろん、窓際や入口にも生徒がいる。
普段なら賑やかな札遊びの席も、今日は誰も手を動かしていなかった。
ジンは入口で一度だけ室内を見て、それからペトラのところへ行った。
「これ」
洗った布を差し出す。
ペトラは受け取り、広げた。
「ありがと」
「上着も」
「貸して。ほつれだけなら、昼休みで済むから」
ジンが上着を脱ぐと、ペトラは袖口を裏返して確かめた。
彼はその隣を通り過ぎる。
まっすぐ、長卓へ向かった。
昨日リュカが座っていた椅子を引き、腰を下ろした。
鞄から昼食の包みを出す。
「おい」
リュカの声がした。
ジンは顔を上げた。
「何してる」
「昼飯」
「そこは、話がつくまで誰も座るなって――」
「昨日の指示は取り消す」
窓際に立っていたシルヴァンが言った。
部屋の視線が、一斉に動いた。
「勝ったのはジンだ。そこは、ジンの席だ」
リュカがオスカーを見る。
オスカーは、ゆっくりと腕を組んだ。
「一晩で、ずいぶん考えが変わったな」
「昨日、間違えたからだ」
「俺たちが抜けると言ったのは、覚えているか」
「覚えている」
「それでもか」
シルヴァンは答えた。
「抜けるなら、止めない」
椅子の脚が、床を擦った。
オスカーの近くにいた三年が、腰を浮かせていた。
イヴォがそちらを見る。
動きはしなかった。
ジンも、立たなかった。
開きかけた包みを卓へ置き、シルヴァンを見ていた。
「そうか」
オスカーの声から、笑いが消えた。
「俺たちより、そいつを取るわけだ」
「約束を守らせる。それだけだ」
「それだけで、ここの連中を納得させられると思うなよ」
そのとき、入口で本が鳴った。
セトが、抱え直そうとして取り落としかけたのだった。
「セト、こっちだ」
ヴェルナーが指先で呼ぶ。
セトは長卓へ歩き、本を置いた。
「置いたら出ろ。お前の聞く話じゃない」
「……僕も」
ヴェルナーが顔を向けた。
「何だ」
セトは唾をのんだ。
誰も、彼のために静かにしてくれたわけではなかった。
皆が、連合長とオスカーの続きを待っている。
今ここで自分が話せば、邪魔になる。
そう思った。
それでも、昨日のジンの顔を思い出した。
「僕も、昨日の勝負を見ていました」
「それがどうした」
「ジン先輩が勝ちました」
「それはもう聞いた」
誰かが小さく笑った。
セトの顔が熱くなる。
ジンが、椅子からわずかに腰を浮かせた。
セトはそちらを見ず、続けた。
「だから……先輩がそこに座るのは、変じゃないと、思います」
「お前に聞いてないんだよ」
ヴェルナーの声が低くなった。
「余計なことを言うな。出ろ」
セトの足が、半歩動いた。
いつものように。
言われたとおりに。
それから、止まった。
「朝も、そいつといたのか」
ヴェルナーが聞いた。
セトが動かないのを見て、目を細める。
「また見ていたのか。そんなに珍しいか、人間の喧嘩が」
「違います」
声が、思ったより大きく出た。
ヴェルナーが黙る。
セトの呼吸が浅くなった。
ここで、引き返せる。
聞き間違いだったことにできる。
けれど、今朝の裏庭で、ジンはもう一度、腕を上げてくれた。
「……見ていただけじゃ、ありません」
セトは言った。
「昨日、嘘をつきました」
ジンが、完全に動きを止めた。
「ジン先輩に、喧嘩を教わってます」
語尾が震えた。
それでも、最後まで言った。
「僕が頼んで、教わってます」
「お前」
ヴェルナーが彼の腕をつかんだ。
「ちょっと外へ出ろ」
セトは踏みとどまった。
「まだ、話してます」
「いい加減にしろ」
腕が強く引かれる。
セトの肩が前へ出た。
「本家に知られたいのか。誰がこんなことを許した」
セトは、つかまれた腕を見た。
痛かった。
怖かった。
朝、言えなかった言葉を、今度は声にした。
「僕から、話します」
「何?」
「僕が、教わりたいんです」
ヴェルナーの頬が引きつった。
周囲に見られていることを、急に思い出したようだった。
「生意気な口を――」
「離してください」
セトが腕を引いた。
乾いた音がした。
頬を張られたのだとわかるまで、一瞬かかった。
体が横へ流れ、卓に手をつく。
「てめえ!」
ジンが立った。
その前で、セトが足を踏み出した。
右の拳を出す。
狙った場所には当たらなかった。
ヴェルナーの肩を、かすめるように叩いただけだった。
肘も、開いていた。
それでも、拳を出した瞬間には、目を閉じなかった。
「お前、誰に手を上げてんだ!」
腹へ拳が入った。
息が抜けた。
セトは膝をつき、床に手をついた。
視界に、もう一度振り上げられる腕が映った。
その腕を、イヴォがつかんだ。
「そこまでだ」
「離せ、イヴォ!」
「離したら殴るだろうが」
イヴォの声は、もう丁寧ではなかった。
ジンがセトの前にしゃがむ。
「おい。顔、上げろ」
セトは口を開いたが、うまく息が吸えなかった。
ヴェルナーが腕を振りほどこうとする。
「これも連合長の指図か!」
イヴォは相手の手首を離さなかった。
「俺が、やめろって言ってんだよ」
部屋の奥で、オスカーが舌打ちした。
「大したものだな。そいつに教わり始めた途端、本家に拳を向けるとは」
ジンが振り返った。
「てめえ、今――」
「言われたんじゃ、ありません」
途切れた声がした。
セトだった。
片手を腹へ当てたまま、顔を上げていた。
「ジン先輩に、言われて、やったんじゃありません」
息を吸う。
まだ痛い。
「僕が……嫌だったんです」
それ以上は続かなかった。
ジンは彼の肩を支えた。
シルヴァンが、長卓の脇を歩いてきた。
オスカーの前で止まる。
「連合長が気に入らないなら、私に言え」
「言っているだろう。お前が、ここの序列を――」
「ジンを座らせると決めたのは、私だ」
シルヴァンは遮った。
「その判断が気に入らないなら、私を下ろせ」
オスカーが目を細めた。
「何を言っているかわかっているのか」
「わかってる」
シルヴァンの声が変わった。
「俺を倒せばいい」
誰も口を開かなかった。
イヴォも、ジンも。
セトさえ、痛む腹を押さえたまま、二人を見ていた。
オスカーが椅子から立った。
近くで向き合うと、彼のほうがわずかに背が高かった。
「俺が勝ったら、頭を下りるんだな」
「ああ」
「家の者が、あとから口を出してきてもか」
「俺とお前の喧嘩だ」
シルヴァンは目をそらさなかった。
「文句があるなら、目の前の俺に言え」
オスカーの口元が、ゆっくり上がった。
さっきまでの、相手をいなす笑いではなかった。
「放課後。旧庭園で待ってる」
「わかった」
「逃げるなよ、連合長」
「そっちこそ」
オスカーが歩き出す。
イヴォは、ようやくヴェルナーの腕を離した。
ヴェルナーは彼を睨み、それからセトを見下ろした。
「家には話す」
セトの肩が震えた。
ジンが何か言おうとしたが、セトが先に口を開いた。
「……僕からも、話します」
ヴェルナーは返事をしなかった。
オスカーたちが出ていくと、何人もの生徒があとを追った。
残った者も、誰一人、歓声を上げたりはしなかった。
談話室には、ひっくり返った椅子と、開きかけの昼食が残っていた。
*
「立てるか」
ジンが聞いた。
セトはうなずこうとして、途中で止めた。
「……ちょっと、待ってください」
「おう」
ジンは待った。
セトの呼吸が落ち着いてから、腕を貸して立たせる。
そして、自分が座っていた椅子を引いた。
「ここ。座ってろ」
セトは腰を下ろした。
ついさっきまで、誰が座るかで揉めていた椅子だった。
今は、膝が震えていて、それどころではなかった。
ペトラが布を持ってくる。
「ああ、せっかく洗ってくれたのに」
ジンが返したばかりの布だった。
彼女はそれを折り直し、セトへ渡した。
「口、切れてる。押さえて」
「すみません」
「それより、保健室。歩けそう?」
「少ししたら」
「じゃ、少し待つ」
ペトラは卓に針箱を置いた。
ジンの上着には、まだ針が刺さっていた。
セトは布を口へ当てたまま、うつむいた。
「ジン先輩」
「何だ」
「僕、昨日は……」
「うん」
「皆の前で、言えなくて」
ジンは少し腰をかがめた。
「今日は聞こえた」
セトが顔を上げる。
「ちゃんと聞こえたよ」
それを聞いた途端、目の奥が熱くなった。
セトは慌てて下を向いた。
ジンは、見ないふりをした。
「でも、肘は開いてた」
「……はい」
「肩にしか当たってねえし」
「はい」
「人を殴ると、こっちも痛えだろ」
セトは赤くなった拳を見た。
「すごく、痛いです」
「覚えとけ」
ジンはそれ以上、何も言わなかった。
少しして、セトが立てると言った。
ジンが鞄と昼食をまとめ、ペトラが縫いかけの上着を持つ。
「ジン、それ、こっちの袖を引っ張らないで。針がある」
「わかってる」
「今、引っ張った」
「悪い」
入口で、ジンが一度だけ振り返った。
シルヴァンは、長卓のそばに立っていた。
「おい」
「何だ」
「お前まで負けたら、俺が取りにいく相手、変わるじゃねえか」
シルヴァンは一瞬、黙った。
それから口元を上げる。
「まだ狙っていたのか」
「当たり前だろ」
「なら、見に来い」
ジンは鼻を鳴らした。
「まず、こいつを保健室に連れてく」
「ああ」
三人が出ていった。
シルヴァンは、その背中が見えなくなるまで入口を見ていた。
隣へ、イヴォが来る。
「言ったな」
「言った」
「オスカー、強いぞ」
「知ってる」
「それに、あいつとやるって言ったら、もう今までどおりには戻らないぞ」
シルヴァンは、空いた椅子を見た。
ジンが座り、セトが座った椅子だった。
「……昨日のままにしておくのも、嫌だった」
イヴォは黙っていた。
やがて、小さくうなずく。
そのとき、午後の授業を告げる鐘が鳴った。
シルヴァンが顔を上げた。
「次、何だった」
「魔術史」
「小試験は」
「ある」
シルヴァンは目を閉じた。
「最悪だ」
「連合長を賭ける前に、そっちの点も何とかしろよ」
「お前、勉強したのか」
「昨日、お前と遅くまで飯食ってたんだけどな」
二人は同時に鞄をつかんだ。
廊下へ出ると、教室へ戻る生徒たちが道を空けかけた。
「いい、そのまま行ってくれ!」
シルヴァンが声をかけ、空いているほうへ体を滑らせる。
イヴォが隣に並んだ。
そのまま二人で、鐘が鳴り終わる前の廊下を走った。




