第6話 勝ったのに
「俺の席はどこだ。連合長」
シルヴァンは、ジンの手を見た。
握り締めた布から、血が指の間ににじんでいる。頬は腫れ、唇の端が切れていた。制服の襟も片側だけめくれている。
その向こうで、リュカが椅子に座っていた。
「リュカ。席を空けろ」
リュカの肩が動いた。
けれど、立ちはしなかった。先に、隣のオスカーを見る。
「その話をしていたところだ、シルヴァン」
「昼に聞いた。勝てば席を譲ると」
「ああ。軽率な約束だった」
「したことは認めるんだな」
オスカーは、持っていた茶器を卓へ戻した。
小さな音が、妙にはっきり響いた。
「連合の席だぞ。リュカ一人で好きに扱えるものじゃない」
「だったら、勝負の前に止めるべきだった」
「俺にも同じこと言わせるなよ」
ジンが口を挟んだ。
オスカーの目が、そちらへ向く。
「今、連合長と話している」
「俺の話だろうが」
ジンが一歩出た。
イヴォが、二人の間へ腕を差し入れる。
「ジンが勝ったことは、私が確認しています。約束を聞いた者も、この場に何人もいる」
「だから、勝ったことは誰も否定していない」
「ならば――」
「そいつを座らせて、リュカを下がらせる。俺の組の連中が、それをどう見ると思う」
オスカーが背もたれへ体を預けた。
壁際にいた三年が、腕を組み直す。窓のそばにいた一人も、笑うのをやめた。
「二年の特待を、自分たちの上へ置かれたと思うだろうな」
「置かれた?」
ジンの声が低くなった。
「俺が取ったんだよ」
オスカーは答えなかった。
シルヴァンを見たまま、椅子を少し後ろへ引く。
「それでも通すというなら、俺たちは連合を抜ける」
部屋の端で、誰かが息をのんだ。
「俺の組は、俺が連れていく。家の顔に泥を塗られてまで、ここへ座る理由はない」
「勝手に賭けて負けたんでしょ」
ペトラが言った。
「泥を塗ったの、誰よ」
「ペトラ」
オスカーに名を呼ばれても、彼女は目をそらさなかった。
シルヴァンは、部屋を見渡した。
オスカーの後ろへ寄った者がいる。動かずに様子をうかがっている者もいる。
入口にいた一年が、隣の生徒の袖を引いていた。出ていいのか、と聞きたい顔だった。
シルヴァンが唇を開くまで、誰も動かなかった。
「明日の昼、各組の頭を集める」
ジンの眉が動いた。
「そこで話をつける。リュカ、その席は今すぐ空けろ。話がつくまで、誰も座るな」
リュカが、今度こそ立った。
脇腹を押さえ、隣の三年に肩を借りる。
椅子が一つ、空いた。
ジンはそれを見ていた。
「……俺もか」
シルヴァンが顔を向ける。
「俺も、座っちゃいけねえのか」
「一日だけ待ってくれ」
返事はなかった。
「お前の勝ちを、なかったことにするつもりはない」
「じゃあ、なんで俺まで立ってんだよ」
シルヴァンの言葉が止まった。
ジンは笑った。
笑おうとして、切れた唇が引きつった。
「俺が負けてたら、話し合いなんか要らなかったよな」
「ジン」
「負けたら終わりだったんだろ。窓際に戻って、黙ってろって。それで済んだんだろ」
血のついた布が、卓に押しつけられた。
「勝ったんだぞ、俺は」
声が大きくなった。
自分でも抑えられなかった。
「ちゃんと、勝ったんだぞ」
セトが顔を上げた。
すぐ隣にいる三年は見なかった。今度は、ジンだけを見ていた。
けれどジンは、もう誰の返事も待っていなかった。
窓際の鞄をつかみ、肩へ引っかける。
「どこへ行く」
シルヴァンが聞いた。
「知らねえよ」
「まだ話は終わっていない」
ジンが振り返った。
「俺とリュカの喧嘩は、とっくに終わった」
入口にいた生徒たちが、道を空けた。
ジンは誰にもぶつからなかった。
扉も蹴らなかった。
ただ、閉めなかった。
廊下を遠ざかる足音が、いつまでも部屋へ入ってきた。
*
「ジン」
階段を下りかけたところで、ペトラが追いついてきた。
「その布。捨てないでよ」
ジンは、握ったままだった布を見た。
「……お前のか」
「ほかに誰が渡したの」
広げようとすると、乾きかけた血が指に貼りついた。
「洗って返す」
「そうして」
ペトラの目が、彼の袖口へ落ちる。
朝からほつれていた糸が、さらに長くなっていた。殴り合いの途中で引っかけたのだろう。
「袖も。これ以上ほっとくと、ほんとに面倒になるよ」
「いいって」
「よくないから言ってるんだけど」
「同情なら――」
「それ、やめて」
ペトラの声が硬くなった。
ジンが口を閉じる。
「腹が立ってるのはわかる。私も腹立ってる。でも、私にその言い方するのはやめて」
階段の下を、何人かの生徒が通り過ぎた。
ジンはそちらへ目を向けたまま、黙っていた。
ペトラも、返事を催促しなかった。
「……悪い」
「うん」
「袖。明日、頼んでいいか」
「先に汚れを落としてきて。血の上から縫いたくない」
「わかった」
「あと、無料じゃないから」
「知ってる」
ペトラは、それでようやく少しだけ口元を緩めた。
「ならいい」
彼女は階段を上り直した。
ジンは二段下りて、振り返った。
「ペトラ」
「何」
「約束のこと。言ってくれて、ありがとな」
彼女は片手に持っていた針箱を、軽く持ち上げた。
「ちゃんと聞いてたからね」
それだけ言って、踊り場の向こうへ消えた。
ジンは鞄を背負い直した。
少しだけ、肩の力が抜けた。
そのまま裏門を抜けようとして、石塀の脇に立っているセトを見つけた。
「……ジン先輩」
「何だ」
セトは両手を体の前で握り合わせていた。
言いたいことがあるのはわかった。
言えないことも、わかった。
「さっきの。すごかったです」
ジンは黙っていた。
「最後の、あの、相手の腕の下に入ったところ。僕、全然見えなくて」
「見てただけなんだろ」
セトの口が止まった。
朝、裏庭で聞いたのと同じ言葉だった。
ジンは、言ってからそれに気づいた。
「あれは……」
セトがうつむく。
「家の人に、知られると」
「うん」
「別に、先輩に教わるのが嫌とか、そういうことじゃ」
「うん」
それ以上、うまく返事ができなかった。
セトが顔を上げる。
「明日の朝は、何時に――」
「来なくていい」
言葉が先に出た。
セトの顔から、表情が消えた。
ジンは顎を引いた。
「ばれると困るんだろ」
しばらくして、セトが小さく頭を下げた。
「……わかりました」
ジンは門を出た。
背中へ、呼び止める声は飛んでこなかった。
十歩ほど歩いてから、奥歯を噛んだ。
言いすぎた。
セトにまで言うことじゃなかった。
足が一度、止まりかけた。
けれど戻らず、そのまま坂を下りた。
*
談話室から人がいなくなると、椅子の多さが目についた。
窓際にも、壁際にもある。
脚の長さが揃わず、座ると傾くもの。背もたれに誰かが名前を彫ったもの。どこかの教室から勝手に運んできたもの。
リュカが座っていた椅子も、そうした中の一つだった。
座面の革が破れ、隅から詰め物がのぞいていた。
シルヴァンは、その前に立っていた。
「……何を言えばよかった」
「俺に聞くのか」
イヴォが答えた。
扉は閉まっている。
もう、誰も「様」をつけなかった。
「お前しかいない」
「先に言っとくけど、俺はジンにも腹が立ってるからな」
シルヴァンが振り返った。
イヴォは壁から背を離した。
「俺が約束と違うって言ったら、主様に頼んで椅子をもらいたいわけじゃないってさ」
「そんなことを」
「言ったよ」
イヴォは、卓に残っていた空の茶器を脇へ寄せた。
少し乱暴だった。
「俺は、俺が見てたことを言ったんだよ。お前に頼まれたからでも、あいつがかわいそうだったからでもねえ」
「……そうか」
「オスカーには、お前についていくのが俺の役目だって言われた」
シルヴァンの目が細くなる。
「それは――」
「わかってる。お前が言わせたわけじゃない」
イヴォは空いている椅子を引き、腰を下ろした。
足を投げ出し、首の後ろを押さえる。
「今日は、どいつもこいつも腹が立つ」
シルヴァンは少し迷ってから聞いた。
「俺にもか」
「立ってる」
即答だった。
シルヴァンは苦い顔をした。
イヴォも笑わなかった。
「俺がジンなら、帰る」
「……ああ」
「勝ったあとで、もう一回、座っていいか決められるんだろ。やってられるかよ」
「わかってる」
「さっきは、わかってなかっただろ」
シルヴァンは言い返しかけた。
開いた口を、そのまま閉じた。
談話室の外で、下校を促す鐘が鳴った。
一度。
間を置いて、もう一度。
「連合を割られるのが、怖かった」
シルヴァンが言った。
イヴォは顔を上げた。
「オスカーだけじゃない。ほかの組まで動いたら、もう止められなくなると思った。ここで私が決めていいのかと――」
そこで、言葉を切った。
自分でも、まだ言い訳を続けようとしていた。
イヴォはしばらく黙っていた。
「怖えよ、そりゃ」
静かに言った。
「俺だって、あいつら全員と揉めたいわけじゃない」
シルヴァンは空いた椅子を見る。
「でも、出ていったのはジンだった」
「ああ」
イヴォも同じ椅子を見た。
しばらくして、シルヴァンが自分の鞄を持った。
「明日、ジンと話す」
「聞くかね、あいつ」
「わからない。けど、俺が行く」
イヴォは返事をせず、立ち上がった。
シルヴァンが扉へ向かうと、隣まで来る。
「そのあと、俺にも話させろよ」
「ジンに?」
「両方」
シルヴァンは彼を見た。
イヴォは、今度こそ少しだけ口の端を上げた。
「言われっぱなしで終わる気はねえから」
シルヴァンも、わずかに笑った。
扉を開ける前に、イヴォが窓の外を見る。
「串焼き、もう閉まってるな」
「……そうだな」
「東の店なら、まだやってる」
「遠いぞ」
「走れば?」
「腹が減ってるんじゃなかったのか」
「減ってるから急ぐんだろ」
イヴォが先に扉を開けた。
シルヴァンは最後にもう一度だけ、誰も座っていない椅子を見た。
それから、友人のあとを追った。
*
坂を下りてから、ジンはしばらく歩き続けた。
行き先はなかった。
学院へ戻りたくない。それだけで、通りを二本、余計に曲がった。
鍛冶場から帰るドワーフの職人たちが、道いっぱいに広がって歩いている。荷車を押す魔族の男が、前を塞ぐ子どもたちへ声を張った。
学院ではうるさく感じた靴音が、この通りでは自分でも聞こえない。
ふと、腹が鳴った。
ジンは眉を寄せた。
昼に食べようとしていたパンは、鞄の底に入ったままだった。
取り出す気になれずに歩いていると、肉の焼ける匂いがした。
次に、玉ねぎの甘い匂い。
通りに張り出した木の看板には、太い字でこうあった。
――アーデン食堂。
入口の脇に、今日の献立が立てかけてある。
肉の煮込み。焼き魚。豆と野菜のスープ。
ジンは値段を確かめた。
財布の中を指で探る。
それから、扉を開けた。
「いらっしゃ――あっ、待て待て待て!」
入った途端、声が飛んできた。
赤茶色の髪をした少年が、腕に皿を積みすぎていた。
一番上の一枚が、ゆっくりと滑っている。
ジンは反射的に手を出した。
皿の縁をつかむ。
拳の傷が引きつり、顔がゆがんだ。
「おお、助かった!」
「……積みすぎだろ」
「二回行くの、面倒で」
「割ったら三回じゃ済まねえぞ」
近くの席から、別の少年が言った。
頬に小さな貼り薬をつけ、片手にパンを持っている。
「ダン、見てたなら助けろよ!」
「俺、客」
「さっき厨房からつまみ食いしただろ!」
「味の確認」
「レオ!」
厨房の奥から、女の声が飛んだ。
「喋ってないで、皿を先に出しな!」
「わかってるって!」
レオと呼ばれた少年は、皿を台へ下ろした。
振り返って、そこで初めてジンの制服を見たらしい。
「……白嶺?」
ジンの指に力が入った。
「だったら何だよ」
「いや。珍しいなと思って」
レオは入口の脇へ身を寄せた。
「一人か?」
「ああ」
「空いてるとこ、どうぞ」
言い方だけ、急にぎこちなかった。
ダンがパンをくわえたまま笑う。
レオが、その頭を軽くはたいた。
ジンは二人の横を通り、壁際の小さな卓についた。
誰も止めなかった。
鞄を足元へ置き、献立を見る。
「肉の煮込み。パン付きで」
「はいよ」
レオが厨房へ顔を向けた。
「母ちゃん、煮込み一つ!」
「聞こえてるよ!」
ダンがまた笑った。
レオは何か言い返しかけて、やめた。新しい客が入ってきたからだった。
水差しを持ち、注文を聞き、空いた皿を下げる。
そのたびに、腰へ結んだ前掛けの紐がほどけかける。
「なあ」
ジンが声をかけた。
レオが振り返る。
「お前が、鳴鐘のレオか」
「ああ」
「三年を倒したっていう」
「五人な」
即座に返ってきた。
ジンは少し黙った。
「人数は聞いてねえ」
ダンが吹き出した。
「今日ずっとそれなんだよ。二十人だの三十人だの、勝手に増えるから」
「俺一人でやったことにもなってるしな」
レオは水を注ぎながら言った。
「そっちまで噂、行ってんのか」
「昼に聞いた」
「白嶺まで?」
少しだけ、声が弾んだ。
ダンが横から顔をのぞき込む。
「嬉しそう」
「うるせえ」
ジンは水を飲んだ。
口の端にしみた。
レオの視線が、そこへ落ちる。
「お前も、喧嘩か」
「まあな」
「勝った?」
ジンの手が止まった。
レオは何も知らない顔で待っている。
「……勝った」
「そっか」
「勝ったんだよ」
二度目は、少し強い声になった。
レオが眉を動かす。
ジンは杯を置いた。
聞かれたら、怒鳴るかもしれないと思った。
何があった。
誰に勝った。
だったら、なんでそんな顔をしている。
どれを聞かれても、まともに答えられる気がしなかった。
厨房から声がした。
「レオ、煮込み!」
「おう!」
レオはそちらへ向かった。
戻ってきたときには、両手に皿を持っていた。
「熱いぞ」
卓へ置かれた煮込みから、湯気が立つ。
大きく切った肉と、柔らかく煮えた野菜。その横に、厚切りのパンが二つ。
ジンは匙を取った。
指を曲げると、また傷が痛んだ。
持ち方を変えて肉をすくい、口へ入れる。
「っ、熱……」
「だから言ったろ」
「もうちょい早く言えよ」
「置く前に言ったぞ」
「レオ、お客と喧嘩しない」
ダンがすました顔で言う。
「お前が一番うるせえんだよ!」
ジンは下を向いた。
匙を持ったまま、小さく吹き出した。
*
食べ始めると、思っていたより腹が減っていることがわかった。
煮込みの肉は、匙で崩れた。
皿の底に残った汁をパンで拭っていると、ダンが隣の卓から話しかけてきた。
「白嶺って、普段からそんなに喧嘩すんの?」
「する奴はする」
「へえ。もっとこう、手袋外して、名前を名乗ってから始めるのかと」
「何だそれ」
「いや、あっちの連中、うちの制服見ただけで、すげえ顔するからさ。靴の裏に何かついてた、みたいな」
ジンの手が止まった。
「全員じゃねえよ」
ダンが彼を見る。
「そういうのばっかじゃねえ」
少し、声が尖った。
言ってから、ジン自身が妙な気分になった。
あんなに腹を立てて、出てきたばかりだった。
戻りたくなくて、坂を下りたのに。
頭の中に、ペトラの顔が浮かんだ。
俺はそういう話をしているんじゃない、と怒ったイヴォの声も。
ジンはパンを皿へ置いた。
「……全員じゃ、ねえんだよ」
「おう。悪い」
ダンはあっさり謝った。
レオが空の水差しを抱えて通りかかる。
「うちにも、ダンみてえにうるせえのばっかじゃねえしな」
「お前に言われたくねえなあ!」
「俺は静かだろ」
「どの口が!」
厨房から、また声が飛んだ。
「レオ! ダン! 両方うるさい!」
二人が同時に黙った。
ジンは、ちぎったパンを口へ運びながら二人を見比べた。
まだ言い返したそうな顔まで、そっくりだった。
レオが、空になりかけた皿を見た。
「足りるか」
「……もうちょい食える」
「パン追加する?」
「いくらだ」
値段を聞いて、ジンは財布から硬貨を出した。
「一つ」
「はいよ。名前、なんつうの」
「ジン」
「ジンな」
レオは厨房へ引っ込んだ。
すぐに戻ってきて、まだ温かいパンを置く。
それだけだった。
どこで喧嘩をしたのかも、どうして一人でここへ来たのかも、聞かなかった。
ジンはパンをちぎった。
袖口の糸が、卓の上へ垂れた。
引き抜きかけて、手を止める。
これ以上ほつれると、面倒になる。
そう言われたのを思い出した。
糸を袖の内側へ押し込み、汚れた部分を一度だけ見た。
明日までに、洗っておかなければならない。
「……うめえ」
小さく言った声は、皿を重ねる音に紛れた。
ジンはもう一口、パンを食べた。




