第4話 いつもの席
「二十人だって」
鳴鐘学園の門をくぐったところで、そんな声が聞こえた。
ミロは顔を上げた。
少し前を歩いていた男子二人が、興奮した様子で話している。
「北棟の三年、まとめてやられたらしいぞ」
「二年のレオだろ?」
「ロッシュさんも負けたって」
「一人で?」
ミロの足が、少し遅くなった。
五人だった。
三年は五人で、助けに来てくれたのは四人だった。
先生も来ていない。
けれど、その話をしている二人に声をかける勇気はなかった。
まだ腹に響くので、階段は一段ずつ上った。
右手首には、薄く布が巻いてある。
教室へ入ると、隣の席のニールが、こちらを見て目を丸くした。
「ミロ」
返事をする前に、机の間から身を乗り出してくる。
「お前、昨日レオと北棟で暴れたって?」
周りの何人かが振り向いた。
ミロは鞄の紐を握った。
「……暴れてない」
「でも、いたんだろ?」
「いたけど」
「三年倒した一年って、お前?」
喉が詰まった。
昨日までなら、曖昧に頷いていたかもしれない。
そうすれば、少しだけ相手の目が変わることを、もう知っていた。
ミロは、巻かれた手首を見た。
「それ、嘘なんだ」
ニールが瞬きをした。
「え?」
「俺が、嘘ついた。喧嘩強いって。三年倒したっていうのも」
教室の声が、遠くなった気がした。
「俺は殴られてて。レオさんたちが、助けに来てくれただけ」
誰かが、小さく笑った。
「何だよ。強いわけじゃねえのか」
ミロは頷いた。
頷いたあとで、机の横へ鞄を掛けた。
笑った相手の顔を見ることは、まだできなかった。
ニールが少し黙ってから、聞いた。
「じゃあ、レオと知り合いなのは本当?」
「……うん」
「どうやって知り合ったの」
「昼、一緒に食べて」
「へえ。二年の知り合いなんて、俺いねえや」
それだけ言って、ニールは自分の椅子へ戻った。
ほかの連中も、少しずつ別の話を始めた。
ミロは座った。
机の上に教科書を出す。
手は少し震えていたが、昨日よりは早く、止まった。
*
予鈴が鳴る少し前、担任に呼ばれた。
廊下へ出ると、先生の目が手首へ向いた。
「昨日の実習場にいたのは、お前か」
ミロは頷いた。
「怪我は診てもらった?」
「橋詰で。今日も、学校が終わったら行きます」
「そうか」
先生は教室の中を一度見てから、廊下の端を指した。
「何があったか、話せるか」
ミロは、すぐには返事をしなかった。
先生は待っていた。
ミロは息を吸った。
「……俺、嘘をついたんです」
そこから話した。
途中で何度か、言葉が止まった。
北棟の三年を倒したと言ったところは、特に話しづらかった。
それでも、最後まで話した。
先生は、ミロの言葉を何度か確かめながら、手帳に書いた。
「ほかの生徒にも話を聞く。今日、また何かあったら、すぐ言いに来い」
「はい」
「あと、体育は見学な」
ミロは、もう一度頷いた。
教室へ戻ったときには、最初の授業が始まっていた。
席へ座ると、ニールが自分のノートを少し寄せた。
「ここまで進んだ」
「……ありがとう」
「字、読める?」
ミロはノートを見た。
急いで書いたらしく、ところどころ線が繋がっている。
「ここ、何?」
「俺もわかんねえ」
二人で小さく笑った。
前から先生の声が飛んできて、揃って背筋を伸ばした。
*
エマは、返ってきた答案を裏返した。
隣で、ニカが自分の答案と見比べている。
「私、二問」
「見ればわかる」
「エマ、一問」
「見なくていい」
「二倍じゃん」
エマは机に肘をついた。
「五問中二問で、そんなに喜べる?」
「五問中一問の人には勝ったから」
ニカの声は弾んでいた。
頬には、昨日の喧嘩の痕が薄く残っている。
その顔で小テストの点を自慢されると、何だか余計に腹が立った。
エマは答案をノートへ挟もうとした。
奥から、折り畳んだ募集の紙が覗いた。
王都治療学院。
夏期講習。
紙を少し押し込み、答案は別のページへ挟んだ。
筆記の選抜では、どんな問題が出るのだろう。
回復魔法のことなら、今よりは書けると思う。
でも、思っているだけかもしれない。
「エマ、行こ」
ニカが椅子を引いた。
「どこ?」
「レオの顔見に」
「昨日見たでしょ」
「今日、もっと腫れてるかもしれないじゃん」
「楽しみにするところじゃないんだけど」
そう言いながら、エマも立ち上がった。
廊下へ出ると、レオはすぐに見つかった。
一年生らしい男子に、囲まれていた。
「本当っすか。三十人相手にしたって」
「増えてんじゃねえか」
レオが眉を寄せる。
「五人だって。あと、俺一人じゃねえって」
「でもロッシュさん倒したんすよね」
「そいつとはやったけど」
「じゃあ、もう鳴鐘の頭じゃないっすか!」
レオが、少し黙った。
エマは、その顔を見た。
満更でもなさそうだった。
横にいたトマも、同じことに気づいたらしい。
「嬉しそうだな」
「別に」
「顔、緩んでるぞ」
「腫れてんだよ」
ニカが吹き出した。
ダンは大げさに背筋を伸ばした。
「レオさん。本日も、ご機嫌麗しく」
「おう」
「返事すんな」
トマに言われ、レオがダンを睨んだ。
「お前が変なこと言うから」
「乗ったのお前じゃん」
そのとき、廊下の向こうから声が響いた。
「アーデン!」
四人の肩が、少しだけ動いた。
歴史の先生だった。
ダンが、小さく呟いた。
「本物だ」
先生の目がダンへ向いた。
「何が本物だって?」
「何でもないです」
「昨日の件で話を聞く。お前たち四人、放課後に来なさい」
レオが口を開いた。
「あの、ミロは」
「あの子の話は、担任が聞いている。今度はお前たちの番だ」
先生が去っていく。
一年生たちも、何となく姿勢を正したまま散っていった。
レオが、長く息を吐いた。
「頭になったら、説教免除とかねえのかな」
「もうなった気でいる」
エマが言うと、ニカが腹を抱えて笑った。
*
昼休み、ミロは屋上へ来た。
扉の前で、一度だけ息を整える。
取っ手を引いた。
まだ、トマしかいなかった。
給水槽の陰に座り、木の橋へ細い部品をつけている。
「こんにちは」
「おう」
トマは顔を上げた。
「ちょっと、ここ持ってろ」
ミロは隣へしゃがんだ。
指で示されたところを押さえようとすると、トマが手首を見た。
「そっち、大丈夫か」
「左なら」
「じゃあ左で」
持ち替える。
トマが小さな木片を合わせた。
しばらく、二人とも喋らなかった。
風が橋の欄干を抜けた。
「これ、曲がってます?」
ミロが聞いた。
「どこ」
「こっち側。ちょっとだけ」
トマが顔を近づけた。
反対から覗き、もう一度こちらへ戻る。
「……だよな」
部品を外した。
ミロが慌てる。
「すみません」
「何で」
「いや、せっかくつけたのに」
「曲がったままのほうが嫌だろ」
トマは削り直した木片を、もう一度合わせた。
今度はまっすぐだった。
「離していいぞ」
ミロは手を離した。
トマが橋を箱へしまう。
その間に、ミロは鞄から弁当を出した。
今日は、自分の分も持ってきた。
給水槽の陰へ置こうとして、少し迷う。
「ここ、座っていいですか」
トマは、ほんの少し身体をずらした。
「箱、置くからこっち空けといて」
「はい」
ミロは座った。
昨日と同じ場所だった。
*
「おー、もう来てんじゃん」
レオが木箱を抱えて現れた。
ダンがその後ろから、扉を押さえる。
ニカとエマは、まだ小テストの話をしていた。
「一問しか違わないでしょ」
「二倍違う」
「その言い方やめて」
レオが箱を下ろした。
ミロの弁当を見つける。
「今日、自分のあるんだな」
「はい」
「じゃ、肉いらねえ?」
ミロは一瞬、遠慮しようとした。
でも、匂いがした。
「……食べたいです」
「おう。食え食え」
蓋が開いた。
アーデン食堂の焼き印の下から、今日も肉の匂いが広がった。
ミロも自分の弁当を開く。
芋の薄焼きと、卵と、切った野菜。
レオが覗き込んだ。
「それ、うまそう」
「食べますか」
「いいの?」
ミロは頷き、薄焼きを一つ渡した。
レオがかじる。
「うま」
「私も食べていい?」
ニカが手を伸ばす。
ミロは弁当箱を真ん中へ寄せた。
いつの間にか、食べ物の置き場所が少しずつ変わった。
誰の弁当だったか、あまりわからなくなった。
「で、鳴鐘の頭」
ダンが言った。
「次は何すんの」
「お前、その呼び方やめろ」
「午前中、ちょっと気に入ってたじゃん」
「気に入ってねえよ」
「返事してた」
「聞こえたからだろ!」
ニカが笑いながら、芋を取った。
「三十人倒したんだっけ」
「五人!」
「一人で?」
「違えって!」
トマが淡々と肉を分けていた。
「訂正するほど増えてくな」
「何なんだよ、あれ」
「話してるやつが、見てねえんだろ」
エマが卵を半分に割った。
「うちの教室だと、実習場の壁も壊れてたよ」
「壊してねえよ!」
「そのうち校舎なくなるんじゃない?」
ダンが言った。
レオは、もう返事をするのをやめた。
ミロは弁当を見ながら、口を開いた。
「俺も、聞かれました」
レオがこちらを見る。
「喧嘩したのかって」
「何て言った?」
「してないって。助けてもらったって、言いました」
ダンが頷いた。
「俺、いた?」
「え?」
「その話の中に、俺いた?」
ミロが戸惑っていると、ダンは自分を指した。
「俺、噂から消されてんだよ。先生が来たことになってんの」
ニカが吹き出した。
「似てたんじゃない?」
「嬉しくねえよ。先生、何にもしてねえのに」
ミロは顔を上げた。
「俺は、ちゃんと覚えてます」
ダンが止まった。
「助けてもらったこと」
風が吹いた。
ダンは一度、明後日のほうを見た。
「……そういうの、真顔で言うなよ」
トマが少し笑った。
ダンがその顔を見つける。
「何笑ってんだ」
「風だ」
「今日は絶対違うだろ」
ミロも笑った。
昨日より、少し長く笑えた。
*
「ミロ」
ニカが答案を出した。
「約束」
「はい」
ミロは自分の鞄からノートを取り出した。
エマも、裏返していた答案をそっと置いた。
ニカがそれを見る。
「エマも?」
「聞いてるだけ」
「昨日、ミロが絶対正しいとは限らないって言ってたよね」
「だから、ちゃんと聞いて確かめるの」
ミロは二人の答案を見た。
同じ問題を、違う間違え方で落としている。
「ここは、順番で覚えると」
ノートへ、三つの出来事を書いた。
その間に、矢印を引く。
ニカが身を寄せた。
エマも、反対側から覗いた。
「最初に、南部の諸侯が負担を減らしてほしいって言ったんです。でも認められなくて」
「それで喧嘩したの?」
レオが聞いた。
「えっと、まあ」
「で、最後に条約?」
「はい」
レオが頷いた。
「最初からそう書けばわかるのに」
「お前、その説明で答案書くなよ」
トマが言った。
エマがノートへ書き写す。
ミロも年号を書いた。
書いてから、手が止まった。
「あ、ごめんなさい。これ、翌年じゃなくて前年です」
慌てて線を引こうとした。
エマが自分のペンを止める。
「危なかった。今、写すとこだった」
「すみません」
「大丈夫。こっちまだ書いてない」
ミロは数字を書き直した。
ニカは、もう次の問題を指していた。
「じゃあ、これ」
「これは――」
話を続ける。
今度は途中で、ダンが質問した。
次に、レオが全然違うところで引っかかった。
トマが短く口を挟み、エマが教科書を開く。
ミロは、何度も顔を上げたり下げたりした。
気づくと、さっきまで膝の上で握っていた手が、普通に動いていた。
「レオ、あんたも書いとけば?」
ニカが言った。
レオは渋々、自分のノートを出した。
何かを書きつける。
ミロは横から覗いて、少し首を傾けた。
「何だよ」
レオが気づいた。
「いえ」
「読めるだろ?」
ミロは口を開いた。
閉じた。
それから、もう一度ノートを見た。
「……半分くらい」
エマが笑った。
「ほら!」
「ミロまで言うか」
レオはノートを引き寄せ、少し大きな字で書き直した。
ミロが、つい声を出す。
「あ、それなら読めます」
ダンが膝を叩いて笑った。
「よかったな、レオ。成長したぞ」
「うるせえ!」
レオも笑っていた。
ミロは、下を向かずにその顔を見られた。
*
昼休みの終わりに、屋上から下りた。
階段の途中で、三年生の集団とすれ違った。
向こうが、一瞬黙った。
そのうちの一人が、レオを見た。
「あれか。鳴鐘の頭って」
別の一人が鼻を鳴らした。
「北棟が負けただけだろ。何で学校全部みたいな話になってんだよ」
レオの足が止まりかけた。
トマも、その横で相手を見た。
三年生たちは、こちらへ来なかった。
ただ、顔を覚えるように見てから、階段を上っていった。
ミロは息を詰めていた。
また始まるかと思った。
レオが、舌打ちする。
「俺が言って回ってるみてえじゃん」
「名前だけ先に行ってるな」
トマが言った。
「俺より足速えのかよ」
ダンが少し笑った。
「人気者だな」
「そういう感じじゃなかっただろ」
レオは振り向かなかった。
けれど、さっきまでより背筋が伸びていた。
ミロは、その横顔を見た。
レオが勝ったことを喜んでいる人ばかりではない。
昨日の喧嘩は終わったのに、今日もその話が続いている。
ニカが、一段下からこちらを見上げた。
「ミロ。教室そっちじゃない?」
ミロは立ち止まった。
東棟へ曲がる階だった。
「あ、はい」
「また明日ね」
エマが手を振った。
ミロも手を上げた。
四人の足音が下へ遠ざかる。
ミロは東棟の廊下へ向かった。
角を曲がる前に、一度だけ振り返った。
もう誰もこちらを見ていなかった。
それでも、明日はまた屋上へ行こうと思えた。
*
放課後、レオたちの説明は、思ったより長くかかった。
先生は一人ずつ、何を見たのか、何をしたのか聞いた。
レオが話を飛ばすたびに、トマが戻した。
ダンが余計なことを言い、ニカが訂正した。
先生は、途中で額を押さえた。
「一人ずつ喋りなさい」
四人が黙る。
少しして、先生が手帳を見た。
「それで、私が実習場に来たという話は何なんだ」
ダンが天井を見た。
トマがダンを見た。
ニカも見た。
レオまで見た。
「……俺です」
ダンが言った。
「どういうことだ」
「こういう声で、お前らそこで何を――」
「やらなくていい」
レオが俯いた。
肩が震えていた。
「アーデン。笑ってる場合か」
「笑ってねえです」
「顔を上げなさい」
上げられなかった。
最後に、動かした作業台と散らかした箱を戻すよう言われた。
ロッシュたちにも話を聞いているらしかったが、何を言ったのかまでは教えられなかった。
実習場へ戻る途中で、レオがぼやいた。
「頭なのに」
「まだ言ってんのか」
トマが返した。
「頭なら、そっち持て。机の重いほう」
「何でだよ」
「頭だから」
ダンとニカが同時に言った。
*
ミロは、一人で橋詰治療院の扉を開けた。
昨日までより、ずっと軽く開いた気がした。
実際には、蝶番がいつもと同じ音を立てただけだった。
「こんにちは」
エマが顔を上げた。
「来たね。座ってて、先生呼ぶから」
椅子へ座る。
今日は、どうしたのか聞かれても困らない。
朝、階段を上ると少し痛んだこと。
授業中は平気だったこと。
昼は、ちゃんと食べられたこと。
師匠に聞かれたとおり、一つずつ話した。
診てもらっている間、エマは横で道具を渡していた。
終わってから、ミロが靴を履くのを待って言った。
「今日の説明、わかりやすかった」
ミロは顔を上げた。
「歴史?」
「うん。あのノート、明日ちょっと借りてもいい?」
「はい。いいです」
「ありがとう。次はニカにあんな顔させたくないから」
ミロが笑う。
エマも笑った。
表へ出る前に、ミロは振り返った。
「明日、持ってきます」
「うん。また学校で」
扉を閉める。
今度は、裏道を探さなくてよかった。
エマは、ミロが通りへ出たのを見送ってから、奥へ戻った。
師匠が帳面を閉じるところだった。
「あの、先生」
「何?」
「学院の選抜って、昔の問題、見られたりしますか」
師匠が少しだけ顔を上げた。
「少し古いものなら、確かあったね」
エマは前掛けの端をつまんだ。
「見せてほしいです」
「今、探そうか」
「はい」
返事をしてから、学校の鞄を持ってきた。
今日返された答案は、まだ裏返したままだった。
その隣に、新しいページを開いた。
*
商店通りの材木屋には、まだレオたちがいた。
トマは店主と並び、二枚の板を見比べている。
ニカがその横から覗き込んでいた。
「こっちじゃ駄目なの?」
「反ってる」
「どこ」
「こっち側」
ニカは板の端から覗いた。
「あ、ほんとだ」
店先の腰掛けでは、ダンが膝に肘をついていた。
レオはその横で、買ったパンを食べている。
ミロが近づくと、レオが気づいた。
「おう。どうだった?」
「今日は、無理しなければ大丈夫だって」
「そっか」
ミロは店の中を見た。
トマが、今度は別の板を手に取っていた。
ダンが片手で隣を叩く。
「座れよ。まだ終わんねえから」
ミロは腰掛けの前に立った。
鞄を下ろす。
店の中から、ニカの声がした。
「ねえ、最初の板と何が違うの?」
「全然違う」
トマの返事は、妙に力が入っていた。
ミロは、少し迷ってから口を開いた。
「……これ、長くなりそうですね」
ダンがこちらを見た。
それから、にっと笑った。
「わかってきたな」
ミロは笑い返した。
鞄を足元に置いて、ダンの隣へ座った。




