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激情のディソナンス  作者: 白瀬余白


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第31話 教えたのはお前だろ

「そこじゃ、近えよ」


「ここか」


「遠い」


「どこだよ!」


 ガルドが、椅子を持ったまま怒鳴った。


 翌日の放課後。

 鉄門学園の実習棟の裏で、バッシュは立っていた。


 両手には、まだ包帯がある。

 朝より、鼻の下の薬の匂いに慣れた。

 顔を洗うときに鏡を見たら、思っていたよりひどかった。


 教室で最初に会った奴に、誰だと言われた。


 殴れなかったので、椅子を蹴りかけた。

 それもやめた。


「……その辺でいい」


「最初に置いたとこだろうが」


 ガルドが椅子を下ろした。


 バッシュは、ゆっくり腰を下ろした。

 背もたれへ身体を預け、足を投げ出す。


「偉そうだな、お前」


「座って見てろって言ったの、てめえだろ」


「言ったけどよ」


 ガルドは上着を脱いだ。


 折り畳もうとして、面倒になったらしい。

 近くの木箱へ、そのまま載せた。


 バッシュの椅子を中心に、何度か足を置き直す。


「昨日の、どっちからやる」


「まず、いつものやつ」


 ガルドが拳を上げた。


 前へ出る。

 右を振る。


 何もないところへ、続けて左が出た。


「殴り続ける方じゃねえよ」


「いつものって言ったろ」


「昨日の話、どこ行ったんだよ!」


 開いていた窓の向こうで、誰かが笑った。


 ガルドは腕を下ろした。


 もう一度構える。


 今度は、一発で止めた。

 後ろへ下がる。

 また前へ出ようとして、身体が一度、沈んだ。


「そこ」


 バッシュが言った。


「引きすぎ」


 ガルドが自分の足元を見た。


 土に、深い靴跡が残っていた。


「ここまでか」


「もっと手前で止まってみろ」


 ガルドが戻る。

 拳を出す。

 下がる。


 今度は、すぐに前へ出られた。


「お」


 ガルドの口が開いた。


 バッシュは、その足元を見ていた。


「でも、それで相手の手から逃げられんのかは、分かんねえぞ」


「じゃあ、横もやる」


 ガルドが、また構えた。


 右を出したあと、横へ跳ねた。


 土が舞った。


 バッシュは目を細めた。


「何で跳ぶんだよ」


「横だろ」


「足で動け。足で」


「足でやってるわ!」


 窓から出ていた顔が増えた。


 ガルドはそちらを見上げた。


「見せ物じゃねえぞ!」


「お前がでけえ声出すからだろ!」


 すぐに返ってきた。


 バッシュは椅子へ深く座り直した。


 相変わらず、うるさかった。


 ガルドも。

 その周りに集まってくる連中も。


 昨日、自分が負けたことを、知らない奴はいないはずだった。


 それでも、誰も帰れとは言わなかった。


     *


「エルン」


「嫌だ」


「まだ何も言ってねえだろ」


「今、呼ばれる理由、一つしかないだろ」


 実習棟から出てきたエルンは、脇に抱えていた板を持ち直した。


 鉛筆で、焼き台の図が描いてあった。

 脚を外した状態のものと、組んだ状態のものが並んでいる。


「俺、これを清書するんだけど」


「ちょっと立つだけだ」


「ガルドのちょっとは、信用してない」


 バッシュが顎を上げた。


「三回でいい。こいつが手ぇ出したあと、シャツつかみにいけ」


 エルンはバッシュを見た。


「殴られない?」


「殴らねえよ」


 ガルドが言った。


 エルンは、そちらを見た。

 拳を見た。


「指、開いて」


「おう」


 ガルドが両手を開いた。


 エルンは板を木箱へ置いた。


「三回な」


 ガルドの前に立つ。


 身長はエルンの方が高かった。

 肩の幅は、ずっと狭い。


 バッシュは二人の間を見た。


「ガルド、胸に触って離れろ。エルンは、そのあと追え」


「分かった」


 ガルドが手を伸ばした。


 エルンの胸元へ、指先が触れる。


 後ろへ下がった。


 エルンの手が、ガルドのシャツをつかんだ。


「一回」


 エルンが言った。


「早えな、お前」


「歩いただけだよ」


 バッシュはガルドを見た。


「その距離じゃ、まだ届くな」


 ガルドが頷いた。


 もう一度、向かい合う。


 触る。

 下がる。


 今度は大きく離れた。


 エルンの手が空をつかんだ。


 ガルドが前へ出ようとして、その途中でまた胸をつかまれた。


「二回」


「お前、まだ来るのかよ!」


「そっちが戻ってきたんだろ」


 ガルドが、つかまれたシャツを見下ろした。


 バッシュも見た。


 昨日、自分もそうなった。


 一度、離れた。

 また殴りに行った。


 そこへ、ラグが来た。


「……次。横へ動いてみろ」


 ガルドが顔を上げた。


 向かい合う。


 エルンの胸へ触る。

 横へ一歩出る。


 エルンの手が、肩をかすめた。


 ガルドは離れていた。


 ただし、身体がほとんど横を向いていた。


「お前、誰を殴りに行く気だ」


 バッシュが言った。


 ガルドは自分の正面を見た。


 物干しの柱があった。


「……こっちじゃねえな」


「柱を相手にすんな。昨日まで立ってたものを減らすな」


 エルンが言った。


 窓の向こうで、また笑い声がした。


 ガルドは首を振った。


「もう一回」


「三回終わった」


「今の、分かった気がする」


 エルンは木箱の図を見た。


 ガルドを見た。


「あと一回やったら、話しかけないでくれ」


「おう!」


 ガルドが構えた。


 バッシュは、椅子の背から身体を少し離した。


「横ばっか見んな。エルン、まだそこにいるぞ」


「見てる」


 指先が触れた。


 ガルドの足が動いた。


 エルンの手が出る。


 布の端へ届きかけて、外れた。


 ガルドの顔は、まだエルンを向いていた。


「今のか!」


「……今のは、よかった」


 バッシュが答えると、ガルドが大きく息を吐いた。


 その胸を、エルンがつかんだ。


「止まった」


「終わったと思うだろ!」


「終わりって言ってない」


 ガルドが、バッシュを見た。


「こいつ、結構性格悪いぞ」


「今知ったのかよ」


 エルンは手を離し、板を取り上げた。


「じゃ、俺は終わり。続きは二人でやって」


 近くの日陰へ座り込み、図へ目を落とす。


 ガルドはもう一度、さっきの足の動きを確かめた。


 今度は、少し遠くへ行きすぎた。


「違えな」


「さっきより、でかく動いてる」


「難しいな、これ」


 言いながら、また戻った。


 バッシュは、その足を見ていた。


 ちゃんとできたのは、一回だった。


 殴り合いでもない。

 相手は、決まったことをしてくれていた。


 それでも、一回はできた。


 嬉しかった。


 少し、腹も立った。


 こいつを強くして、どうすんだ。


 追いつくのは、自分なのに。


     *


「遅くなりました」


 ポルが実習棟の角から顔を出した。


 袖口が少し濡れていた。

 鞄を持つ指が、石鹸の匂いをさせていた。


 バッシュは顔を上げた。


「終わったか」


「はい」


 ポルは、ガルドの方を見た。


 まだ動いていた。


 前へ出て、横へ。

 止まって、同じところへ戻る。


「もう少し、待ちます」


「いや。交代だ」


 バッシュが言った。


 ポルがこちらを見る。


「お前が来たら、そっちを見るって言ってある」


 ガルドも足を止めた。


「おう。やれよ」


 ポルは一度だけ、バッシュの顔を確かめた。


 それから、鞄を木箱の脇へ置いた。


「お願いします」


「まず、昨日までやってたやつ。自分で動いてみろ」


 ポルが上着を脱いだ。


 拳を上げる。

 足を開く。


 前へ出た。


 一歩。

 もう一歩。


 下がる。


 そのとき、両足が近づいた。


「そこ」


 バッシュが言った。


 ポルが下を向く。


「……揃ってます」


「おう。今日はそれだけ直す」


 ポルは足を戻した。


「手は」


「今日は足。手まで言うと、お前、全部止まるだろ」


「……はい」


 ガルドが横から覗き込んだ。


「俺が前に立つか」


 ポルの顔が上がった。


 ガルドを見る。

 バッシュを見る。


「殴んねえよ。近づくだけだ」


 ガルドが両手を開いた。


 ポルは唇を動かした。


「……ゆっくり、お願いします」


「おう」


 ガルドが前に立った。


 ポルも大きかった。

 並んでも、頭の高さはそう違わない。


 それなのに、向かい合った途端、ポルの肩が固くなった。


 胸の厚さも、腕の太さも違った。


 その拳が人を倒すところを、もう何度も見ている。


「行くぞ」


 ガルドが一歩出た。


 ポルが下がった。


 もう一歩。


 足が揃った。


 ポルはそのまま、さらに下がろうとした。


「止まれ」


 バッシュが言った。


 ガルドの手が、ポルの肩へ軽く触れた。


 それだけで、ポルが息を吐いた。


「すみません」


「何を」


 バッシュが聞いた。


「すぐ、できなくなりました」


 バッシュは、開きかけた口を閉じた。


 だったらできるまでやれ。


 そう言うのは簡単だった。


 昨日、自分も、思ったとおりには動けなかった。


 ポルと同じだとは思わなかった。

 思いたくもなかった。


 けれど、言えばすぐにできるわけではないことは、分かっていた。


「ガルド。一歩だけにしろ」


「一歩?」


「一歩出たら止まれ」


「逃げられるぞ」


「今日は、逃げる方の練習なんだよ」


 ガルドはポルを見た。


「……そうか」


「お前が勝ちに行ってどうすんだ」


 日陰で、エルンの肩が動いた。


 ガルドが顔を向ける。


「笑ってんじゃねえぞ」


「話しかけない約束だろ」


「ああ、そうだったな!」


 ポルの肩から、少し力が抜けた。


 ガルドが向き直った。


「一歩な」


「はい」


 近づく。


 ポルが下がった。


 止まった。


 ガルドも止まった。


 バッシュは足元を見た。


「今のまま、動くな」


 ポルが息を止めた。


「いや、息はしてろ」


 ガルドが声を上げて笑った。


 ポルは赤くなった。


 足は、揃っていなかった。


 バッシュが頷いた。


「その幅だ。今の、覚えとけ」


 ポルは、ようやく足元を見た。


 目を上げた。


 ガルドが、まだ目の前にいた。


「もう一回、お願いします」


 今度は、自分から言った。


     *


 三回目には、また足が揃った。


 四回目は、自分で気づいて止まった。


 五回目を終えると、ポルの額には汗が浮いていた。


 ガルドは片手で自分の首をぬぐった。


「俺も、動きたくなってきた」


「さっきまで動いてただろ」


「一歩だけっての、難しいな」


 バッシュは鼻を鳴らした。


「毎回、二歩目が出かかってんぞ」


「止めてるだろ」


「ポルよりお前の方が、言うこと聞かねえな」


 ポルが俯いた。


 笑いをこらえているのが、分かった。


 ガルドは、その顔を覗き込んだ。


「お前も笑ってんのか」


「……今のは、ちょっと」


「正直に言いやがって」


 ガルドが、でかい口を開けた。


 バッシュは、椅子の上で足を組みかけた。


 途中でやめて、両足を地面へ戻す。


 立って、見せたいと思った。


 そうじゃねえ。

 ここへ置くんだ。


 いつもなら、相手の前へ出ていた。


 今日は、それができない。


 バッシュは靴先で、土に短い線を引いた。


「ポル。こっち来い」


 ポルが近づいた。


「お前、今どこに足置いたか、分かんなくなるんだろ」


「はい」


「印、つけとくか」


 ガルドが落ちていた小枝を拾った。


「この辺か」


「ポル立たせてからだ。お前の幅でやんな」


 ポルが元の場所へ戻る。


 足を開いた。


 その外側へ、ガルドが二本の線を引いた。

 ポルが下がる方へ、少し長く伸ばす。


「ここだな」


「……はい」


 ポルは線を見つめた。


 バッシュが言う。


「下がったあと、足見てみろ。ずれてても、まず自分で見ろ」


 ガルドが枝を置いた。


 また、向かい合った。


 今度は、ポルが先に息を吐いた。


「お願いします」


 ガルドが近づく。


 ポルが下がった。


 止まる。


 足元を見る。


「……右が、寄りました」


「おう」


 バッシュが返した。


 ポルが位置を直す。


 もう一度。


 今度は、直す必要がなかった。


 ポルはすぐには声を出さなかった。


 線を見てから、バッシュを見た。


「今の」


「できてる」


 言われて、顔が緩んだ。


 ガルドの手が、肩へ伸びた。


 ポルの腕が上がりかけたが、間に合わなかった。


 指先が、肩へ触れた。


「ほら、まだ届――」


「おい」


 バッシュの声で、ガルドが止まった。


「今日は、足だっつってんだろ」


「……おう」


 ガルドが手を戻した。


 ポルは、二人の顔を見た。


 バッシュは足元を指した。


「捕まったけど、足は揃ってねえ。そこまで、できなかったことにすんな」


 ポルは下を向いた。


 靴が二つ、離れて土の上にあった。


 ガルドの指が肩へ触れても、そこは動いていなかった。


「……はい」


 返事が、少し強くなった。


     *


 エルンが板を抱えて立ち上がった。


 紙の上には、まっすぐな線で描き直された焼き台があった。


「終わった」


 ガルドが振り向く。


「じゃあ、もう一回――」


「今日は終わった」


「まだ言ってねえだろ」


「分かるよ」


 エルンは、土についた線と足跡を見た。


 それから、バッシュの椅子を見た。


「明日も使うなら、それ、勝手に外へ出しっぱなしにするなよ」


「分かってる」


「お前じゃなくて、ガルドに言ってる」


「俺も分かってるわ!」


 エルンは片手を上げ、実習棟へ入っていった。


 ポルが水筒を取った。


 ガルドも、自分の上着へ手を伸ばす。

 ポケットから、小銭をつかみ出した。


「おい、ポル」


「はい」


「明日の分」


 ポルが受け取った。


 掌の上で数える。


「はい。でっかいお肉のやつですね」


「おう」


「切るときは、ちゃんと切りますよ」


「でっかく頼む」


「鍋に入る大きさで」


 ガルドが頷いた。


 ポルは、自分の鞄へ金をしまった。


 バッシュはその間、地面を見ていた。


 あちこちに、ガルドの靴跡がある。

 ポルの小さな往復も、その横に増えていた。


 椅子の前だけ、ほとんど変わっていなかった。


「バッシュ」


 ガルドが呼んだ。


「お前の方は、どうすんだ」


 バッシュが顔を上げた。


「ラグの話。昨日、聞けって言っただろ」


 ガルドが、少し離れた木箱へ腰を下ろした。


 バッシュは膝の上の手を見た。


「……最後、当たったんだよな」


「おう」


「顔、まともに。足も止まった」


 ガルドが頷く。


「もう一発でいけるって、思った」


「俺も、いけって思ったぞ」


「お前もかよ」


「見てたら、そうなるだろ」


 バッシュは息を吐いた。


 ポルが、水筒を閉めたまま聞いていた。


「でも、来たな」


 ガルドが言った。


「来た」


 バッシュは、包帯を巻いた右手を少し持ち上げた。


「これ、戻すより先に捕まれた」


 ガルドはその手を見た。


 しばらくしてから、自分の右手も見た。


「俺も、戻ってねえこと多いな」


「知ってる」


「じゃあ、そこも見るか」


 バッシュは顔を上げた。


 ガルドは、自分の拳をゆっくり握ったり開いたりしていた。


 また一つ、試すことを見つけた顔だった。


「……お前ばっか、強くなってんじゃねえよ」


 ガルドの手が止まった。


 次の瞬間、でかい声が出た。


「教えたのはお前だろ!」


「分かってんだよ!」


 ポルが水筒を抱え込んだ。


 肩が動いていた。


 今度は隠しきれていなかった。


 バッシュがそちらを見る。


「お前もだぞ。俺が座ってる間に、勝手に上手くなりやがって」


「教えてもらったので……」


「そうだろうな!」


 ガルドが膝を叩いた。


 バッシュも、ようやく口の端を上げた。


 悔しくなくなったわけではなかった。


 動きたかった。

 今すぐ椅子から立って、同じ場所へ出たかった。


 けれど、今日は見ていた。


 その間に、二人の動きが少し変わった。


 それを、ちゃんと見つけたのも自分だった。


「手ぇ治ったら、付き合えよ」


 バッシュが言った。


「俺が戻す前に、捕まえに来い」


 ガルドの笑い方が変わった。


「捕まえたら、どうすんだ」


「そっから、考える」


「そのまま転がすぞ」


「やってみろよ」


 二人の目が合った。


 ポルが、土についた線をもう一度見た。


「僕も、見てていいですか」


「おう」


 バッシュが答えた。


「足だけじゃなくて、今度は俺の手も見とけ」


「はい」


 ガルドが立ち上がった。


「じゃ、もう一回やって帰るか」


「お前、まだやんのかよ」


「今日できたやつ、明日できねえと腹立つだろ」


 バッシュは、椅子に座り直した。


 ポルも鞄を下ろした。


「僕も、一回」


「お前ら、帰る気あんのか」


 言いながら、バッシュは足を引っ込めた。


 二人の動きが見えるように。


 水門の再戦まで、あと五日。


 ガルドが構えた。


 ポルが、その少し離れたところで足を開いた。


 バッシュは顔を上げた。


「ガルド。今、最初から二発殴る顔してんぞ」


「顔で分かるかよ!」


「分かるんだよ!」


 実習棟の窓が、一つ開いた。


「帰るまで、ずっとそれやんのか!」


 バッシュとガルドが、同時に顔を向けた。


「うるせえ!」


 ポルの笑い声が、二人の間からこぼれた。


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