第30話 俺に聞くのかよ
「勝ったのは、俺だぞ」
「怪我をしてるのも、あんただよ」
保健室の奥から、ラグの声がしなくなった。
廊下の長椅子で、ガルドが肩を揺らした。
「黙らされてやがる」
「お前も、静かにしろ」
隣でバッシュが言った。
先に手当を受けて、出てきたところだった。
両手に包帯。
鼻の下には、薬の匂いが残っている。
シャツの背中についた土は、ポルができるだけ払ってくれた。
それでも、座り直すたびに細かな砂が落ちた。
バッシュは、床へ目を落とした。
自分が通ったところだけ、汚れていた。
「雑巾、借りてきます」
ポルが言った。
「あとでいいだろ」
「踏むと広がるので」
ポルが立つ。
ガルドはバッシュの顔を覗き込んだ。
「鼻、でかくなったな」
「お前の顔も、今からでかくしてやろうか」
「手、治ってからにしろよ」
バッシュは、膝の上の拳を見た。
昨日の朝、包帯が取れた。
今日はまた、巻かれている。
「……くそ」
ガルドは何も返さなかった。
保健室の扉が開いた。
ラグが出てきた。
頬に大きな貼り薬がついていた。
片方の袖が、まだまくれたままだった。
エルンがその上着を差し出す。
「ほら」
「おう」
ラグが袖へ腕を通しかけ、途中で止めた。
肘を少し下げる。
肩の向きを変える。
いつもなら一息で済むことに、手間取っていた。
バッシュは、その腕を見た。
自分が何度も殴ったところだった。
効いていた。
分かっている。
効いていたのに、負けた。
「何だよ」
ラグがこちらを見た。
「別に」
「俺が先に帰ったあとで、もう一回やるとか言うなよ」
「言うなら、面と向かって言うわ」
「なら、いい」
エルンがラグの袖を引き、ようやく腕が通った。
「家には、俺も寄る。荷車に直したいところあるから」
「それ、俺が持たなくていいやつか」
「自分で持つ。手当てしたばっかの拳で、金槌握るなよ」
「握る前から言うな」
ラグは襟を直した。
雑巾を持って戻ってきたポルの前で、一度止まる。
「明日、飯はあるんだろうな」
「あります」
「俺の分もな」
「減らしませんって、言いました」
「おう」
大きな背中が、廊下の向こうへ遠ざかっていった。
エルンが途中で振り返る。
「作業場、最後に出るなら戸締まり頼む」
「分かってる」
ガルドが手を上げた。
バッシュは、その隣で黙っていた。
ラグが歩いて帰っていく。
それだけで、腹の底が熱くなった。
*
実習棟へ戻ると、まだ何人か残っていた。
バッシュの顔を見るなり、二年の一人が腰を浮かせた。
「おう。戻ってきたか」
「鞄、置いてんだよ」
「惜しかったな。あの、ラグを膝つかせたとこ――」
「惜しかったら、何だよ」
相手の口が止まった。
バッシュは目をそらした。
言われたことが嫌だった。
言ったあとの、自分の声も嫌だった。
「……悪い。今、聞きたくねえ」
二年は一度、口を結んだ。
「おう。じゃ、やめとく」
それだけ言って、浮かせていた腰を戻した。
机の上には、書きかけの課題が広がっていた。
「ガルド。ここの寸法、覚えてるか」
「どこの」
「午前中に測ったやつ」
「忘れた」
「お前、測ってただろ!」
「測った。忘れた」
「何しに来たんだよ!」
「鞄取りに来たんだよ!」
部屋に笑い声が戻った。
バッシュは壁際の椅子へ座った。
誰も、さっきの喧嘩をしていなかったみたいに見えた。
土場では、あんなに大きな声を出していたのに。
今は、課題が終わらねえだの、腹が減っただのと言っている。
自分だけが、まだあそこにいた。
背中を土へ押さえつけられていた。
右腕が動かなかった。
目の前に、ラグの拳があった。
バッシュは、包帯の上から指を押した。
自分で言った。
負けだと。
誰かに止められる前に。
「バッシュ先輩」
ポルが鞄を持ってきた。
椅子の脇へ置く。
「中に、手ぬぐい入れていいですか。濡れてるので、別に包みます」
「おう」
赤く汚れた布が、小さく畳まれていく。
使わずに済ませてやると、自分は言った。
バッシュは窓の方を向いた。
ガルドは外へ出ていた。
片づけ損ねた木箱を、残っていた連中と運び込んでいる。
「明日の練習なんですけど」
ポルが言った。
バッシュは振り向かなかった。
「少し遅くなります。実習の片づけ、僕の班なので」
「……ラグに見てもらえよ」
布を包む音が止まった。
「え」
「あっちの方が強えんだから。その方がいいだろ」
ポルが黙った。
バッシュは窓を見ていた。
ガルドが、木箱を一つ持ち上げた。
簡単そうだった。
あいつは、ラグにも勝った。
「ガルドでもいい。俺より上だ」
言い終わってから、ようやくポルを見た。
ポルは、手ぬぐいの包みを持ったままだった。
「……もう、教えたくないんですか」
「そういうことじゃねえよ」
「じゃあ、なんで」
声が、いつもより小さかった。
バッシュは返事をしようとした。
できなかった。
ポルが、何かしたわけではなかった。
水も持ってきた。
上着も預かった。
声が枯れるほど応援していた。
今も、その上着を椅子の背へきちんとかけている。
バッシュは、膝へ肘をつきかけた。
身体が曲がりきらず、途中で止まった。
「……負けたからだよ」
床を見て言った。
「お前の前で、あんだけ偉そうに言って、負けたから」
ポルは、まだ立っていた。
「俺が、お前に何を教えんだよって……思っただけだ」
最後の方は、ほとんど喉の中だった。
窓の外で、木箱が置かれる音がした。
ポルがゆっくり、包みを鞄へ入れた。
「僕、昨日できなかったこと、今日もできないです」
バッシュが顔を上げた。
「足、すぐ揃っちゃうし。手も、下がるし」
ポルは、自分の足元を見た。
「バッシュ先輩は、どっちも気づくから」
バッシュは唇を動かした。
何も言わなかった。
「でも、嫌なら……」
「嫌じゃねえ」
声が、大きく出た。
ポルの肩が上がった。
バッシュは息を吐いた。
今度は、ちゃんと顔を見た。
「お前が嫌だって話じゃねえんだよ」
「……はい」
「今のは、お前に言うことじゃなかった」
言ってから、少し間が空いた。
「悪かった」
ポルは、すぐには頷かなかった。
鞄の紐を整えた。
「嫌です。そういう言い方されるの」
小さかったが、聞こえた。
バッシュは目を伏せなかった。
「……おう」
ポルが、椅子の向きを少し直した。
倒れかけていた鞄を、その脚に寄せる。
「明日も、来ていいですか」
「来いよ」
「遅れますけど」
「聞いた」
ポルは、そこでようやく頷いた。
「今日は、先に帰ります。明日の分、買わないといけないので」
「飯か」
「はい。お店が閉まる前に」
「……おう」
ポルが自分の鞄を取った。
外から、ガルドが戻ってきた。
「帰んのか、ポル」
「はい」
「明日、でけえ肉の入ったやつがいいな」
「ガルド先輩の分は、まだ頼まれてません」
「今頼んだ」
「じゃあ、お金ください」
ガルドがポケットを探った。
一つ目にはなかった。
二つ目にもなかった。
「……明日」
「じゃあ、明後日です」
「一日延びるのかよ!」
「僕が先に払うんですから」
バッシュの口から、短く息が漏れた。
ポルがそちらを見た。
バッシュは、包帯の手を少しだけ上げた。
「明日な」
「はい」
ポルは扉のところで頭を下げ、走らずに、けれど急いで帰っていった。
*
課題をやっていた連中も、紙を持って出ていった。
作業場には、ガルドとバッシュだけが残った。
窓から差す光が、細くなっていた。
ガルドは鞄を机へ置いた。
帰るのかと思ったら、隣の椅子へ座った。
「……まだいんのかよ」
「いるよ」
「先、帰っていいぞ」
「帰るとき、言う」
バッシュは、鼻から息を吐いた。
しばらく、何も話さなかった。
外で、鍛冶場の音が鳴っていた。
遠くの店から、戸を閉める音もした。
「俺、自分で言ったんだよな」
バッシュが言った。
ガルドがこちらを見た。
「負けだって」
「聞いてた」
「気ぃ失って、終わったわけじゃねえんだよ」
膝の上で、手を動かした。
「最後、まだ目は開いてた。声も出た」
ガルドは、その手を見た。
「お前、あそこでもう一回ひっくり返せたと思うか」
バッシュはすぐに答えなかった。
ラグの重さが、胸へ戻ってきた。
腕を引いた。
脚も動かした。
できることは、まだあったのかもしれない。
けれど、あのときの自分には、何も出てこなかった。
「……分かんねえよ」
「俺も、分かんねえ」
バッシュはガルドを睨んだ。
「じゃあ、何で聞くんだよ」
「お前が言ったから、俺は手ぇ貸したんだ」
ガルドは言った。
「その前に、勝手に終わらせてねえだろ」
バッシュの口が閉じた。
ガルドの声は、聞こえていた。
名前を呼んでいた。
何度も。
それでも、自分とラグの間へは入ってこなかった。
「……ああ」
それだけ返した。
負けだと、言いたくなかった。
あそこでもう一度殴られたいとも、思わなかった。
その両方が、腹の中にあった。
どちらかだけにできれば、もっと簡単だった。
バッシュは背を伸ばした。
「お前が勝った奴に、負けたんだぞ」
ガルドを見た。
「鳴鐘に勝って、これでって思ってた。お前の隣まで来た気になってた」
喉が詰まった。
「……全然、届いてねえじゃねえか」
ガルドは眉を寄せた。
「隣には、いるだろ」
「そういう話してんじゃねえよ!」
「分かってるよ!」
でかい声が返ってきた。
バッシュは黙った。
ガルドも黙った。
空いた作業場に、二人の声だけが残った。
「……そこまで怒鳴ることねえだろ」
「先に怒鳴ったの、お前だろ」
ガルドが椅子を少し引いた。
前へ身を乗り出す。
「俺だって、お前に負ける気はねえんだよ」
「知ってる」
「だったら、追いついたことにしてやるわけねえだろ」
バッシュは、ガルドの顔を見た。
いつもの顔だった。
腹が立つくらい、自分が勝つつもりでいた。
「……ほんっと、むかつくな。お前」
「おう」
「褒めてねえぞ」
「知ってる」
バッシュは椅子の背へ、慎重に身体を預けた。
悔しかった。
隣のこいつが、まだ上にいる。
そのことを、なかったことにしてくれないのが、今は少しだけ助かった。
*
「でよ」
ガルドが言った。
「聞きてえこと、あるんだけど」
「まだ反省会やんのか」
「俺のだ」
バッシュが目を動かした。
ガルドは、椅子へ座ったまま片足を引いた。
「最初、お前、殴ったあとすぐ離れたろ」
「……結局、捕まっただろ」
「最初のは捕まんなかった」
ガルドが右腕を伸ばした。
何もないところへ、拳を置く。
「あれ、俺にもできると思うか」
バッシュは、その拳を見た。
「お前、一発当たったら、もう一発打ちてえだろ」
「打ちてえ」
「二発目当たったら」
「もう一発」
「じゃあ、無理だ」
「早えよ!」
ガルドが拳を戻した。
バッシュは、少しだけ顔をそらした。
「ラグに聞けよ。俺より分かんだろ」
「今、お前に聞いてんだよ」
ガルドの声は、変わらなかった。
「俺、離れようとすると、次に出んの遅くなる」
椅子から立ち上がった。
拳を軽く出す。
足を戻す。
また出ようとしたところで、肩が先に動いた。
バッシュの口が開きかけた。
閉じた。
ガルドは、もう一度やった。
「……引きすぎなんじゃねえの」
バッシュが言った。
ガルドの足が止まった。
「どっち」
「足。遠い」
バッシュは靴先を少し動かした。
身体を起こしかけて、やめた。
「俺も、そんな上手くねえからな」
「見てた」
「言うんじゃねえよ」
「お前が言ったんだろ」
ガルドは、今度は小さく下がった。
出る。
また下がる。
三度目には、拳を二つ続けて出していた。
「だから、もう一発殴ってんじゃねえか」
「……出たな」
「勝手に出てんじゃねえよ」
ガルドは腕を下ろした。
自分の拳を見て、鼻で笑った。
「六日ある。ちょっとは変わんだろ」
バッシュは、その足元を見た。
自分に勝った男だった。
ラグにも、レオにも勝った。
今は、何もない床の上で、同じところを行ったり来たりしていた。
相手がいれば、できるかどうかも分からない。
それでも、もう一回やった。
「……俺に聞くのかよ」
バッシュが言うと、ガルドは顔を上げた。
「何回聞きゃ、返事すんだよ」
「返しただろ」
「じゃあ、明日も見ろ」
バッシュは椅子へ深く座り直した。
窓の外を見た。
ポルは、明日も来る。
ラグも来る。
ガルドは、明日もまたこれをやるのだ。
「ポルの片づけ、終わるまでな」
バッシュは言った。
「あいつ来たら、そっちを見る」
「おう。じゃ、先にやる」
「俺は見てるだけだぞ」
「分かってる」
「殴らねえし、殴らせねえ」
「分かってるって」
「飯も奢らねえ」
「そこ、今関係ねえだろ!」
バッシュは鼻で息を吐いた。
机の脚に、夕日の線がかかっていた。
今日、自分がラグに負けたことは、何も変わらなかった。
負けだと言った声も、まだ耳の奥にあった。
ただ、明日の放課後が、少し埋まった。
*
戸締まりをして外へ出ると、風が少し冷えていた。
ガルドが二人分の鞄を持った。
「俺のは、こっち寄越せ」
バッシュが言った。
「持てんのか」
「左で持つ」
渡された鞄を受け取る。
持ち上げた瞬間、肩へ重さがかかった。
バッシュは黙って、持つ位置を変えた。
ガルドが見ていた。
「……やっぱ持て」
「おう」
「何も言うなよ」
「まだ言ってねえだろ」
ガルドが鞄を引き取った。
二人で、門へ向かった。
ガルドはいつもどおり喋った。
ラグがあの顔で家に帰ったら何と言われるか。
エルンの荷車の修理は、今日中に終わるのか。
ポルの飯を一日早く食うには、誰に金を貸してもらえばいいか。
「自分の家で食えよ」
バッシュが言うと、ガルドは真顔で答えた。
「家でも食うだろ」
「でもって何だよ」
大きな門が見えた。
バッシュは、その先の坂へ目を向けた。
昨日は走った。
今日は、歩くだけでも遅かった。
ガルドは、先へ行かなかった。
振り返って急かしもしなかった。
隣で、まだ飯の話をしていた。
「ガルド」
「あ?」
「さっきの。足、引くだけじゃなくて、横にも動いてみろ」
ガルドが顔を向けた。
「明日、見てからな」
バッシュは付け加えた。
「俺も、どっちがいいか分かんねえ」
「じゃあ、両方やる」
ガルドが答えた。
バッシュは前を向いた。
まだ悔しかった。
明日になっても、たぶん悔しい。
それでも、教室へ行けばこいつがいる。
放課後には、ポルが来る。
先に倒さなければならない三年も、でかい顔で待っている。
「……次は、俺の話も聞けよ」
「今、聞いてんだろ」
「俺がラグに勝つ方の話だよ」
ガルドの口が、大きく開いた。
「おう。いくらでも言え」
バッシュは、一つ目の石段へ足を下ろした。
自分の鞄は、まだガルドが持っていた。




