第29話 先に、てめえだ
「お前、荷下ろしはどうした」
バッシュが聞くと、ラグは顎で後ろを指した。
「代わってもらった」
土場の入口にいた三年が、片手を上げた。
「その代わり、今度俺の分もな」
「分かってる」
「今日、腕折られんなよ。二回とも俺に回ってくる」
「心配するとこ、そこかよ」
笑い声が、西の土場に広がった。
翌日の放課後。
積み上げられた角材の間を、生徒たちがぞろぞろと抜けてきた。
二年だけではなかった。
三年も、一年もいる。
ガルドは、とっくに来ていた。
「遅えぞ、バッシュ!」
「お前が早えんだよ」
「もう始められるだろ!」
「お前がやるんじゃねえだろうが!」
また笑いが起きた。
バッシュは上着を脱いだ。
ポルが両手を出しかけて、一度引っ込めた。
腕にかけていた手ぬぐいを肩へ移し、今度こそ受け取る。
「落とすなよ」
「はい」
「こいつ、上着より持つもん多いぞ」
ガルドが覗き込んだ。
水筒。
手ぬぐい。
白い布を畳んだ包み。
「遠足か」
「先輩たちが、何も持ってこないからです」
「おう。助かる」
「ガルド先輩のじゃないです」
近くの一年が吹き出した。
バッシュは、ポルの肩にかかった手ぬぐいを指で押した。
「使わずに済ませてやるよ」
ポルは頷かなかった。
ラグを見てから、バッシュを見た。
「持ってます」
バッシュは鼻を鳴らした。
「……おう」
土場の反対側では、エルンがラグの上着を荷車へ載せていた。
「昨日、包帯捨てたの失敗だったな」
ラグが言った。
「まだ言ってんのか、てめえ」
「今のうちに聞いとけよ。あとじゃ、よく聞こえねえかもしれねえぞ」
ラグが中央へ歩く。
バッシュも出た。
いつも隣で肉を食っているときには、気にならなかった。
広い肩。
長い腕。
自分より上にある目。
真正面に立つと、でかかった。
ラグは、何も言わなくなった。
拳を上げた。
バッシュの背中からも、余計な力が抜けた。
誰かの名前を呼んでいる側には、もういない。
「いくぞ」
「来い」
バッシュが地面を蹴った。
*
最初の拳は、バッシュが当てた。
ラグの頬が横へ動いた。
すぐに返ってきた拳を、左腕で受ける。
腕の骨まで響いた。
バッシュは歯を食いしばり、もう一発打った。
今度は腹へ。
ラグが息を吐く。
伸びてきた手が、シャツの胸をつかもうとした。
バッシュは、そこにいなかった。
半歩下がる。
空振りした手の上から、拳を返す。
ラグの顔が、もう一度跳ねた。
「おおっ!」
二年たちの声が上がった。
「いいぞ、バッシュ!」
「そのままいけ!」
ガルドの口が開いた。
離れた。
殴ったあと、捕まる前に。
いつもなら勢いのまま、もう一発打ちに行くところだった。
バッシュは、ラグの手が届かないところで足を止めた。
「どうした、三年」
ラグが口元をぬぐった。
「足があるの、思い出したか」
「お前こそ、腕余ってんぞ」
バッシュが踏み込んだ。
拳を出す。
ラグの腕に当たる。
その向こうから、肩が来た。
距離が潰れた。
バッシュが下がるより先に、ラグの手がシャツをつかんだ。
胸元が引かれる。
バッシュは腰を落とした。
足を残す。
水門で、トマにやったように。
浮かなかった。
「捕まえりゃいいって――」
腹へ拳が入った。
言葉が切れた。
ラグは、まだ投げていなかった。
シャツをつかんだまま、もう一発。
バッシュの身体が折れかける。
そこで、横へ引かれた。
踏み直そうとした足に、ラグの脚が当たった。
地面が斜めになった。
背中が土へ落ちた。
「っ、が……!」
息が押し出された。
人垣の向こうに、空が見えた。
ラグの手が離れる。
「終わりか」
バッシュは横へ転がった。
土に手をつく。
片膝を起こす。
「始まったばっかだろうが……!」
立ち上がった。
ガルドが、拳を握った。
「そうだ! まだ入れた分、返してもらってねえぞ!」
「俺は返しただろ!」
ラグが怒鳴る。
「じゃあ、また返せ!」
「終わんねえだろ、それじゃ!」
笑いが起きた。
バッシュは笑わなかった。
背中の土も払わず、拳を上げた。
ラグの腹へ打った感触が、まだ手に残っている。
効いていた。
今の一回で、全部なくなったわけではない。
バッシュは、また前へ出た。
*
殴るたびに、ラグが近づいてきた。
下がれば追ってきた。
止まれば、拳が来た。
バッシュは右へ動いた。
ラグの腕が頬をかすめる。
その脇へ拳を入れた。
手応えがあった。
しかし、ラグの手も伸びていた。
今度は、バッシュの左腕を捕まえた。
「離せよ!」
右で殴った。
ラグの顔が動く。
手は離れない。
引き寄せられた。
顎の下へ拳が突き上がり、バッシュの歯がぶつかった。
足元がずれた。
ラグの身体が、懐へ入ってくる。
また投げる気だった。
バッシュは、捕まれた腕ごと前へ出た。
肩をぶつける。
もう片方の手で、ラグのシャツをつかむ。
逃がさない。
ラグの背中が、まだこっちへ向ききっていないうちに、横へ振り回した。
二人の靴が土を削った。
ラグの体勢が崩れた。
片膝が、地面を擦った。
「バッシュ!」
ガルドが叫んだ。
バッシュは腕を引き抜いた。
起き上がってくるラグへ、拳を振った。
頬を捉えた。
ラグが、今度は二歩下がった。
人垣が沸いた。
「いけえ!」
ポルの声だった。
自分の声が出たことに、気を取られる暇はなかった。
バッシュが追っていた。
ラグの左腕へ打ち込む。
その下の腹へ、もう片方の拳を入れる。
打つたびに、バッシュの肩が大きく動いた。
こんな近くで見ているだけで、ポルの身体まで固くなる。
バッシュは、いつも言った。
力を入れると、目をつぶるなと。
けれど、今殴られているのは自分ではないのに、目を閉じたくなった。
ラグの拳が、バッシュの顔へ入った。
赤いものが飛んだ。
ポルの肩が跳ねた。
バッシュは、止まらなかった。
開いていたラグの胸元へ、頭を下げて入った。
短い拳を叩き込む。
ラグの息が漏れた。
「バッシュ先輩!」
ポルは、上着を握り締めた。
「もう一発!」
その声に、ラグが歯を剥いた。
「簡単に言いやがって……!」
ラグの腕が動いた。
バッシュの身体が横へずれた。
下がったのは、今度はバッシュだった。
追ってきたラグを、長い腕で殴る。
ラグが止まる。
また、離れた。
どちらも、口を開けて息をしていた。
*
エルンは、荷車の縁にかけていた手を離した。
指先が白くなっていた。
ラグの顔が腫れている。
左目の下に、もうはっきりと色が出ていた。
バッシュの口元も、ひどかった。
鼻の下から顎まで、赤い線がつながっている。
どちらかが勝つ。
どちらかは、負ける。
それは最初から分かっていたのに、二人とも立っているうちは、この先が来てほしくなかった。
「ラグ」
呼ぶと、ラグの顎が少し動いた。
「勝ってよ」
ラグは、片手を上げた。
親指だけを、立てた。
その手が、すぐに拳へ戻った。
「……聞いたか、二年」
バッシュが鼻で息を吐いた。
「だから何だよ」
「俺にも、勝ってくれって奴がいるんだよ」
「知るか。俺だって、いるだろ」
「なら、やるしかねえな」
ラグが一歩出た。
バッシュも出かけた。
その足が止まった。
殴る。
捕まる。
また投げられる。
背中に残っていた衝撃が、一瞬だけ戻ってきた。
ラグが笑った。
「どうした。ガルドんとこまで、通してやると思ったか」
「……思ってねえよ」
「俺を倒して、それからあいつか」
親指が、ガルドの方を向いた。
ガルドは黙っていた。
ラグは、その手を戻した。
「順番、勝手に決めんな」
声が低くなった。
「俺も、あいつをぶっ倒す気でここにいんだよ」
バッシュは、ラグを見た。
今まで何度も見てきた三年だった。
荷車へ木箱を投げ上げるところも。
エルンと焼き台を覗き込んでいるところも。
ガルドに負けて、土を叩いたところも。
その最後の顔が、目の前にあった。
まだ、終わっていなかった。
こいつの喧嘩も。
バッシュは拳を上げ直した。
「だったら、俺が止める」
ラグの口元が上がった。
「止めてみろよ!」
二人が、同時に踏み込んだ。
*
拳がぶつかった。
バッシュの右が、ラグの頬を打った。
ラグの左が、バッシュの口元へ入った。
どちらも下がらなかった。
バッシュは、もう一発打った。
腕に当たる。
ラグの手が、バッシュの肩を捕まえた。
引かれた。
その手を、左腕で押しのける。
離れろ。
自分の拳が届くところまで。
バッシュの靴が土を蹴った。
ラグの指が、シャツから滑った。
「よし!」
ガルドの声がした。
バッシュは息を吸った。
まだ、打てる。
追ってきたラグへ、右を伸ばした。
当たった。
顔へ、まともに。
ラグの足が止まった。
バッシュは、左を引いた。
これで。
そう思った瞬間、ラグが前へ出た。
殴られた顔のまま。
バッシュの右腕へ、両腕が絡んだ。
引き戻そうとした拳が、戻らなかった。
左で殴った。
ラグの耳のそばへ当たった。
それでも、放さなかった。
「ラグ!」
三年が叫んだ。
バッシュは足を開いた。
踏ん張った。
ラグの身体が、腕を抱えたまま斜めへ入り込んできた。
胸がぶつかる。
バッシュは、また左を振った。
もう、肩にしか当たらなかった。
残していた足の外側へ、ラグの脚がかかった。
押し込まれた。
足が動かない。
上体だけが、後ろへ傾いていく。
「まだ――!」
バッシュは、ラグの肩へしがみついた。
ラグが吠えた。
大きな身体が、つかまれたまま乗りかかってきた。
土が、近づいた。
背中から、叩きつけられた。
今度は、ラグも一緒だった。
息が出た。
出たまま、戻ってこなかった。
ポルが、一歩出た。
ガルドの腕が、前にあった。
ポルは止まった。
バッシュの身体が動いていた。
膝を立てる。
下からラグを押す。
起きろ。
腕を引き抜け。
声にはならなかった。
ラグが、その腕を土へ押さえた。
片膝で身体を押しとどめ、もう片方の手を上げる。
バッシュは空いた手で殴った。
届いた。
浅かった。
ラグの拳が落ちた。
顔が横へ動いた。
もう一度、腰を浮かせた。
ラグの重さがついてきた。
肩が土から離れなかった。
「バッシュ!」
ガルドの声が聞こえた。
遠くはなかった。
すぐそこにいる。
ポルも。
エルンも。
さっきから、自分の名前を呼んでいた連中も。
バッシュは、歯を食いしばった。
地面を蹴った。
ラグの拳が、もう一度落ちた。
目の奥で、光が散った。
足に入れていた力が抜けた。
次の拳は、来なかった。
バッシュは目を開けた。
ラグが、拳を上げていた。
顔が、汗で濡れていた。
鼻から顎へ血が流れていた。
押さえつけてくる腕まで、細かく震えていた。
「……まだ、やるか」
途切れながら、声が落ちてきた。
バッシュは右腕を引いた。
動かなかった。
相手も、ぎりぎりだった。
それなのに、その残りを越せなかった。
口を開けた。
何も出なかった。
もう一度、開けた。
「……負けだ」
土場が静かになった。
ラグは、バッシュの顔を見ていた。
「俺の、負けだ……」
拳が下りた。
押さえていた手が離れた。
ラグは立ち上がらず、そのまま横へ尻を落とした。
両脚を投げ出す。
肩が、何度も上下した。
「……勝った」
かすれた声だった。
次の瞬間、三年たちが叫んだ。
「ラグ!」
「よっしゃあ!」
「まだ、お前が上だろうが!」
ラグは片腕を上げた。
握った拳が、夕日の中にあった。
*
バッシュは、寝たまま空を見ていた。
起き上がる前に、口をぬぐいたかった。
土のついた手を持ち上げる。
その上へ、手ぬぐいが置かれた。
ポルだった。
「……汚れるぞ」
「そのために、持ってきたんです」
バッシュは受け取った。
顔へ押し当てた。
視界が暗くなった。
すぐ横で、ラグの名前を呼んでいた声が、近づいては遠ざかっていた。
自分は、まだここに寝ている。
勝つつもりだった。
ガルドを見ているだけで終わるのが嫌だった。
ラグを倒して、次だと、言ってやりたかった。
「くそ……」
手ぬぐいの下から、声が漏れた。
ポルは何も言わなかった。
しゃがんだまま、そこにいた。
バッシュは布を顔からずらした。
「お前、最後まで見てたのか」
「はい」
「……途中で目ぇ閉じときゃよかったのに」
ポルの眉が寄った。
「閉じるなって、いつも言うから」
バッシュはポルを見た。
言った。
何度も、自分が。
「あれ、練習の話だろ」
「でも、見てました」
ポルの腕には、まだ自分の上着があった。
握りすぎたせいで、袖がくしゃくしゃになっていた。
バッシュは目を閉じかけて、やめた。
「……そうかよ」
土場の端では、エルンがラグへ水筒を渡していた。
「明日、荷物持てるの」
「持つよ」
「今の手で?」
「明日になりゃ、もうちょい動く」
エルンは、その拳を見た。
「今日、保健室寄ってから帰れよ」
「分かってる。勝った奴まで叱るな」
「勝っても、腫れるだろ」
ラグは水筒を受け取った。
その向こうから、ガルドが来た。
バッシュの横に立ち、顔を覗き込む。
「黙って見てろって言っただろ」
先に、バッシュが言った。
「無理だって言ったろ」
「全部、聞こえたぞ」
「返事しねえからよ」
「殴られてたんだよ!」
ガルドは口を閉じた。
バッシュが片肘をつく。
ゆっくり、身体を起こした。
「あの最後、お前――」
「今は言うな」
ガルドの言葉が止まった。
バッシュは、顔を上げなかった。
「分かってんだよ。捕まったのも、下からどかせなかったのも」
手ぬぐいを握った。
「俺が、やってたんだから」
ガルドはしばらく黙っていた。
「……おう」
それから、隣へしゃがんだ。
ラグの方を見た。
エルンと、三年の一人に、両側から文句を言われている。
立つなら先に水筒を返せと、手から取り上げられた。
それでも、ラグの顔はまだ熱を持っていた。
勝った顔だった。
ガルドは、自分の拳を一度握った。
六日後、水門でレオとやる。
その先にも、こいつらがいる。
「手、貸せ」
バッシュが言った。
ガルドは、すぐに腕を出した。
バッシュがつかむ。
ポルも反対側へ回った。
二人の力を借りて、立ち上がった。
土の上へ、靴底を置く。
膝が、まだ頼りなかった。
「ラグ」
呼ぶと、向こうも顔を上げた。
バッシュは、ガルドの腕を借りたまま、そちらを見た。
「先に、てめえだ」
ラグの眉が動いた。
「お前を倒すまで、終わりにしねえ」
ラグは、口の片側を上げた。
「分かりゃいいんだよ」
バッシュの顔が険しくなった。
「勝ったからって、偉そうにしやがって」
「勝ったんだから、偉そうにするだろ!」
三年たちが、でかい声で笑った。
ガルドまで笑った。
「お前もだぞ」
バッシュが、その腕を強くつかんだ。
「六日後、勝ってろよ。俺が行くまで」
ガルドが顔を向けた。
すぐに、歯を見せた。
「待ってるぜ」
「だから、俺を飛ばすなって言ってんだろうが!」
ラグの声が、土場に響いた。
ポルが、バッシュの上着を肩へかけた。
バッシュは、その袖をつかんだ。
自分の名前を呼ぶ声が、まだ耳に残っていた。
今日は、負けた。
それでも明日、ここに来る。
この連中と、また顔を合わせる。
「……次は、笑わせねえ」
言いながら、土を踏んだ。
ガルドの腕も、ポルの肩も、今はまだ放せなかった。




