第32話 もう一回、入ってこい
「そこ、俺の席」
ダンが言った。
レオは、ベンチに座ったまま顔を上げた。
「名前でも書いてあんのか」
「今日は怪我人が優先だろ」
「端、空いてんじゃねえか」
「そこだと、よく見えねえ」
「偉そうだな、お前」
レオが立った。
ダンは真ん中へ腰を下ろし、左右を見た。
「いいな。前より広く感じる」
「同じ寸法だ」
トマが答えた。
レオが横から、ダンの鞄を膝へ載せた。
「一人で荷物まで広げてっからだろ」
「ほら、急に狭くなった」
「当たり前だ」
ミロが、ベンチの端へ水筒を並べた。
水門の向こうで、川の水が白く跳ねていた。
放課後の広場には、荷車を押して橋へ向かう人と、川沿いを歩く生徒たちの姿があった。
夕方になるには、まだ少し早い。
レオが鉄門へ行ってから、二日が過ぎていた。
再戦まで、あと五日。
今日は学校を出て、ここへ来た。
レオが、ここでやると言った。
「石の上では投げねえぞ」
トマが言った。
「分かってる。端の方、土だろ」
「草のとこ、踏むと滑るからな」
「分かったって」
レオは上着を脱いだ。
ベンチへ放ろうとして、ダンの膝に鞄が載っているのを思い出す。
ミロが手を出した。
「こっちに置きます」
「悪い」
赤茶の髪を、レオが片手でかき上げた。
あの日、ガルドが立っていた辺りを見た。
今日は、誰もいなかった。
広い肩も。
こっちへ伸びてきた拳も。
それなのに、場所だけはよく分かった。
「レオ」
トマが呼んだ。
広場の端で、袖をまくっていた。
「やるぞ」
「おう」
レオは、そちらへ歩いた。
*
一度目は、つかまった。
トマの頬へ触って、横へ抜けようとしたところだった。
袖を取られた。
「もうちょいだったろ」
「もうちょい、袖がなきゃな」
ダンがベンチから言った。
「脱いでやれば」
「本番も裸で来る気か」
トマが、つかんでいた袖を放した。
レオは元の場所へ戻った。
二度目。
今度は顔へ届く前に、腕を取られた。
三度目は、手を引けた。
横へ動いた。
トマの指が、シャツの端をかすめた。
抜けた。
レオは振り返らなかった。
トマを見たまま、もう一歩分、距離を取った。
「よし!」
ダンの声がした。
レオは、息を吐いた。
トマも手を下ろさなかった。
こちらを見ていた。
レオは構えたまま、待った。
トマも待った。
「……いつまで、そこで見合ってんの」
ダンが言った。
「逃げたろ」
レオが返した。
「逃げたな」
「じゃあ、できたじゃねえか」
「できたよ。で?」
レオは黙った。
トマが足を一歩、こちらへ向けた。
「もう一回、入ってこい」
「今?」
「喧嘩、そこで終わんねえだろ」
レオの指が曲がった。
当てる。
離れる。
そこまでは、ずっと考えていた。
離れたあと、また殴りに行く。
言われてみれば、当たり前だった。
けれど、目の前で構えている相手に、自分から戻っていくのは、思ったより嫌だった。
「来ねえなら、俺から行くぞ」
トマが前へ出た。
レオも足を動かした。
前ではなかった。
また、後ろへ下がった。
トマの手が伸びた。
胸元をつかまれた。
「……くそ」
レオが息を吐いた。
トマは、その顔を近くで見た。
「今度は、二回だ」
「何が」
「触って離れて、もう一回触る」
レオはトマの手を見た。
自分のシャツが、指の間でくしゃくしゃになっていた。
「二回目も、つかまれたら負けか」
「そうだ」
「一回目、当てた分は?」
「俺の頬に残ってる」
「そういう話じゃねえだろ!」
ベンチで、ダンが声を上げた。
「お前、勝ったことにしてほしくて仕方ねえのな!」
「うるせえ。やるよ!」
レオはトマの手が離れるのを待った。
元の場所へ戻る。
今度は、その先までやる。
*
ニカが来たのは、新しく決めたやり方で、レオが四度目につかまったときだった。
トマに襟を取られたまま、レオが顔だけ向ける。
「遅えぞ」
「あたし、仕込みの手伝いあるって言ったでしょ。店に寄ってきたの」
ニカは鞄をベンチへ置いた。
ダンの方を見た。
「何であんた、真ん中なの」
「一番よく見える席だから」
「どいて」
「俺、今からすごく大事な助言するところなんだけど」
「端から言えるでしょ」
ダンが横へずれた。
ミロが、二人の水筒を持ち上げて場所を空けた。
ニカは座らず、袖をまくった。
「で。何やってんの」
「二回触る」
レオが答えた。
「つかまれてんじゃん」
「今、それをやってんだよ」
トマが手を離した。
レオは首の辺りを直した。
「もう一回」
「俺の番だ」
トマが言った。
「さっきから、お前ばっかりだろ」
レオが口を開きかけた。
閉じた。
約束していた。
トマは、自分の練習もすると言っていた。
「……おう。どうすりゃいい」
「最初から逃げろ」
トマが腰を少し落とした。
「つかんだら、俺は続ける」
レオも構えた。
トマが来た。
横へ逃げる。
伸びてきた手を押し返す。
もう片方の手が、袖へ届いた。
引かれた。
レオは踏ん張った。
トマの身体が近づいた。
足元が崩れた。
土へ倒された。
いつもなら、そこで離れていた。
今日は、手が残っていた。
レオは横へ転がろうとした。
つかまれた腕が引かれ、肩が戻った。
「ちょ、待て」
「終わりか」
「……終わり」
トマが手を離した。
レオは身体を起こし、口へ入った草の切れ端を取った。
「お前、結構、本気で来るな」
「練習だろ」
「それはそうだけどよ」
トマはレオへ手を出した。
レオがつかむ。
引き上げられた。
「今の、俺がすぐ立とうとしたら?」
「止める」
「殴ってきたら」
「それも、どうにかしねえと駄目だな」
トマは自分の手を見た。
「だから、やってる」
レオは、その横顔を見た。
水門でトマが倒れたところは、覚えている。
バッシュの前で、片膝をついていた。
そのあと自分を背負った背中ばかり、思い出していた。
けれど、その前に、こいつも負けていた。
「もう一回やるか」
レオが聞いた。
トマがこちらを向いた。
「お前、さっき待てって言っただろ」
「今度は、言うまでにもうちょい粘る」
トマの口元が、少しだけ動いた。
「じゃあ、逃げろ」
「おう」
ニカが横から口を挟んだ。
「次、あたしだからね」
「分かってる」
「あたし、店に戻る時間決まってるから。レオだけ十回とか、なし」
「数えてたのかよ」
「数えなくても分かるわ」
ミロが、ぽつりと言った。
「まだ、七回です」
全員がそちらを見た。
ミロは少し肩をすくめた。
「……見てたので」
「ちゃんと数えてる奴いたぞ」
ダンが言った。
「レオ。お前、残り三回な」
「勝手に上限決めんな!」
*
交代すると、違うところでつかまった。
トマへ出した手は、ニカには届かなかった。
ニカから逃げたつもりで止まると、トマには袖を取られた。
同じように足を動かしても、同じところへは行けなかった。
レオは一度、ニカの肩へ軽く触った。
すぐに下がった。
ニカが来る。
レオは横へ動いた。
抜けた。
もう一度入ろうとしたところで、額をぺしりと叩かれた。
「見え見え」
ニカが言った。
「何が」
「戻るとき。顔に『行くぞ』って書いてある」
「書いてねえよ」
「でっかく書いてある」
レオはダンを見た。
ダンが頷いた。
「字もでけえし、顔にも出るし。お前、隠す気ねえだろ」
「あいつにやる紙は、隠してどうすんだよ!」
ミロが水筒を差し出した。
レオは受け取り、口をつけた。
喉が鳴った。
戻る。
自分から、もう一度。
それを考えるたびに、肩へ力が入った。
ニカの手でさえ、あれだけ気になった。
ガルドだったら。
あの、腕ごと持っていかれるような拳が、そこで待っていたら。
レオは、水筒を下ろした。
「……行くぞって、思うだろ」
声が少し低くなった。
ダンの口が止まった。
「思わねえと、行けねえんだよ」
川の音がした。
トマは袖で額をぬぐった。
ニカも何か言いかけたが、言わなかった。
ダンが、自分の膝へ目を落とした。
「じゃあ、思えばいいだろ」
レオが顔を上げた。
「今、思うなって言ったじゃねえか」
「顔に出るって言ったんだよ。そっから先は、俺も知らねえ」
「役に立たねえな」
「立ってるだろ。お前に、今顔に出てるって教えた」
ダンは、包帯の巻かれた手を持ち上げた。
「俺だって、ロッシュにもう一発行く前、すげえ考えたぞ」
「ああ」
「考えてるうちに殴られたとこもある」
「駄目じゃねえか」
「だから、今お前もやってんだろ」
レオはダンを見た。
ダンの目の下には、まだ色が残っていた。
あの日よりは、口がよく動くようになった。
それでも、手は出せなかった。
「……そうだな」
レオは水筒の栓を閉めた。
「お前、言い方悪いけど」
「教わる側の態度も、だいぶ悪いぞ」
ニカが鞄を取った。
「あたし、あと一回で行く」
「おう」
「今度はあたしが入る方ね。レオ、避けて。で、返して」
「分かった」
「変な顔して待たないでよ」
「元からこの顔だ!」
ダンが、ベンチの背へ片腕を預けた。
ミロも、空いたところへ腰を下ろした。
二人の目の前で、またレオとニカが向かい合った。
*
ニカが帰ったあと、トマがベンチへ座った。
レオは、今度は立ったまま水を飲んでいた。
「そういや、バッシュ、負けたらしい」
トマが言った。
レオの手が止まった。
「誰に」
「ラグって三年。今朝、金物屋で鉄門の連中が喋ってた」
ダンが眉を上げた。
「ガルドが倒した奴?」
「そうらしい」
「昨日か」
「昨日」
レオは水筒をベンチへ置いた。
バッシュの顔を思い浮かべた。
門で、自分たちを見ていた。
トマと、短く言葉を交わしていた。
あいつも、喧嘩をしていた。
こっちが見ていないところで。
「……お前、どうすんだ」
レオが聞くと、トマはこちらを見た。
「何が」
「先に、やられたんだろ」
「俺は、あいつに負けたままだ」
返事は短かった。
トマは水筒を持ち上げた。
「怪我してんなら、治ってからだな」
「また、行くのか」
「行く」
レオは頷いた。
ミロが、ベンチの座板へ目を落とした。
トマが直した板は、まだ新しい色をしていた。
「鉄門も、同じ学校で喧嘩するんですね」
「鳴鐘だって、ロッシュいたろ」
ダンが言った。
「……そうですね」
「どこ行っても、むかつく奴はいるんじゃねえの」
レオが、ダンを見た。
ダンも、レオを見た。
「今、俺見んなよ」
「お前が先に見たんだろ」
トマが立ち上がった。
「休んだ。次やるぞ」
レオも、水筒から手を離した。
まだ五日ある。
その間、ガルドが何をしているかは知らない。
あの門で、受けてやると言った顔は覚えていた。
勝ったつもりでいるのだろう。
自分が、もう一度勝つつもりで。
「……もう一回」
レオが言った。
トマは頷いた。
*
トマの頬へ、指が届いた。
その手を引く。
足を動かす。
トマが追ってきた。
レオは、もう一歩離れた。
つかまれなかった。
そこで、息を吸った。
トマが立っていた。
また、腕を上げていた。
レオはその胸元を見た。
顔ばかり見ていた。
もう一度、あそこへ手を伸ばそうとしていた。
トマの手が動く。
レオは腰を落とした。
前へ入った。
腹へ指先が触れた。
「入った!」
言った瞬間、腕をつかまれた。
レオは足を止めた。
トマが、つかんだ手を少し持ち上げる。
「そのあとだろ」
「今のは、触ったぞ!」
「触ったな」
ダンが言った。
「で、つかまったな」
「そこ、二人で言うなよ」
レオはミロを見た。
「お前も見てたろ」
「はい」
「二回目、当てたよな」
「当てました」
レオが少し顎を上げた。
「そのあと、つかまってました」
顎が戻った。
「お前、俺の味方だろ」
ミロの目が、少し大きくなった。
レオの顔を見る。
トマの手を見る。
前なら、ここで言い直していたかもしれなかった。
つかまっていなかったと。
今のは、レオの勝ちだったと。
けれど、五日後に言う相手はトマではない。
ベンチの横で、誰も喋らずに帰り支度をした日のことを、ミロは覚えていた。
「……味方です」
ミロは言った。
「でも、勝ったってことには、できないです」
レオの口が止まった。
トマが、腕を放した。
レオはミロを見ていた。
しばらくして、自分の髪を乱暴に掻いた。
「……お前、そういうことも言うようになったな」
「言います」
返事は、さっきより早かった。
ダンが、ベンチから身を乗り出した。
「ミロ。今の、俺にも言って。あとで真似する」
「お前はしなくていい!」
レオが怒鳴った。
ミロが、ようやく少し笑った。
レオはトマへ向き直った。
「まだやれるか」
「お前こそ」
「やれる」
レオが足を開いた。
さっきは、戻れた。
つかまった。
負けだった。
けれど、離れたところから、自分でもう一度入った。
もう一回やる。
今度は、当てたあとも。
トマが構えた。
レオは踏み込んだ。
*
帰る頃には、レオもトマも、シャツの背中まで汗が回っていた。
最後の一回は、レオが二度触って離れた。
その前の一回は、トマにつかまった。
さらに前は、最初の一発さえ届かなかった。
うまくいった一回を、何度も続けるところまでは、できなかった。
「最後だけ覚えて帰れよ」
ダンが言った。
ベンチから、ゆっくり立ち上がる。
「……最初の方は?」
「俺が覚えとく。お前が調子乗ったとき用に」
「性格悪いな」
「明日、最初の一回から自慢されても困るだろ」
ミロがレオの上着を渡した。
「最後、振り返りませんでしたね」
「そりゃ、前に怒られたからな」
レオは上着を肩へかけた。
水門を見た。
川の音は、来たときと変わらなかった。
ここへ、ガルドが来る。
トマに触れた二回が、そのまま通じるとは思わなかった。
怖さも消えていなかった。
ただ、離れたあとに戻った場所を、足が少し覚えていた。
「トマ」
「何だ」
「明日、つかむ方からやろうぜ」
トマが顔を向けた。
「今日は俺の方、多かったろ」
「分かってんなら、そうしろ」
ダンが横から言った。
「俺の番も、そのうち回せよ」
「お前は手ぇ治ってから」
「分かってるよ。忘れんなって話」
「忘れねえよ」
レオが答えた。
ミロは、空いたベンチを見た。
忘れ物はなかった。
トマが、その新しい座板を一度、掌で払った。
「帰るぞ」
四人で、坂へ向かった。
ダンが歩きながら、自分の腹へ手を当てた。
「なあ、レオ」
「何だよ」
「俺の、大盛り肉増しって、まだ生きてるよな」
「生きてるわ」
「三日経ったからさ。勝手に消えてねえかと思って」
「三日前の約束、そんな忘れねえよ」
トマが、レオを見た。
「今日は七回やって、俺の番忘れかけたけどな」
「明日は先にやるっつっただろ!」
ダンがミロを見た。
「明日の最初、数えとけよ」
「はい」
「お前ら、俺の信用なさすぎだろ」
レオが言った。
ミロは鞄の紐を持ち直した。
「ちゃんと、見てますから」
レオは、その顔を見た。
それから、前を向いた。
「……おう。見とけ」
五日後にも、こいつらの声がある。
そこへ立つのは、自分だった。




