第26話 俺も勝ちてえ
「先に、いい知らせから聞けよ」
戸口の鈴が鳴るなり、ダンが言った。
エマは筆を置いた。
レオの肩へ腕を回したダンが、入口に立っていた。
鼻に布を当てている。
その横から覗く頬は腫れ、シャツは胸元まで開いていた。
「先に、怪我の話」
「順番変えんなよ」
「そこの椅子へ。レオ、ゆっくり下ろして」
「おう」
レオが椅子へ寄った。
ダンが座るまで、エマは背中を支えた。
触れたところで、身体がびくりとした。
「背中も?」
「……それもあった」
「師匠、お願いします。顔と、お腹も殴られてると思います」
「正解」
「答え合わせしてるんじゃないの」
奥から師匠が出てきた。
ダンの顔を見て、それから入口へ目を向ける。
ニカが戸を押さえ、ミロが二人分の上着を抱えていた。
最後に、道具袋を提げたトマが入ってきた。
「怪我をしたのは?」
「俺」
ダンが片手を上げた。
「ほかの人は?」
「今日は、こいつだけです」
トマが答えた。
エマは、そこでようやく息を吐いた。
レオの頬にも、トマの口元にも、新しい血はなかった。
ニカは両手を使って椅子を寄せている。
「じゃあ、ダン。奥へ来て」
師匠が言った。
ダンは立とうとして、やめた。
レオへ手を出す。
「まだ頼む」
「分かってるよ」
肩を借りて、また立った。
診察室へ入る直前、ダンが振り向く。
「勝ったからな」
「分かったから、前見て」
エマが言った。
ダンの膝が、扉の枠にぶつかりかけていた。
*
師匠がダンの傷を診ている間、待合には四人が残った。
ニカが椅子の背へ顎を乗せる。
「歩いてる間も、ずっと言ってた」
「何を」
トマが聞いた。
「勝ったって」
「言ってたな」
「橋の手前でも」
ミロが加えた。
「聞こえてんぞ!」
奥から声がした。
すぐに、師匠の声もした。
「返事はあと。今は息を吸って」
待合が静かになった。
ニカが、椅子の背へ顔を埋めた。
レオは壁の近くに立っていた。
あのとき、自分が寝かされた部屋だった。
今も、同じ棚に布が積んである。
同じところから、師匠の声が聞こえる。
けれど、扉の向こうにいるダンは、勝ったと言える。
何度でも。
「レオ」
トマに呼ばれて、顔を上げた。
「座れよ」
「別に、疲れてねえ」
「そこ、邪魔だ」
エマが布を抱えて戻ってきた。
レオは慌てて横へずれた。
「悪い」
「ううん」
エマは診察室へ入り、必要なものを置いて、また出てきた。
「相手、誰だったの」
「ロッシュ」
レオが答えた。
エマの目が、ミロへ向いた。
ミロが首を振る。
「僕は何も。レオ先輩に、もう一度やろうって来たんですけど」
「ダンにまで、手ぇ出したから」
ニカが続けた。
「あいつ、自分で殴った」
エマは奥を見た。
少し黙ってから、聞いた。
「一人で?」
「ああ」
レオが言った。
「一人で勝った」
自分で言って、胸の中がまた騒いだ。
ロッシュが倒れたところを思い出した。
立とうとして、立てなかった。
ダンも膝をついていた。
けれど、顔を上げていた。
俺の勝ちだよな、と。
レオは指を開いた。
手のひらに、爪の跡が残っていた。
*
師匠の治療が終わるころには、窓の光が少し傾いていた。
ダンは寝台の端へ座り直した。
腹と背中の痛みは幾分やわらいだらしく、さっきより息が深くなっている。
それでも、腕を上げる動きは遅かった。
エマは隣へ椅子を置いた。
「手は私がやるから、ここへ乗せて」
小さな台の上へ布を敷く。
ダンが両手を出した。
指の付け根も、手のひらも擦れていた。
細かい砂が、いくつか残っている。
「転んだ?」
「二人で転がった」
「二人」
「そう。最後、立って殴る余裕なんかなかった」
エマは水を含ませた布を取った。
「ここ、先に落とすね」
「……おう」
触れた瞬間、ダンの指が反った。
「痛い?」
「痛い。すげえ」
「うん。砂が残ってるから、少しずつ」
「勝った奴にも、こういうのあるんだな」
「勝った人の手にも、砂は入るよ」
ダンが顔をしかめた。
入口で、ニカが肩を揺らした。
「何か、特別な待遇を期待してた?」
「もうちょっと、こう。あるだろ」
「花でも持ってくればよかった?」
「できれば食えるもん」
「先に口の中、治してもらいなよ」
ミロが上着を畳んで、空いた椅子へ置いた。
「でも、本当に勝ったんです。ロッシュさん、強かったのに」
「さん、いらねえよ」
ダンがすぐ言った。
「……ロッシュ、強かったのに」
「おう」
満足そうに頷いたところで、エマが指を一本ずつ確かめた。
ダンは口を閉じた。
しばらく、布の擦れる音だけになった。
エマは傷口を見た。
深いところは、先に師匠が処置している。
残った浅い傷へ指を近づけ、術を編んだ。
淡い光が、赤く擦れた皮膚をなぞっていった。
ダンの肩が、少し下がった。
「……ああ。助かる」
「まだ握らないでね」
「分かってる」
ダンは大人しく手を預けた。
いつもより長い沈黙だった。
エマが顔を上げると、ダンは自分の手を見ていた。
腫れた目の下が、少しだけ緩んでいる。
「嬉しい?」
エマが聞いた。
「……そりゃな」
すぐには、いつもの大きな声が返ってこなかった。
ダンは、台に置いた手を見たまま言った。
「俺が勝ったんだよ」
「うん」
「ロッシュに。あいつ、最初、俺なんか全然見てなかったのに」
「うん」
「最後、ちゃんと俺の名前、呼んだからな」
エマは頷いた。
まだ腫れた顔を見た。
伸びた襟と、泥のついた袖も。
「そっか。よかったね」
ダンが顔を上げた。
それから、にやりとした。
「それ。最初に欲しかったの、それ」
「最初は、どこを怪我したか知りたかったの」
「じゃあ、もう一回言って」
「包帯巻くから、手をこっち」
「早えな、終わんの」
レオは入口の横で、二人のやり取りを聞いていた。
自分も、笑った。
笑えた。
それでも、胸の中の騒がしさは消えなかった。
*
会計と帰宅後の説明を受ける間、ニカたちは待合へ出た。
ミロが、ダンの落とした釦の数を説明していた。
トマの道具袋の底から、安全留めが見つかったらしい。
「それで留めときゃ、帰るまでは平気だろ」
「帰ってからが、怒られるんですけど」
「そこまで直す道具は入ってねえ」
扉の向こうから、そんな声が聞こえた。
レオは椅子を寝台のそばへ引いた。
ダンは師匠に言われたとおり、もう少し座って休んでいた。
「何だよ」
ダンが言った。
「何が」
「さっきから、見てんじゃん」
「顔、ひでえなと思って」
「お前のときも、だいぶひどかったからな」
「知ってるよ」
レオは膝へ肘を置いた。
ダンの足が、寝台の縁から下りていた。
片方の靴には、水門の土がついている。
「……羨ましい」
口に出た。
ダンがこちらを見た。
「この顔が?」
「違えよ」
「だよな。お前、もう一回これになりてえのかと思った」
「勝ったのが」
レオは言った。
ダンの口が止まった。
「嬉しかったんだぞ。お前がロッシュ倒したとき」
「……おう」
「叫んだし。マジで、すげえと思ったし」
膝に置いた手を、開いたり閉じたりした。
「でも、ずっと勝ったって言ってんの聞いてたら、何か、腹立ってきた」
ダンは、しばらくレオを見ていた。
「面倒くせえな、お前」
「分かってるよ」
「俺、今までだいぶ、お前が勝つとこ見てきたんですけど」
「……おう」
「一回くらい、俺が言ってもいいだろ」
「いいよ」
レオが顔を上げた。
「言えよ。勝ったんだから」
ダンが眉を上げた。
レオは自分の髪を掻いた。
うまく言えなかった。
黙ってほしいわけではなかった。
さっき、エマにもう一度褒めてもらおうとしていた顔も。
勝ったと言うたび、少し胸を張るところも。
なくなったら、嫌だった。
「……俺も勝ちてえんだよ」
ようやく、そう言った。
ダンは口を閉じたまま、少し頷いた。
レオは右手を見た。
「さっきの手合わせ。最後、お前の手が来たときさ」
「ああ」
「怖かった」
ダンの目が動いた。
「ガルドの拳、思い出して」
「……俺のじゃねえのかよ」
「お前のも来てただろ」
「来てたよ。俺が当てたんだよ」
「だから、負けただろ」
「そこは忘れんなよ」
「さっきから、忘れねえっつってんだろ」
ダンが、包帯の手を膝へ置いた。
指は握らなかった。
「俺、ロッシュの拳、最後まで怖かったぞ」
レオが顔を上げる。
「見りゃ分かるだろ。避けるっていうか、もう、当たりたくなくて逃げてただけのとこもあったし」
「……ああ」
「脚につかまったときも、放したらまた殴られると思ったし」
ダンは自分の膝を見た。
「明日もう一回やれって言われたら、絶対嫌だわ」
「そりゃ、その身体じゃな」
「治ってても嫌だよ」
レオはダンを見た。
ダンは真面目な顔をしていた。
少ししてから、口の端だけを上げる。
「今日の勝ちで、しばらく威張りたい」
「台無しだろ」
「何を期待して聞いてたんだよ」
レオは背もたれへ身体を預けた。
ガルドの拳は、まだ思い出せた。
あの石畳の硬さも。
そこへ今日は、別の姿も混ざった。
地面に膝をついたダンが、ロッシュの脚へしがみついていた。
そこからでも、勝った。
レオは視線を戻した。
「次の手合わせ、逃げるのなしな」
「お前、今の話の何を聞いてたんだよ!」
「嘘だよ」
レオが笑った。
ダンは、ものすごく嫌そうな顔をした。
「その嘘、腹立つな」
「お前に教わった」
「授業料、上げるぞ」
*
エマが戻ってきたとき、ダンは大盛りの肉をどこまで増やせるか、レオと揉めていた。
「今日は、師匠に言われたものを食べてね」
エマが言った。
「……今日は無理だって、分かってるよ」
「予約の話だ」
レオが付け足した。
「治ったら、俺が奢る」
「そうなの?」
「こいつ、飯取らねえと相手してくんねえんだよ」
「お前が頼んだんだろ」
ダンが言った。
エマは二人を見て、持っていた紙をダンへ渡した。
「家の人にも見せて。明日も診てもらってね」
「おう」
「それと、レオ」
「俺?」
「ちょっと、頭」
エマが手を伸ばした。
レオが動きを止める。
赤茶色の髪から、薄い木片が一つ取れた。
「何したの」
エマが指先のそれを見せた。
レオが顔をしかめた。
「……まだ入ってたのか」
「袋に負けた」
ダンが即座に言った。
「負けてねえよ。破ったんだよ」
「全身食らってたじゃん」
エマは木片とレオの顔を見比べた。
詳しく聞くのは、あとにした。
*
待合へ戻ると、ニカが受付の机を見ていた。
「エマ。これ、出したの?」
机の端に、小さな控えが置いてあった。
王都治療学院。
夏期講習、選抜申込。
受付の印が、紙の隅に押されていた。
「うん。今朝、送る窓口へ持っていった」
エマは答えた。
「申込金も?」
「一緒に。師匠に見てもらってから」
ニカが顔を上げた。
「そっか」
それから、少し笑った。
「出したんだ」
「……うん」
エマは控えを取った。
朝、窓口の人が申込書を束へ重ねたときのことを思い出した。
待ってください、と言いそうになった。
間違いが見つかったわけではなかった。
もう一度だけ、手元へ戻したくなった。
その前に受付の印が押されて、控えを渡された。
「何それ」
レオが聞いた。
「治療の講習。選抜があって、通ったら王都へ行けるの」
「すげえじゃん」
「まだ、申し込んだだけ」
「それ、受かったら何できんの」
「もっと難しい術を習ったり、いろんな治療を見せてもらったり。今日、師匠がやってたのも、いつか私ができるようになりたいから」
話し始めると、少しだけ声が速くなった。
「教えてくれる人の本、何度も借りて読んでるんだけど、書いてあることだけじゃ分かんないところがあって」
「へえ」
ダンが椅子へ座りながら言った。
「じゃあ、俺、すげえところで手ぇ治してもらえるようになるの?」
「同じ治療院だよ」
「先生だけ、すげえことになるんだろ」
エマは返事に詰まった。
「……だから、まだ申し込んだだけだって」
「今から言っとけば、何か得しねえかなって」
「しない」
ニカが先に答えた。
ダンが肩を落とす。
ミロが控えの文字を見た。
「試験、いつなんですか」
エマは日付の欄を指した。
「この日。仕事も休ませてもらうの」
「じゃあ、その日はあたしらも気をつけるか」
ニカが言った。
「いつも気をつけてよ」
思わず返すと、トマが小さく頷いた。
「それはそうだ」
「お前も入ってんだぞ」
レオが言った。
エマは控えを机へ戻した。
みんなの前では、平気な顔で言えた。
出したんだ、と。
けれど、紙を押さえる指は、少しだけ強くなった。
「落ちたら、黙ってるかも」
ぽろりと言った。
ニカがこちらを見る。
「あたし、聞くよ」
「聞かないでよ」
「だって、受かったら一緒に喜びたいじゃん」
エマは口を閉じた。
ニカは、控えの端を指で軽く叩いた。
「駄目だったときは、そのあと考える」
「……そのときは、甘いもの作って」
「あたしが?」
「ニカのがいい」
ニカの目が少し動いた。
それから、顎を上げた。
「材料代は出しなよ」
「そこ取るの」
「取るよ。受かっても、食べたいんでしょ」
エマは頷いた。
「食べたい」
*
帰る準備をしている間も、ダンは喋っていた。
ミロが上着を着せようとすれば、袖の順番に注文をつける。
トマが胸元を留めれば、もう少し格好よくならないかと言う。
「ならねえ。じっとしてろ」
「俺、このまま街歩くんだぞ」
「今さら、そこだけ整えてどうすんだ」
レオは自分の上着を受け取った。
袖を通したとき、エマがそばへ来た。
「ダン、家まで送れる?」
「ああ。店には、途中で言う」
「お願い。今日はもう、ちゃんと帰ってね」
「分かってるよ」
エマが頷いた。
レオは、机の控えへ一度目をやった。
「講習」
「うん?」
「頑張れよ」
エマは少し目を瞬いた。
すぐに、笑った。
「ありがとう」
レオは頷き、ダンの方へ戻った。
「ほら、立てるか」
「支えろよ。今日の俺、勝った奴だから」
「怪我した奴だからだろ」
肩へ腕が回ってきた。
立ち上がった身体を受け止める。
ニカが戸を開けた。
ミロが治療の紙を畳み、ダンの上着の内ポケットへ入れた。
外の風が入ってきた。
「ダン」
レオが呼んだ。
「何」
「次の手合わせ、俺が勝つからな」
「お前、毎回そう言って始めんの?」
「当たり前だろ」
ダンが横を向いた。
レオも、見返した。
「負けるつもりでやるかよ」
ダンは、少しの間その顔を見ていた。
それから、肩へ回した腕で軽く引いた。
「じゃあ、治ったらな」
「おう」
二人が戸をくぐった。
夕方の通りへ出たところで、ダンが言った。
「飯は、先払いだから」
「まだ増やす気かよ」
レオの声に、前を歩くニカが振り返った。
エマは戸口で、それを見送った。
片づけと、問題の解き直しが残っていた。
机へ戻り、受付の控えをノートに挟んだ。
外ではまだ、大盛りの約束をめぐって声がしていた。




