第25話 口だけじゃねえ
ロッシュが踏み込んできた。
ダンは左へ逃げた。
追ってきた拳が、耳のそばを通った。
避けた先へ、もう片方の手が伸びてくる。
「おっと」
襟をつかまれる寸前、身体をひねった。
足がもつれかけた。
どうにか踏み直す。
「逃げてんじゃねえ!」
「追っかけてくんなよ!」
ダンが言い返した。
言ってから、自分でも無茶だと思った。
向こうもそう思ったらしい。
余計に腹を立てた顔で、間合いを詰めてきた。
右。
受けた腕が、頬へ押しつけられた。
左。
下がったつもりが、腹へ入った。
ダンは息を吐いた。
吐いたぶんを、うまく吸えなかった。
ロッシュの肩が動く。
「そこの三年!」
ダンが怒鳴った。
教師に似せた、腹からの声だった。
ロッシュの目が、ほんの一瞬だけ横へ動いた。
ダンが殴った。
頬へ当たった。
「てめえ!」
返ってきた拳を、今度は避けきれなかった。
鼻の奥が熱くなった。
目に涙が滲んだ。
「同じ手ばっか使いやがって!」
「……引っかかるからだろ」
声が、少し変だった。
唇も鼻も、自分のものじゃないみたいだった。
ロッシュがもう一度来る。
今度は、真っ直ぐ追ってこなかった。
ダンが逃げようとした方へ、先に足を出した。
近い。
そう思ったときには、シャツをつかまれていた。
*
レオは、手のひらに爪を食い込ませていた。
ダンが殴られた。
襟をつかまれたまま、もう一発。
入るな。
そう思っている。
入れば、ダンが怒る。
そんなことは分かっている。
それでも、足が出た。
横から、トマの手が伸びた。
レオの腕をつかんだ。
「まだ殴ってる」
トマが言った。
ダンの拳が、ロッシュの脇へ入った。
短い拳だった。
もう一発。
ロッシュが肘を締めた。
その隙に、ダンが肩をねじって離れた。
胸元の釦が、一つ飛んだ。
レオは息を吐いた。
「……見えてるよ」
「なら、見とけ」
トマの手が離れた。
今度はレオが、その手を見た。
指が固く握られていた。
トマも、平気で待っているわけではなかった。
ニカは三年たちの前に立ったまま、肩越しに喧嘩を見ていた。
「右っ!」
叫んだ。
ダンが頭を下げる。
今度は間に合った。
潜ったところへ膝が上がってきて、ダンは慌てて横へずれた。
「足まで出んのかよ!」
「出るに決まってんだろ!」
「手だけで十分うぜえんだよ!」
ニカが歯を食いしばったまま、変な顔になった。
「……何言ってんの、あいつ」
「いつものことだろ」
レオが言った。
けれど、いつもの声ではなかった。
声を出す前に、一度、息を吸っている。
そうしないと、続かなくなっていた。
ロッシュは強い。
あいつと殴り合ったレオが、一番よく知っていた。
ダンが顔を上げるたび、狙ってくる。
足を止めれば、すぐに距離を潰す。
自分なら。
そう考えて、レオは口を閉じた。
自分なら、殴られても前へ出る。
そのやり方で、ロッシュには勝った。
ガルドには、負けた。
目の前のダンは、横へ逃げていた。
背中は向けなかった。
逃げるたび、ロッシュの腹や腕へ、小さくても拳を入れていた。
「やれ、ダン!」
レオは叫んだ。
殴り方も、避け方も、その声には入れなかった。
*
ミロには、二人の手が速すぎた。
どちらの拳が当たったのか、分からなくなることがあった。
けれど、ダンの顔が赤くなっていくのは分かった。
シャツの襟が伸びていた。
袖も片方、ずり落ちていた。
抱えている上着へ、指を押し込んだ。
やめてほしい。
そう思った直後、ダンの拳がロッシュの腹へ入った。
ロッシュの上体が折れた。
わずかだった。
すぐに顔を上げ、ダンを押し返した。
「当たってます!」
ミロは叫んでいた。
「ダン先輩のも、当たってます!」
ダンが、ちらりとこちらを見た。
「……知ってるよ!」
返事が来た。
「でも、こいつ全然、痛そうな顔しねえんだよ!」
「してました!」
ミロの声が裏返った。
「今、してました! 僕、見ました!」
ロッシュがこちらを睨んだ。
ミロの背中が冷たくなった。
以前、襟をつかまれたところが、急に苦しくなった。
けれど、口はもう開いていた。
「見てますから!」
「お前、黙って――」
ロッシュの声に、鈍い音が重なった。
ダンが殴っていた。
「褒められてんだよ、俺が!」
もう一度、拳を振る。
「邪魔すんな!」
今度は腕で止められた。
ロッシュの手が伸びた。
ダンのシャツをつかむ。
引き寄せる。
二人の頭が、ぶつかりそうなくらい近づいた。
ダンが肘を挟もうとした。
間に合わなかった。
身体が、一度浮いた。
腹を殴られたのだと、ミロが分かったときには、もうダンの膝が落ちていた。
「ダン先輩!」
手が石畳をついた。
ダンは口を開けた。
声が出なかった。
*
息が欲しかった。
それ以外、考えられなかった。
石と石の間に、砂が詰まっていた。
それを指で掻いた。
吸え。
吸えって。
少しだけ、空気が入った。
咳になって出ていった。
頭の上で、ロッシュが息をしていた。
あっちも、荒かった。
ざまあみろ。
思ったが、口にはできなかった。
「……口だけの奴が」
ロッシュが言った。
靴が動いた。
ダンから離れていく。
レオの方へ。
その踵を、ダンはつかんだ。
「あ?」
ロッシュが振り向いた。
ダンは顔を上げた。
「……まだ」
息を吸った。
「返事、してねえだろ」
「離せよ」
脚を振られた。
ダンの手が、半分剥がれた。
もう片方も伸ばした。
膝の裏へ腕を回した。
「離せっつってんだよ!」
背中を殴られた。
痛かった。
格好悪い。
地べたに膝をついて、人の脚へしがみついている。
レオが同じことをしていたら、たぶん、あとでからかう。
今は、それどころじゃなかった。
「誰が……!」
ダンは顔を上げた。
「離すかよ!」
立とうとした。
つかんだ脚が、一緒に持ち上がった。
ロッシュが片足で跳ねた。
ダンの襟をつかみ、押し倒そうとする。
どちらが先に崩れたのか、分からなかった。
二人まとめて倒れた。
ダンの肩が石畳を打った。
すぐ横で、ロッシュが呻いた。
脚は離した。
代わりに、制服をつかんだ。
起き上がろうとした相手を引き戻す。
ロッシュもダンのシャツをつかんだ。
襟が首へ食い込んだ。
「てめえ、放せ!」
「先に放せよ!」
拳が来た。
肩をすくめた。
耳の上をかすめた。
ダンも殴った。
力なんか、ろくに入らなかった。
肘をつき、膝を立て、どうにか相手より上へ出ようとした。
「ダン、そっち!」
「そっちって、どっちだよ!」
ニカへ怒鳴り返した。
怒鳴れるくらいには、息が戻っていた。
ロッシュが腰をひねった。
押さえていた腕が抜ける。
まずい。
ダンはすぐに離れた。
殴ろうとしていたロッシュの拳が空を切った。
ダンは片手をついた。
立とうとした。
膝が、うまく伸びなかった。
向こうも立ち上がりかけていた。
先に来る。
そう思ったとき、レオの声が聞こえた。
「ダン!」
名前だけだった。
ダンは顔を上げた。
ロッシュが右手を振り上げていた。
また、怖かった。
さっきからずっと怖い。
こいつが殴ろうとするたびに、腹の中が縮む。
正面から食らって、立ったまま殴り返す。
そんなこと、できる気がしなかった。
ダンは、伸ばしかけた膝を曲げた。
拳が頭の上を通った。
すぐそばへ来た制服を、左手でつかんだ。
ロッシュが立ち直るより先に、自分の体重をかけて引いた。
「う、おっ」
相手の足が、半歩前へ出た。
肩が下がった。
ダンを殴るための腕が、もう一度持ち上がった。
その胸へ、ダンが右の拳を当てた。
浅かった。
でも、止まった。
ダンは襟を離さなかった。
膝を立てたまま、引いた。
ロッシュの顔が近づいた。
「口だけかよ!」
右の拳を振った。
腕に当たった。
もう一発。
滑って、頬をかすめた。
「これもかよ!」
シャツの背中が引っ張られた。
ロッシュも、殴り返そうとしていた。
ダンは相手の制服へ額を押しつけた。
振られた拳が、頭の上でダンの髪をこすった。
顔を上げた。
「これも、口だけかッ!」
もう一度、殴った。
今度は、当たった。
ロッシュの顎が横へ動いた。
ダンを引いていた手が緩んだ。
ロッシュは足を踏み直そうとした。
片膝が石畳についた。
ダンは、まだ襟をつかんでいた。
二人で引っ張り合っていた重さが、急になくなった。
ロッシュが横へ崩れた。
ダンも、つられて倒れかけた。
手を放した。
両手を石畳についた。
水の流れる音が、急に大きく聞こえた。
*
誰も、すぐには声を出さなかった。
ダンは膝をついたまま、ロッシュを見ていた。
まだ来る。
そう思っていた。
ロッシュが身体を起こした。
ダンの肩が跳ねた。
けれど、ロッシュの肘は伸びきらなかった。
もう一度、肩が落ちた。
大柄な三年が動いた。
ニカが目を向けた。
「……ロッシュ」
男はそれだけ言った。
ニカは、少し迷ってから横へずれた。
男がロッシュのそばへしゃがむ。
もう一人も、その反対側へ回った。
ダンはそれを見ていた。
殴られない。
ようやく、そう思った。
喉が鳴った。
「……俺」
声が出た。
「俺の、勝ちだよな」
「ああ」
レオが答えた。
すぐだった。
ダンが振り向いた。
レオは、こちらを見ていた。
「お前が勝った」
ダンは口を開けた。
何か、気の利いたことを言いたかった。
ほらな、とか。
俺の方が強いって言っただろ、とか。
何も出てこなかった。
代わりに、鼻の奥がつんとした。
殴られたところとは、少し違った。
ダンは慌てて袖で顔を拭った。
「……見たかよ」
「見てたよ」
レオが言った。
ニカも近づいてきた。
「全部見てた。途中、何言ってるか分かんなかったけど」
「うるせえ」
ダンは片足を立てた。
立とうとした。
上がらなかった。
レオが手を出した。
ダンは、その手を見た。
つかんだ。
引っ張られたところで、反対からトマが支えた。
「重えな」
「お前が引っ張れっつったんだろ」
「言ってねえよ」
「じゃあ、言ったことにしろよ」
トマが鼻から息を吐いた。
手は離さなかった。
「ダン」
後ろから、声がした。
ダンが振り向いた。
ロッシュが仲間の肩を借りて立っていた。
片方の目の下が腫れていた。
制服も土と血で汚れていた。
こちらを睨んでいる。
「覚えたぞ、てめえ」
ダンは少し、息を整えた。
レオの肩を借りたまま、顎を上げる。
「……おう」
今度は言えた。
「明日になって、先生に負けたことにすんなよ」
ロッシュの顔が、さらに険しくなった。
支えていた三年が、ダンを睨んだ。
ダンも睨み返した。
四人が石段を上がるまで、目をそらさなかった。
*
ダンは、新しいベンチへ座らされた。
トマが水を取りに行き、ニカが鞄から布を出した。
ミロは上着を抱えたまま、目の前に立っていた。
「……先輩」
「何」
「上着、どうしますか」
ダンは自分のシャツを見た。
胸元が開いていた。
釦が二つ、なくなっていた。
「うわ。これ、絶対怒られる」
「そっち?」
ニカが布を差し出した。
「先に鼻。顔にもついてる」
ダンは受け取った。
ミロが、隣へ上着を置く。
レオはダンの前に立っていた。
「何だよ」
ダンが見上げた。
「さっきさ」
レオが言った。
「ああ」
「お前じゃ足りねえって顔、してた」
ダンは鼻に布を当てたまま、目を細めた。
「してたな」
「悪かった」
「もっと早く言えよ。余計に殴られただろ」
「それは俺のせいじゃねえだろ」
ダンが鼻を鳴らした。
レオはその横へ座った。
新しい座板が、二人の重さを受けた。
「治ったら、また相手してくれ」
レオが言った。
ダンは少し黙った。
さっきまで、何度もつかんだ手を開いた。
指が震えていた。
膝の上へ伏せた。
「……飯」
「あ?」
「奢れ。大盛り」
「店の飯、勝手にタダにできねえよ」
「だから、お前が払うんだろ」
レオが嫌そうな顔をした。
ダンは、その顔を見ていた。
もう少し文句が続くかと思った。
レオは自分の膝を叩いた。
「分かった。大盛りな」
「肉も増やせ」
「調子に乗んな」
戻ってきたトマが、水を差し出した。
「まず治療院だ。歩けるか」
ダンは足を地面につけた。
少しだけ力を入れた。
「……肩、貸して」
「おう」
レオが立った。
ミロが二人分の上着を持ち直した。
ニカが先に石段へ向かい、トマが道具袋を担いだ。
ダンはレオの肩へ腕を回した。
立ち上がる。
膝が頼りなかった。
石段の上までが、やけに遠かった。
「レオ」
「何だよ」
「今日、二勝だからな」
レオが横を向いた。
ダンは、腫れた顔で笑ってみせた。
「お前と、ロッシュ」
「……分かってるよ」
「忘れんなよ」
「忘れねえよ。お前がうるせえから」
ダンは満足して、前を向いた。
一段目へ足をかけた。
「ほら、二勝の人。足上げろ」
「扱い、雑じゃねえ?」
「丁寧に運ばれてえなら、口閉じとけ」
ダンは、レオの肩へ少し体重を預けた。
「そりゃ、無理だわ」




