第24話 数に入れろ
レオが拳を振り抜いた瞬間、麻袋の底が抜けた。
中から、くず布と木の削り屑が降ってきた。
頭に。
肩に。
開いていた口にも、少し。
「ぶっ! ぺっ、何だこれ!」
「お前が詰めたんだろ」
トマが言った。
しゃがんだまま、こちらも見なかった。
膝の前には、組み上がりかけたベンチがある。
水門での喧嘩から、十日。
レオの右手は、昨日ようやく包帯が取れた。
その手で殴る相手として選ばれた麻袋は、たった三発で、柵にぶら下がるただの布になった。
「弱えんだよ、この袋」
「袋のせいにするなよ」
ダンが、石段に座ったまま言った。
「縫い目から抜けるって、トマ言ってただろ」
「こんなすぐ抜けるとは思わねえだろ」
「強敵だったな。全身に食らってんじゃん」
「うるせえ」
頭を振ると、削り屑がまた落ちた。
ベンチの座板を押さえていたニカが、顔を背ける。
「ちょっと。こっち飛ばさないで」
「笑ってんじゃねえよ」
「だって、頭に巣ができてる」
ミロが近づいて、レオの襟に入ったくず布を取った。
「これも、入ってます」
「おう。悪い」
「何でそんなとこまで詰めたんだよ」
「袋に詰めたんだよ!」
ダンが石段を叩いて笑った。
レオは破れた袋を外した。
もう一度詰め直せば、いける気もした。
底を見た。
いける気が、しなくなった。
「……殴るもん、なくなった」
「拾うもんは増えたぞ」
トマが言った。
レオは舌打ちして、足元へしゃがんだ。
*
新しいベンチには、脚と脚の間にも木が渡してあった。
鉄門から届けられた材木を、トマが切って、削って、組んだ。
前より少し、座るところが広い。
最後の留め具を締めると、トマは片手を座板へ置いた。
体重をかける。
揺れなかった。
「押さえなくていい」
ニカが手を離した。
「できた?」
「ああ」
「じゃ、一番」
ダンが腰を下ろそうとした。
ニカが、その襟をつかんだ。
「あたしがずっと押さえてたんだけど」
「俺も見てた」
「座る場所も見てな」
引き戻されたダンの前へ、ニカが座った。
足を伸ばす。
少し身体を揺らした。
「おお」
「壊すなよ」
「そんなことしてないじゃん」
トマが道具を片づける横で、レオも端へ腰を下ろした。
木の匂いがした。
石畳に転がっていた脚も、裂けた座板も、もうここにはない。
レオは膝へ肘を置いた。
「……なあ」
「何」
ダンが答えた。
「どうすりゃ、ガルドに勝てると思う」
誰も、すぐには答えなかった。
ミロが袋へ入れかけていた削り屑を、慎重に押し込んだ。
ニカが、伸ばしていた足を引いた。
ダンは少し考えた。
「……飯の食いすぎで、動けなくなったところを狙う」
「真面目に聞いてんだよ」
「俺も、ちょっと真面目に考えた」
「あいつ、食ったら余計に元気になる気がする」
ニカが言った。
誰も否定しなかった。
レオが頭を掻く。
残っていた削り屑が、一つ落ちた。
「殴ったんだよなあ」
自分の右手を見た。
「当たってなかったわけじゃねえんだよ。何発も」
顔にも、腹にも。
手応えはあった。
ガルドの顔が歪んだところも、覚えていた。
それでも、来た。
「もっと強く殴るってことかよ」
「お前、あっちが殴ってくるときも、殴ってなかった?」
ダンが言った。
「殴ってたよ」
「じゃあ、二人とも当たるじゃん」
「そうだよ」
「それで、あっちが立ってて、お前が倒れたんだろ」
レオはダンを見た。
「……言い方、腹立つな」
「聞いたの、お前じゃん」
トマが、道具袋の紐を結んだ。
「バッシュも、殴って止まる奴じゃなかった」
短く言った。
その名前で、ニカの目つきも変わった。
「知ってる」
「俺が聞きてえよ。どうすりゃ勝てるか」
トマは立ち上がった。
工具を握っていた方の手を、一度だけ開く。
レオはそれを見て、それからダンへ向いた。
「相手しろ」
「何の」
「喧嘩」
「何で俺だよ」
「今、言ったろ。俺、食らいすぎだって」
「言ったけど」
「じゃあ、来いよ。避けるから」
ダンはレオの顔を見た。
レオは、もう立っていた。
「……俺、ガルドじゃねえぞ」
「見りゃ分かる」
「その『お前じゃ全然足りねえけど』みてえな顔やめろ」
「してねえよ」
ニカがベンチの上で片膝を立てた。
「してる」
ダンは上着を脱いだ。
「よし。分かった」
ミロへ渡す。
「泣いても知らねえからな」
「どっちが」
レオも、上着を脱いだ。
*
「顔に手ぇ当てたら一本。三本勝負な」
広くなっている石畳まで出て、ダンが言った。
「拳で殴んなよ」
「分かってるよ」
「お前、途中で忘れるから、もう一回言っとく。殴んなよ」
「うるせえな。来いって」
レオが手を上げた。
ダンも向き合った。
少し離れたところで、ミロが二人の上着を抱えている。
「ミロ。数、頼む」
「はい」
返事を待ってから、ダンがレオを見た。
「あ、靴紐」
レオの目が落ちた。
額を、ぱちんと叩かれた。
「一本」
「てめえ!」
「よっしゃあ」
ダンが両手を上げた。
ベンチから、ニカの笑い声が飛んだ。
「そんなの引っかかる?」
「今のはなしだろ!」
「何でだよ。殴ってねえぞ」
「そういう話じゃねえ!」
「ミロ先生、判定」
ミロが二人を見た。
レオの目に、少し迷った。
「……当たってました」
「ほら!」
ダンが胸を張った。
レオは舌打ちした。
「もう一回」
「すぐ熱くなる」
「うるせえ。次は――」
言い終わる前に、レオが踏み込んだ。
ダンが肩をすくめた。
上がった腕の横を抜け、レオの手が頬へ触れた。
「一本」
「今、喋ってただろ!」
「始めるって言ってから、やるもんなのかよ」
ダンが口を閉じた。
レオが、にっと笑った。
「お前に教わった」
「覚えなくていいことは、すぐ覚えんな」
少し離れて、また向き合った。
一対一。
次に取った方が勝ちだった。
ダンが足を動かした。
レオも、それに合わせる。
右へ。
左へ。
ダンの肩が上がった。
右手が来る。
見えた。
なのに、レオの胸が詰まった。
腹の奥へ、あの重さが戻ってきた。
目の前の相手は、ガルドよりずっと細い。
手も、開いている。
分かっていた。
足が、勝手に後ろへ下がった。
ダンの右手が止まる。
レオが息を吸ったときには、もう反対の手が来ていた。
頬に、指が触れた。
軽かった。
それが、余計に嫌だった。
「……二対一、です」
ミロが言った。
ダンは手を下ろした。
少しだけ、レオの顔を見た。
「俺の勝ち」
「分かってるよ」
「分かってんならいいけど」
ダンが石段へ戻りかけた。
「もう三本」
レオが言った。
ダンが振り返る。
「お前、勝つまでやる気か」
「駄目かよ」
「俺の勝ちがなくなんなきゃ、いいよ」
レオは唇を拭った。
何もついていなかった。
「なくなんねえよ」
「じゃ、付き合ってやる」
ダンが戻ってくる。
レオは、もう一度足を開いた。
今度は、ダンの顔を見た。
*
「ずいぶん楽しそうじゃねえか」
石段の上から、声がした。
ミロの腕が、上着を抱え込んだ。
見覚えのある顔だった。
ロッシュ。
その後ろにも、鳴鐘の制服が三つ見えた。
レオが手を下ろした。
「……何しに来た」
「顔見に来てやったんだよ」
ロッシュが下りてくる。
ミロは一歩、ベンチの方へ寄った。
ロッシュの目が、そちらをかすめた。
けれど、足はレオへ向かっていた。
「もう歩けんのか」
「見りゃ分かんだろ」
「次から次へと負けてりゃ、休む暇もねえな」
ダンが、上げかけていた手を止めた。
ロッシュはそちらを見もしなかった。
「鉄門の次は、こんなのにまで」
「お前には勝ったけどな」
レオが言った。
ロッシュの顎が、わずかに上がった。
「もう一回やるぞ」
水門の向こうで、水が流れていた。
「明日の放課後。北の実習場だ。今度は、見てえ奴は全員呼ぶ」
レオが黙った。
ロッシュが笑った。
「何だよ。ガルドに殴られて、根性まで落としてきたか」
「……明日じゃなきゃ、駄目なのかよ」
レオが言った。
拳を握った。
右手に、まだ少し硬さがあった。
ロッシュの肩を見た。
さっきと同じものが、胸の奥で動いた。
それでも、目をそらさなかった。
「今、目の前にいんだろ」
ロッシュの笑いが消えた。
「まだでけえ口が利けるみてえだな」
「お前もな」
ダンが言った。
ロッシュが、ようやくそちらを向いた。
ダンは腰に手を当てていた。
「一回負けたの、お前も一緒だろ。何でそんな偉そうなんだよ」
「お前に話してねえ」
「俺も聞こえるとこで喋ってんじゃん」
「引っ込んでろ」
ロッシュの手が、ダンの胸を押した。
ダンが一歩下がった。
ニカがベンチから立った。
トマも道具袋を置いた。
レオが前へ出かけた。
その目の前へ、ダンの腕が伸びた。
「……待てよ」
レオが足を止めた。
ダンはロッシュを見ていた。
「今の、俺を押したんだよな」
「だから何だよ」
「いや。レオには話があって、俺にはねえって言うから」
ダンが、押されたところの皺を伸ばした。
「俺には、手ぇ出していいってこと?」
ロッシュが鼻で笑った。
「お前、いつもそいつの横で、口だけは回るよな」
ダンの指が止まった。
「前も先生の真似して、逃げ回ってただけじゃねえか」
ミロが顔を上げた。
あの声がなければ。
あのとき、腕を引いてくれなければ。
「ダン先輩は――」
「ミロ」
ダンが呼んだ。
こちらは見なかった。
「上着、持ってて」
ミロは口を閉じた。
抱えている上着へ、目を落とした。
ダンがロッシュへ近づいた。
「じゃ、お前、俺には勝ったんだっけ」
声は、いつもの調子だった。
けれど、横から見える頬は、もう笑っていなかった。
「相手するほどの奴かよ」
「そう」
「お前みてえな雑魚、一人二人――」
ダンの拳が、ロッシュの口元へ入った。
音がした。
ロッシュの顔が横を向いた。
石段にいた三年が、足を止めた。
ダンは右手を引き戻した。
指の付け根が、じんとした。
「今、殴ったのは俺だ」
言った。
「覚えとけよ」
*
ロッシュの拳は、すぐに返ってきた。
ダンは避けようとした。
肩を引く。
それでも、頬を持っていかれた。
視界が振れた。
石畳を踏んだ靴が、嫌な音を立てた。
「ダン!」
レオの声がした。
倒れかけたダンは、膝を曲げて踏みとどまった。
口の中が切れていた。
そりゃ、そうだ。
分かっていた。
レオに負けたからって、こいつが弱くなったわけじゃない。
ロッシュが襟をつかみに来た。
ダンは腕を払った。
今度は下から拳が来た。
肘で受けたつもりが、脇腹へ半分入った。
息が漏れた。
「おら。どうした」
ロッシュの靴が近づく。
ダンは後ろへ下がった。
石段にいた三年たちが動いた。
その前へ、ニカが出た。
「どこ行くの」
「どけよ」
「先に手ぇ出したのは、あっち。喧嘩にしたのは、こっち」
ニカが顎で二人を示した。
「あんたらの番、まだでしょ」
大柄な一人が、ニカの横を抜けようとした。
トマが立っていた。
男の目が、低いところへ落ちる。
「また投げるぞ」
トマが言った。
男は舌打ちした。
足は止まった。
ダンが、また殴られた。
今度は腕で受けた。
それでも、肩まで痺れた。
ロッシュの拳が大きく振られるたび、身体が勝手に逃げたがった。
知っていた。
喧嘩のたびに、そうなる。
レオみたいに真っ先に突っ込めたことなんか、ない。
トマみたいに、黙って相手を待てるわけでもない。
だから、喋る。
相手が一瞬でも止まればいい。
こっちを見なければ、なおいい。
その隙に、殴るか、誰かの腕を引くか、逃げるかする。
それでいいと思っていた。
けれど、こいつは。
目の前で殴りかかってきているくせに、まだダンの向こうを見ている。
レオが入ってくるのを、待っている。
「そっち、見てんじゃねえよ」
ダンが言った。
拳を振った。
ロッシュの腕に当たった。
硬かった。
もう一発。
今度は、胸へ当たった。
ロッシュが眉を寄せた。
「うぜえんだよ!」
大きく振られた拳の下へ、ダンは頭を下げた。
すぐそばで、風を切る音がした。
怖え。
思ったまま、足を動かした。
相手の横へ抜ける。
「足止めんな、ダン!」
レオが叫んだ。
ダンは、息を吸った。
「うるせえ! さっき負けた奴が、指図すんな!」
言い返した声が、思ったより大きく出た。
レオの口が、一瞬止まった。
それから、歯が見えた。
「じゃあ、勝てよ!」
レオが怒鳴った。
「俺より強えんだろ!」
ダンは笑った。
口の中に溜まった血を、石畳へ吐いた。
ロッシュが、完全にこちらを向いた。
ようやくだ。
ダンは拳を上げた。
「一人目だ」
「あ?」
「レオとやる前に、俺に勝ってみろよ」
足が震えていた。
それでも、自分から一歩、詰めた。
「ちゃんと、数に入れろ」




