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激情のディソナンス  作者: 白瀬余白


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第23話 灯りの届くところ

 三問目で、筆が止まった。


 エマは問題文をもう一度読んだ。


 術式の基点がずれた場合に生じる反応を、二つ挙げよ。


 一つは書けた。


 もう一つが出てこなかった。


 さっき棚へ戻した本の、確か右側の頁にあった。


 挿絵も覚えている。


 隅に、昔の誰かがつけた染みも覚えている。


 答えだけ、覚えていなかった。


「……何で染みは覚えてるのよ」


 小さく言って、額を押さえた。


 橋詰治療院の窓の外が、薄い橙色になっている。


 午後の患者は、いったん途切れていた。


 師匠が奥で記録をまとめる間、エマは机の端を借りて、王都治療学院の古い問題に取り組んでいた。


 十問のうち、まだ三問目。


 残り時間を気にして、ますます答えが遠くなる。


 戸口の鈴が鳴った。


 エマは顔を上げた。


「はい」


 入ってきたのは、黒瀬の制服を着た少年だった。


 黒い髪と、後ろへ伸びる角。


 唇の端が切れている。


 右手の甲が腫れていた。


 背が高く、入口の梁が少し低く見えた。


 エマは筆を置いた。


「どうしたの」


 少年は右手を少し上げた。


「これ」


「手だけ?」


「口も」


「ほかは?」


 少年が黙った。


 エマは、入口に立ったままの姿を見た。


 肩が僅かに上がっている。


 息を吸うとき、制服の腹の辺りが不自然に止まった。


「……お腹も痛い?」


「少し」


「師匠、お願いします」


 奥へ声を掛けた。


 少年がこちらを見る。


 エマは、その目を見返した。


「先に診てもらって。それから手当てするから」


 断られるかと思った。


 少年は何も言わず、診察用の椅子へ向かった。


     *


 ノクスは、上着を脱ぐよう言われた。


 次に、息を吸うよう言われた。


 痛いところを聞かれ、指で示した。


 殴られた回数を聞かれたが、全部は覚えていなかった。


 師匠と呼ばれた治療師は、無理に聞き出そうとはしなかった。


 腕を動かし、腹の状態を確かめ、必要な箇所へ術を施した。


 強張っていたところが、少し緩んだ。


 何もなかったように戻るわけではなかった。


 拳を握れば、まだ痛かった。


「明日も痛みが強いようなら、もう一度来ること。今日は大人しくしていなさい」


 ノクスは頷いた。


「握って確かめ続けるのも、やめる」


 開きかけていた手を止めた。


 横で、少女が口元を押さえた。


 笑ったのかもしれなかった。


 ノクスが見ると、もう普通の顔へ戻っていた。


「口の傷と、包帯は私がやります」


 少女が椅子を引いた。


 白い前掛けに、短くまとめた髪。


 制服の襟が少し覗いていた。


 鳴鐘だった。


「名前、聞いてもいい?」


「ノクス」


「姓は?」


「ヴェイン」


 少女の筆が一瞬止まった。


 それから、紙に書いた。


「ノクス・ヴェイン。二年?」


「ああ」


「私はエマ。手、こっちへ置いて」


 ノクスは机へ手を出した。


 エマが布を取る。


 ノクスの指に触れる直前、その動きが一度止まった。


 怖がっている。


 ノクスは、それを見るのに慣れていた。


「痛かったら言って」


 エマが言った。


「ああ」


「我慢してから急に動くと、こっちも困るから」


「わかった」


 今度は、布が触れた。


 沁みた。


 ノクスは顔をしかめた。


「痛い?」


「……ああ」


「うん」


 それだけだった。


 何故喧嘩したのかも、勝ったのかも聞かなかった。


 口の傷に術を使うときだけ、少し顔を上げるように言われた。


 ノクスは壁を見た。


 小さな棚があった。


 薬瓶の横に、布で作った飾りが置いてある。


 片方の耳が短い、兎のようなものだった。


「それ、弟が作ったの」


 目線に気づいたエマが言った。


「何だ」


「兎」


「そうか」


「兎に見えるでしょ」


「……ああ」


「今、間あった」


 ノクスは返事をしなかった。


 エマも続けなかった。


 机に置かれた鞄から、乾ききらない本の角が覗いていた。


     *


 エマは包帯の端を留めた。


 緩すぎないか確かめてから、手を離す。


「今日は濡らさないで。替えるときのことは、この紙に書いてあるから」


 紙を渡す。


 ノクスが左手で受け取った。


 鞄へ入れようとして、開きっぱなしだった本が膝へ落ちた。


 反射的に、右手が動いた。


「その手」


 エマが言った。


 ノクスの手が止まる。


 本を、左で拾い直した。


 表紙が見えた。


「……あ」


 エマの声が出た。


 ノクスが目を上げる。


「それ、第三巻?」


 視線が本へ落ちた。


 煤けたような青い表紙。


 船の上に、一羽の白い鳥が描かれている。


 『灰の海を渡る鳥』。


 エマが二巻まで読んで、続きはまだ買っていない物語だった。


「ああ」


「もう出てたんだ」


「先週」


「知らなかった……」


 専門書の棚は見た。


 問題集の値段も見た。


 そのあと急いで治療院へ来たので、物語の棚まで回らなかった。


 ノクスは本をしまいかけた。


 エマは、つい聞いた。


「あの、二巻の最後でさ」


 ノクスの手が止まった。


「船長、戻ったじゃない。あれ、どうなるの」


「どこまで読んだ」


「二巻」


「じゃあ、言わねえ方がいいだろ」


「あ。そうだね」


 エマは少し恥ずかしくなった。


 人の読んでいる本を見つけると、すぐこうなる。


 けれど、気になっていたことはもう一つあった。


「でも、戻るの遅すぎない?」


 ノクスがこちらを見た。


「船長のこと」


「……あいつがいなきゃ、残った奴らも出られねえ」


「だから、最初から降りなきゃよかったのに」


「荷を捨てるって決めたのは、船長じゃねえだろ」


「でも、船長は止められたでしょ」


 エマは言ってから、患者の包帯を見た。


 何の話をしているのだろう。


 ノクスは、本の表紙を見ていた。


「俺も、まだ途中だ」


 静かに言った。


「そうなの?」


「ああ」


「じゃあ、最後は言わないでね」


「お前が聞いたんだろ」


 エマは口を閉じた。


 一拍置いて、笑ってしまった。


「そうだった」


 ノクスは笑わなかった。


 けれど、すぐに目を逸らしもしなかった。


 奥から師匠に呼ばれた。


 エマは立ち上がった。


「会計、すぐ出すね」


 記録用の紙を持って奥へ行く。


 戻ってきたときには、ノクスは本を鞄へしまっていた。


 代金を払い、上着を着る。


 片方の袖が通りにくそうだった。


「手伝う?」


「いい」


 少し待つ。


 自分で着た。


 ノクスが戸へ向かった。


「エマ」


 呼ばれて、エマは顔を上げた。


「何?」


「橋の下の古本屋。三巻、もう一冊あった」


 エマは目を瞬いた。


「……ありがとう」


 戸が開いた。


 鈴が鳴った。


 長い影が外へ伸びて、消えた。


 エマは少しの間、閉じた戸を見ていた。


 同じ本を読みかけている顔を思い出すと、さっきより少し、話しかけやすそうな気がした。


 机へ戻る。


 三問目が残っていた。


 その横に、専門書を買うために取っておいた硬貨の袋がある。


 古本なら、いくらだろう。


 袋の口に触れてから、エマはノートを開いた。


 募集の締切日。


 その下には、まだ何も書いていなかった。


 挟んであった紙を広げる。


 折り目は、最初に畳んだときより深くなっていた。


 もう少し問題が解けるようになってから。


 次の答え合わせで、間違いが減っていたら。


 そうやって先へ送っているうちに、締切が来る気がした。


 それなら、落ちずに済む。


 受けていないのだから。


 エマは、三問目の空欄を見た。


 少しだけ、ほっとしかけていた。


 それが嫌だった。


 募集の紙には、教本で見慣れた名前が並んでいる。


 この人たちに教わってみたい。


 今は師匠に任せている治療も、自分でできるようになりたい。


 そこは、何度読み返しても変わらなかった。


「師匠」


 奥から返事があった。


 エマは、募集の紙を持って立った。


「夏の講習の選抜、応募します。申込書、もらえますか」


 師匠が、記録をまとめていた手を止めた。


「決めたの」


「はい」


 言ってから、紙の端を握り直した。


「……受かるかは、全然わかんないですけど」


 師匠は頷いて、棚の書類入れから一枚取り出した。


「名前は、ここから。学校と治療院の名前もいる」


 エマは受け取った。


 薄い紙だった。


「それと、選抜の日、仕事を休ませてもらえますか」


「どの日?」


 募集の紙の日程を指した。


 師匠が、机に置いた予定表と見比べた。


「そこは空けておく。講習の間のことは、受かったら改めて相談しよう」


「……はい。ありがとうございます」


 借りていた机の端へ戻った。


 名前を書くときだけ、筆が遅くなった。


 あとで師匠に、駄目でしたと報告する日のことが浮かんだ。


 最後の一字まで書いた。


 鳴鐘学園。


 橋詰治療院。


 知っている名前なのに、一つずつ確かめながら欄を埋めた。


 硬貨の袋を開く。


 専門書を買うつもりだった金から、募集に書かれた額を数えた。


 小さな封筒へ入れ、申込金、と書く。


 専門書は、もうしばらく師匠の本を借りる。


 残った分で、三巻は買えるだろうか。


 まだ、少し気になっていた。


 エマは書き終えた紙を持って、もう一度師匠のところへ行った。


「これ、出す前に見てもらっていいですか」


「うん」


「あと、三問目も教えてください。二つ目が、わからなくて」


 師匠は申込書を受け取り、机の端へ置いた。


「今日の片づけが終わったら、両方見よう」


「お願いします」


 エマは席へ戻り、問題の紙を手元へ引き寄せた。


 三問目に、小さく印をつける。


 四問目を、最初の一行から読み直した。


     *


 翌日の乾燥棟は、埃で白かった。


 フィンは、箒を押すたびに咳をした。


「これ、昨日の喧嘩で出た埃じゃないですよね」


「去年のもあるだろうね」


 ユリスが窓を拭いていた。


 窓枠に雑巾を押し込み、黒くなった面を見て顔をしかめる。


「三年分くらい、俺らにやらせてんじゃないの」


「先生に言えば」


「お前が言って」


「嫌です」


 部屋の反対側では、ゼンたちが架台を運んでいた。


 目が合うと、ロドが舌打ちした。


 フィンは視線を戻した。


 もう一度、箒を押した。


 昨日の拳を、まだ身体が覚えていた。


 通りすがりの生徒が、開いた窓から中を覗く。


 ノクスを見つけると、足を速めた。


 フィンは、その背中を目で追った。


 誰も自分に用事を言いつけてこなかった。


 それが少し、気分よかった。


 そう思ってから、口元の傷が痛んだ。


「フィン。そっち寄せろ」


 ドムに呼ばれた。


 床の隅へ集めた埃を、塵取りへ入れる。


 カイが、重い架台を一人で持ち上げようとしていた。


 ユリスが窓の上から声を掛けた。


「おい。お前、今日も負ける気か」


「何にだ」


「その棚」


「負けるか!」


「じゃあ壊れるから、二人で持てって」


 カイは動きを止めた。


 ドムが反対側へ回った。


 ノクスは、少し離れたところで床を拭いていた。


 右手を使わず、左で雑巾を押している。


 フィンが近づくと、顔を上げた。


「何だ」


「……そこ、もう拭きました」


 ノクスは床を見た。


 水の跡が重なっていた。


 何も言わず、隣へ移った。


 フィンも、何も言わなかった。


 昨日、ゼンの襟を掴んでいた手を思い出した。


 助かった。


 怖かった。


 両方あった。


 片方だけにして話すのは、まだ難しかった。


     *


 掃除が終わると、ゼンたちは先に出ていった。


 ロドが肩をぶつけてきたが、ユリスは避けなかった。


「今度は先生いねえとこでやるか」


 小さく言う。


 ロドが振り返った。


 教師がこちらを見た。


 二人とも、何も言わずに離れた。


 ノクスは鞄を取った。


 裏門へ向きかけて、ドムに呼ばれた。


「灯り、動くようにはなった」


 ノクスが止まった。


「朝、組んだ。点けて確かめてから渡す」


「ああ」


「部屋、開けとく」


 ドムは工具箱を抱えた。


 カイが横へ並んだ。


「持つ」


「お前も怪我してるだろ」


「持てる」


「傾けるなよ。中で道具が動く」


「わかってる」


 カイは両手で箱を受け取った。


 二人が先に行った。


 フィンも続いた。


 ユリスは一度別の方へ向かい、途中で足を止めた。


「扇、今日だよな?」


 ドムが遠くで頷いた。


 ユリスは舌打ちし、戻ってきた。


 ノクスは、その後ろを歩いた。


     *


 旧汽罐室では、誰も待っていなかった。


 少なくとも、ノクスを待つために座っている奴はいなかった。


 ドムは灯具の蓋を開けていた。


 フィンは紙に何かを書いている。


 ユリスは窓を押し上げようとして、途中で引っ掛かっていた。


 カイは作業台の前で、小さな板を押さえていた。


「ここでいいのか」


「そこだと割れる。もう少し端から離れろ」


 ドムが言う。


 カイは指の位置を変えた。


「こうか」


「そう」


 ノクスは入口で止まった。


 フィンが顔を上げた。


「あ、戸。下、持って」


「知ってる」


 持ち上げて、閉めた。


 擦れる音はしなかった。


 フィンの紙には、修理代の表らしいものが書いてあった。


 靴の留め具。


 鞄の金具。


 魔導扇。


 その下に、大きな字で一行。


 友達割引あり。


「それは消せ」


 ドムが言った。


「まだ見せてないのに」


「見える」


「人が来るって」


「安くすれば来るだろ。俺の金は減る」


「壊れた物持ってきてもらえば、困ってる人も助かるし」


「だから、それには払ってもらう」


 フィンは紙を裏返した。


 少し考えた。


「じゃあ、最初に値段聞くだけなら、ただ」


「元からだ」


「それ書こうよ!」


「書かなくても」


「知らなきゃ聞きに来ないだろ」


 ドムの手が止まった。


 フィンが顔を上げた。


 二人が、少しの間見合った。


「……それは、いい」


「よし」


 フィンは紙を表へ戻した。


 友達割引の文字を線で消す。


 その下に、新しく書き始めた。


 ユリスが、窓をもう一度押した。


 勢いよく開いた。


 埃が落ちてきた。


「最悪」


 カイが笑った。


 ユリスが振り向く。


「お前も開けてみる?」


「もう開いたろ」


「閉めればいい」


「閉めるな。手元が暗くなる」


 ドムが灯具から目を上げずに言った。


 ユリスは窓から手を離した。


 ノクスは、作業台の端へ鞄を置いた。


 ドムが灯具を差し出した。


「曲がってただけだった。部品は替えてない。工賃だけ」


 額を言った。


 ノクスは硬貨を出した。


 ドムは受け取り、小さな箱へ入れた。


 それで話が終わると思った。


 ドムは、灯具をまだ離さなかった。


「昨日の、腕」


 ノクスの指が止まった。


「強く掴んだ。そこも痛むか」


「別に」


「そうか」


 ドムは手を離した。


 ノクスは灯具を取った。


 ゼンの襟の感触が、指に戻りかけた。


 消すように、つまみへ目を落とす。


「……止めたのは、間違ってねえ」


 小さく言った。


 ドムが顔を上げた。


 ノクスは見なかった。


 ドムも、返事を重ねなかった。


「点けるぞ」


 ドムが火種を寄せた。


 灯具の芯に、小さな火が移った。


 硝子の内側が橙色になった。


 つまみを回す。


 明るさが、ゆっくり変わった。


 一昨日の朝、できなくなっていた動きだった。


「少し使って、引っ掛からないか見てくれ」


「ああ」


 ノクスは灯具を作業台へ置いた。


 鞄から本を出した。


 空いていた低い丸椅子へ腰を下ろす。


 フィンが顔を上げた。


 何か言いかけた。


 ノクスが見ると、口を閉じた。


「何だ」


「……何読んでるんすか」


「本」


「それは、わかる」


 ユリスが笑った。


 カイが、ドムの指示を聞き返した。


 フィンは今度、無理に本を覗かなかった。


 書きかけの紙へ戻り、値段の横に何かを書いた。


 ノクスは頁を開いた。


 波打った端が、指に引っ掛かる。


 灯りの下で、文字を追う。


 二行読んだところで、フィンがまた声を上げた。


「ドム、店の名前いるって」


「店じゃない」


「じゃあ工房」


「部屋だ」


「名前ある方が覚えてもらえるだろ」


「旧汽罐室」


「それは場所!」


 ユリスが、直った扇を動かした。


 弱い風が、フィンの紙をめくった。


「あ、ちょっと!」


「客に風当てる道具だから。試さないと」


「俺、客じゃないんですけど!」


 ノクスは同じ行を、もう一度読んだ。


 あの夕方も、そうした。


 今日は、声が壁の向こうにいなかった。


 ドムが、カイの押さえている板を覗き込む。


 影が手元へ落ちた。


「カイ、ちょっと腕ずらせ」


「こっちか」


「暗くなる」


 ノクスは、本から片手を離した。


 灯具を、作業台の真ん中へ寄せた。


 カイの指と、ドムの道具が照らされた。


 本の頁も、まだ読めた。


 ノクスは椅子を少しだけ前へ動かした。


 誰かが何か言う前に、次の頁をめくった。


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