第22話 俺に用があるなら
ドムの拳が、ゼンの顎を押し上げた。
椅子が後ろへ倒れた。
ゼンの背が、壁に掛けてあった板へぶつかる。
誰も、すぐには動かなかった。
殴ると思っていなかったのだ。
背の低い、口数も少ない、道具を取りに来ただけの二年が。
ドムは工具箱へ手を伸ばした。
横から靴が飛んできた。
箱ではなく、ドムの腕を蹴った。
「何してんだ、てめえ!」
大柄な人間の三年生だった。
ドムの肩を掴み、床へ引き倒そうとする。
ドムは相手の袖を掴んだ。
足を広げた。
引かれた方へ半歩入り、腰をぶつける。
二人分の身体が、作業台へ突っ込んだ。
机の上の部品が跳ねた。
「ドム!」
フィンが動いた。
襟を、後ろから掴まれた。
「お前はこっちだろ」
ロドの声だった。
フィンは振り返る前に殴られた。
口の中で、歯が頬に当たった。
床が近くなる。
両手をついた。
「立てよ。昨日みてえに助け呼べよ」
髪を掴まれる。
フィンは、ロドの手首を両手で握った。
外れなかった。
カイが踏み込んだ。
ロドへ届く前に、鼻の脇に傷のある二年が立ちはだかった。
昨日、ノクスに殴られたもう一人だった。
「一年が出しゃばんな」
「どけ!」
カイの左拳が相手の肩へ当たった。
右は躱された。
空振りの直後、頬を殴られた。
昼と同じ場所だった。
頭の中が白くなった。
膝が落ちる。
カイは歯を食いしばり、相手の制服へ掴みかかった。
ゼンが、口元を拭った。
指に血がついていた。
「……やってくれたな」
足元の工具箱を持ち上げた。
蓋を開ける。
長い柄のついた道具が並んでいた。
ドムが顔を上げた。
「それに触んな!」
大柄な三年の拳が、ドムの頬へ入った。
ドムは下がり、作業台へ背をぶつけた。
ゼンは道具を一本抜いた。
細い先が、内側へ曲がった挟みだった。
「これがねえと、困るんだっけ」
工具箱を床へ下ろし、挟みだけを机の端へ置いた。
柄に、手を掛ける。
曲げるつもりだった。
フィンは、ロドの手に爪を立てた。
「やめろよ!」
「お前が黙れ」
拳が振り上がった。
その腕が、横から引かれた。
「俺も困るんだわ」
気の抜けた声がした。
次の瞬間、ロドの顔が戸口へ飛んだ。
フィンの頭から手が離れた。
ユリスが、入り口に立っていた。
袖を捲りながら、フィンを見下ろす。
「留守番もいないから、修理屋探して来てみりゃこれだ」
ロドが振り返った。
「てめえ!」
「知ってる相手に、その呼び方?」
ユリスは笑った。
その笑顔のまま、殴りかかってきた拳を避けた。
ロドの脇へ滑り込み、耳の下へ拳を打ち込んだ。
ロドが戸枠へ肩をぶつける。
「今日は、俺の名前も覚えて帰れよ」
もう笑っていなかった。
*
ノクスが南の乾燥棟へ来たとき、窓の一枚が開いていた。
中から、机を引きずる音がした。
誰かが怒鳴った。
ドムの声だった。
ノクスは足を止めた。
通り過ぎてから寮へ戻ることもできた。
灯具は急がないと言った。
明日直らなくても、日が落ちる前に本を読めば済む。
窓の向こうで、短い角が揺れた。
カイが殴られていた。
それでも相手の上着を離さず、前へ出ようとしていた。
昼と同じだった。
届くことしか考えていない。
「馬鹿か」
ノクスは、建物の入口へ向かった。
*
フィンは、床の工具箱へ飛びついた。
誰かの足が当たったらしく、倒れて蓋が開いていた。中の道具が、半分ほど床へ散っている。
火を使う器具のそばに置いていい物ではないことくらい、フィンにもわかった。
散らばった道具を、手で寄せる。
細い挟みは、ゼンがまだ持っていた。
箱を持ち上げると、腕を掴まれた。
「盗んでんじゃねえよ」
さっきまで壁際にいた、小柄な三年だった。
同じ人間でも、フィンより腕が太かった。
「返してもらってんだよ!」
言い返した。
すぐ殴られた。
フィンは箱を抱え、背中から壁にぶつかった。
蓋の留め具が、腹へ食い込んだ。
息を吸うと痛かった。
それでも、離す方が嫌だった。
「何が返してもらってる、だよ。お前のじゃねえだろ」
フィンは相手の顔を見た。
その通りだった。
だから、どう言い返せばいいのかわからなかった。
足が動いた。
箱を横へずらし、肩から相手にぶつかった。
喧嘩を知らない身体だった。
頭も、腕も、どこへ置けばいいのかわからない。
ただ押した。
三年がよろけた。
フィンは、その脇から抜けようとした。
制服を引かれた。
床へ倒れた。
工具箱だけを、胸の前から横へ滑らせた。
靴が近づいた。
フィンは頭を抱えた。
靴音が、別の音に変わった。
重いものが、壁へ当たる音だった。
恐る恐る顔を上げる。
小柄な三年が、壁際でしゃがんでいた。
ノクスが立っていた。
右手を下ろす。
フィンではなく、部屋の中を見た。
「ゼン」
名前だけだった。
奥にいたゼンが顔を向けた。
「……お前か」
ノクスは戸口に鞄を置いた。
ゼンの手にある挟みを見た。
それから、ドムを見た。
ドムは大柄な三年の腹へ拳を入れていた。
顔には血がついていた。
自分で相手を押し返していた。
ゼンが、挟みを机へ放った。
「最近、うろちょろしてると思ったら、こういうことか」
「何がだ」
「そいつら、お前のとこの連中だろ」
ノクスの目が、僅かに細くなった。
「知らねえ」
カイが一瞬、こちらを見た。
相手の拳を腕で受け、また前へ向き直る。
フィンは床に片手をついた。
立とうとした。
ゼンが笑った。
「じゃあ、何しに来たんだよ」
ノクスは答えなかった。
「俺の顔潰して、知らねえで済むか。二年集めて頭でも気取ってんのか、お前」
「俺に用があるなら、俺に言え」
ノクスが、一歩入った。
「そいつの道具で遊んでんじゃねえよ」
ゼンの拳が飛んだ。
ノクスが右腕で受ける。
重かった。
腕ごと、身体が押された。
続けて左が来た。
顔を避けたが、肩に当たった。
昨日殴られた場所だった。
熱い痛みが走った。
ノクスは下がった。
ゼンが追ってきた。
「偉そうに!」
右。
左。
最後に、腹へ突き上げる拳。
ノクスは肘を下げた。
間に合わなかった。
昼にカイの拳が入った場所へ、三年の拳がめり込んだ。
喉から息が漏れた。
頭が下がる。
ゼンが、その後頭部へ腕を回した。
引き寄せる。
ノクスは、ゼンの胸へ左手をついた。
上を向いた。
鼻先に、相手の制服があった。
右拳を短く振った。
ゼンの脇腹を打つ。
一発。
もう一発。
頭を押さえていた腕が緩んだ。
ノクスはその下を抜けた。
唇から血が落ちた。
「どうした。噂ほどじゃねえな」
ゼンが腹を擦った。
ノクスは息を吸った。
口の中が鉄の味だった。
周りでは、まだ喧嘩が続いていた。
*
ユリスは、ロドの拳を頬へもらった。
口の端が切れた。
舌で触り、笑う。
「当たったね」
「余裕こいてんじゃねえぞ!」
「そう見えんの」
ロドが大きく踏み込んだ。
ユリスは今度、避けなかった。
相手の腕を両手で受け、足を引っ掛けた。
ロドの膝が床につく。
襟を掴んで引き上げ、顔へ拳を打った。
ロドは横へ崩れた。
ユリスも息を吐いた。
指が痛かった。
顔も痛かった。
格好つけた分、思ったより殴られた。
「先輩!」
カイの声がした。
ユリスが振り返る。
鼻に傷のある二年が、横から来ていた。
ユリスは肩を引いた。
拳が袖を掠めた。
相手がもう片方の腕を上げた。
カイが、その胴へ飛びついた。
「お前の相手は、俺だ!」
「しつけえんだよ!」
カイの背へ拳が落ちた。
一度。
二度。
腕は離れなかった。
昼、ノクスへ届かなかった右手が、相手の腰の後ろまで回っていた。
ユリスが動こうとした。
カイが顔を上げた。
「手、出すな!」
「助けたの、そっちだろ」
「こいつは俺がやる!」
ユリスは舌打ちした。
後ろへ下がった。
「じゃあ、足も動かせ!」
カイが足を踏み出した。
頭を相手の胸へ押しつける。
一歩。
もう一歩。
二年の踵が、倒れた架台の脚へ引っ掛かった。
二人とも転がった。
カイは上になった。
拳を振り上げる。
相手の拳が先に頬へ入った。
顔が横を向いた。
カイは戻した。
殴った。
外した。
もう一度、殴った。
「うおおおおッ!」
きれいな喧嘩ではなかった。
相手が両腕で顔を庇い、もう殴り返してこなくなってから、ユリスがカイの肩を掴んだ。
「終わり」
「まだ」
「相手見ろ」
カイは下を向いた。
二年が、荒い息を吐いていた。
腕の間からこちらを見ていたが、拳は出てこなかった。
カイは手を下ろした。
そのまま、横へ転がった。
「……立てるか」
ユリスが聞いた。
「立てる」
「さっきも聞いたね、それ」
「うるせえ」
カイは床へ肘をついた。
ユリスは、今度は笑わなかった。
襟元を引き、カイを起こした。
*
ドムの額が、三年の胸へ当たった。
相手の腕が首へ回る。
締める前に、ドムは腰を落とした。
机仕事をしていると、何故か腕だけしか使っていないと思われる。
重い部品を運ぶのは誰なのか。
罐の土台を持ち上げるのは誰なのか。
今、説明する気はなかった。
大柄な身体を抱え、持ち上げた。
半歩だけ進んだ。
相手の足が床へ戻ったところで、腹へ拳を打ち込んだ。
三年が机へ折れた。
ドムは、もう一発殴った。
肩で息をした。
三年が、その場へしゃがんだ。
「……返せって、言っただろ」
喉が痛かった。
何度同じことを言わせるのだろうと思った。
机の上から、細い挟みを取った。
先を合わせる。
曲がっていなかった。
フィンが壁際から工具箱を引きずってきた。
片目の下が腫れ、唇が切れていた。
「これ」
ドムは箱を受け取った。
フィンが手を離すと、留め具に血がついていた。
「お前、手」
「切った。ちょっと」
ドムは自分の袖を見た。
汚れていた。
フィンの袖も汚れていた。
今は押さえる物さえ、すぐに出せなかった。
「帰ったら洗うぞ」
「うん」
フィンは頷いた。
二人のすぐ向こうで、ゼンの靴が床を擦った。
*
ノクスは、壁際まで下がっていた。
背中に、乾いた木の匂いがした。
ゼンの右肩が動く。
顔へ来る。
そう思ったところで、拳が下がった。
腹だった。
今度は読めた。
ノクスは、右肘を身体へ寄せた。
拳を受ける。
痛みはあった。
でも、足は止まらなかった。
ゼンの腕に沿って、内側へ踏み込んだ。
左拳を打ち込む。
脇腹。
ゼンが息を詰めた。
身体が捻れる。
ノクスは足を入れ替えた。
右を振った。
顎を捉えた。
ゼンの身体が、初めて大きく流れた。
机へ手をつく。
ノクスは追った。
ゼンが顔を上げた。
唇が動いた。
「また……お前のせいで」
拳が、先に出た。
ノクスの右だった。
ゼンの頬を打った。
机についていた手が外れた。
ゼンが膝をついた。
ノクスは襟を掴んだ。
引き上げる。
相手の顔が、近くに来る。
もう一度、右腕を引いた。
「ノクス!」
ドムの手が、腕を掴んだ。
ノクスは振り向いた。
「触んな」
「もう終わってる」
「離せ」
声が、自分の耳にも遠かった。
ゼンの制服が、左手の中にあった。
喉元の釦が一つ、取れかけていた。
ゼンは殴り返してこなかった。
腕を下げていた。
ノクスは、それを見た。
手を開いた。
ゼンが床へ崩れた。
ドムも腕を離した。
部屋が、急に静かになった。
呼吸の音だけが、いくつも聞こえた。
フィンは工具箱の脇に立っていた。
こちらを見ていた。
さっきまでの、ついてきたがる目ではなかった。
ノクスは目を逸らした。
「帰れ」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
ゼンが口を押さえた。
ユリスに殴られたロドが、よろけながら立ち上がった。
「てめえら……これで」
「次に道具を持ってくなら、貸さねえ」
ドムが言った。
ロドは睨んだ。
ドムも睨んだ。
互いに笑わなかった。
そのとき、廊下から足音がした。
「何だ、今の音は」
作業着姿の教師が、戸口に立った。
倒れた椅子。
散らばった部品。
血のついた床。
教師は順に見た。
それから、出口へ向いていたロドの襟を掴んだ。
「お前もだ。全員、残れ」
*
職員室前の長椅子は、五人が座るには狭かった。
カイが膝を開いて座り、ユリスに押された。
フィンは唇へ布を当てていた。
ドムは工具箱を足の間に置いていた。
ノクスだけが、壁に寄りかかって立っていた。
廊下の向こうにも、ゼンたちが座っていた。
こちらを睨む目があった。
見返す目もあった。
教師が記録用の紙を持ってきた。
「先に手を出したのは」
「俺です」
ドムが言った。
ノクスは顔を上げた。
ドムは続けた。
「返すって約束した工具を返さずに、壊そうとされたので」
「壊す前にも殴っただろう」
「はい。箱を蹴られて、殴りました」
教師が書きつけた。
次に、カイを見た。
「お前は」
「こいつが殴られたからです」
フィンを指した。
「その顔は、全部そこでか」
「昼にも負けました」
ユリスが横を向いた。
肩が一度揺れた。
カイが睨んだ。
「お前も順番に聞くぞ」
「はい」
ユリスが前を向いた。
ノクスは、窓の外を見た。
日はまだ沈んでいなかった。
それなのに、随分と長くここにいる気がした。
「ヴェイン」
呼ばれた。
教師が紙を見る。
「途中から来たんだな」
「ああ」
「何故、来た」
ノクスは答えなかった。
ドムの足元に、工具箱があった。
フィンの手が、震えていた。
ユリスがカイの頭を押し返し、カイがまた何か言い返していた。
「……物を、取りに来た」
「何の物だ」
「灯りを直す道具」
教師は、ドムを見た。
ドムが頷いた。
紙に、また文字が増えた。
ノクスはそこを見ていた。
誰も、続きを代わりに言わなかった。
*
翌日の放課後、乾燥棟を掃除することになった。
今日使った部屋だけではない。
廊下も、窓も、使っていない架台の下も。
ゼンたちにも同じことが言い渡されていた。
互いの名前を呼び合えるような空気ではなかった。
校内の治療係が帰ったあとだったため、怪我の重い者は街の治療院へ行くよう言われた。
カイが「大丈夫です」と言い、教師にもう一度顔を見ろと言われた。
ノクスは先に職員室を出た。
右の拳が腫れていた。
開こうとすると、皮膚が突っ張った。
背後でドムが工具箱を持ち直す音がした。
「ノクス」
呼ばれても、振り返らなかった。
「灯り、明日には渡す」
足が止まった。
少しして、ノクスは歩き出した。
廊下の角を曲がってから、壁に一度だけ左手をついた。
腹が痛かった。
息を吐いた。
誰もいないのを確かめ、腰を曲げた。
少し休めば歩けた。
歩けるようになってから、裏門へ向かった。




