第21話 俺が買った物だ
挑戦状は、四つ折りにされていた。
折り目が全部、きれいに揃っている。
表には大きく、ノクス・ヴェイン殿、と書いてあった。
「本人に渡した方がいいよ」
フィンが言うと、目の前の一年生は眉を寄せた。
「お前が居場所を知っていると聞いた」
「誰に?」
「昨日、お前がそう言っていた相手だ」
「ああ」
言った。
言った気がする。
知っている、とは言ったが、いつでも会えるとは言っていない。
少なくとも、朝から廊下で挑戦状を預かれるほどの仲ではなかった。
「名前、何だっけ」
「カイだ」
「俺、フィン」
「それは聞いた」
カイは、フィンと同じ一年の印をつけていた。
短く切った髪と、額の左右にある小さな角。
制服の前をきちんと閉じているせいで、真面目な生徒に見えた。拳の節にある細かな傷を見なければ、だが。
「何で喧嘩したいの」
「倒すためだ」
「いや、そりゃそうだろうけど」
「ここで一番強いと聞いた」
「本人、そんなこと言ってなかったよ」
「言っていたら、強いのか」
フィンは少し考えた。
「……それは、違うな」
「だから会う」
カイは紙を握り直した。
フィンは、その真っ直ぐさが少し眩しかった。
自分なら、もう少し遠回りする。
強い奴に会いたければ、先に飯の好みでも調べる。
この少年は、殴りに行く。
「昼なら、いるとこ知ってる」
フィンが言った。
「案内するよ」
*
「嫌だ」
ノクスは、挑戦状を受け取らなかった。
カイの手が、宙に残った。
昨日と同じ、渡り廊下の下だった。
ただし今日は日当たりのいい方へ移っている。本の端がまだ波打っていて、ノクスはそこを親指で押さえていた。
「まだ読んでないだろ」
「お前が説明した」
「読めば、条件も書いてある」
「断った」
カイは手を下ろした。
フィンは、用事が終わったと思った。
カイが制服の上着を脱いだ。
用事は終わっていなかった。
「ここじゃ邪魔だ。川の方に、平らな場所がある」
「人の話を聞け」
「不意打ちで勝っても意味がない。だから、先に言いに来た」
ノクスが本を閉じた。
フィンは、二人の間から少し離れた。
「俺を倒して、何になる」
「俺の名前を覚える」
「誰が」
「この学校の奴らが」
カイは答えた。
考えてから出した言葉ではなかった。
何度も、一人で考えてきたのだろうと思った。
ノクスは少年を見ていた。
それから、閉じた本を鞄へ入れた。
「一回だ」
カイの背中が伸びた。
「それで帰れ」
「わかった」
フィンだけが、わかっていなかった。
「え、待って。今? 飯は?」
二人とも、もう歩いていた。
*
川沿いの石段を下りた先に、荷揚げに使われなくなった広い石畳があった。
水際までは、まだかなり距離がある。
フィンは上着を二枚抱えて立っていた。
どちらも渡されたわけではない。
地面に置かれたものを、勝手に拾った。
「そこ、立ってると跳ねてくるぞ」
上から声がした。
石段の手摺に、一人のエルフが腰掛けていた。
細い目をした、二年生だった。
制服の袖口を折り返し、片方の靴で手摺の下を軽く叩いている。
「何がっすか」
「血」
フィンは場所を移した。
エルフが笑った。
「素直だねえ」
「先輩、見てるなら止めてくださいよ」
「何で」
「怪我するでしょ」
「するだろうね」
役に立たない。
フィンは、そう思った。
石畳の上で、カイが構えた。
両拳を顎の近くへ上げる。足は広すぎず、狭すぎず。少なくとも、フィンが真似してすぐできる形ではなかった。
ノクスは、少し横を向いていた。
カイが踏み込んだ。
速かった。
左の拳が顔へ伸びる。
ノクスが肩を引いた。
カイはそこで止まらず、右を腹へ入れた。
ノクスの身体が折れた。
「おっ」
フィンの声が出た。
その瞬間、ノクスの左拳がカイの頬を打った。
カイの顔が横を向く。
足が流れた。
それでも前へ出た。
「まだっ!」
大きく振った右。
ノクスは、その外へ半歩動いた。
カイの拳が空を切る。
反対側から、ノクスの拳が脇腹に入った。
カイの膝が下がった。
そこへ、もう一発。
短い拳が顎の下を捉えた。
カイは尻から石畳へ落ちた。
手をついて立とうとした。
片方の膝が、思ったところへ上がらなかった。
ノクスは追わなかった。
少し離れた場所で、腹に手を当てている。
唇を舌で触り、血を吐いた。
フィンは動けずにいた。
終わったのか。
まだなのか。
どちらかに言ってほしかった。
「……待て」
カイが言った。
ノクスは、上着を取りに来た。
カイがもう一度、足を立てた。
今度は、立てた。
膝が震えていた。
「まだ、俺は」
「足、見ろ」
ノクスが言った。
「でも」
「今は無理だ」
カイの拳が握られた。
唇が開いた。
何か言おうとして、歯を食いしばった。
ノクスはフィンから上着を取った。
礼も、感想も言わなかった。
カイの横を通り、石段を上っていった。
フィンは、残った上着を持ってカイへ近づいた。
「……座ったら」
「立ってる」
「うん。でも、座っててもいいんじゃない」
カイは答えなかった。
手摺にいたエルフが下りてきた。
「二発目までよかったのにね」
カイが顔を上げる。
「三発目、届くことしか考えてなかったろ」
「見てただけの奴が」
「そう。だからよく見えた」
カイが一歩出た。
その膝が折れた。
エルフは、脇へ手を入れて支えた。
「今度はこっち殴る気?」
「……離せ」
「離したら落ちるけど」
フィンも反対側へ回った。
カイは二人を睨んだが、今度は振り払わなかった。
「どっか、水あるとこ」
フィンが言う。
「上の井戸」
「あと、座れるとこ」
「注文が増えるねえ」
「ドムのとこなら」
エルフがフィンを見た。
「ああ。お前、あいつの知り合い?」
「昨日、なりました」
「へえ。俺の扇、まだ直ってないか聞いといて」
「自分で聞いてくださいよ」
「今から行くんだろ」
エルフはカイの腕を肩に掛け直した。
「俺、ユリス。そいつは?」
「カイ」
カイが自分で答えた。
「じゃあ、カイ。自分の足も使え。俺、優しくないから」
「使ってる!」
「その調子で」
フィンは、カイの上着を脇へ挟んだ。
三人で石段を上る。
途中から、カイが一番息を切らしていた。
*
ドムは、昼飯の途中だった。
入口に立つ三人を見て、パンを皿へ戻した。
「何だ」
「負けた」
カイが答えた。
「見ればわかる」
「ノクスさんに挑んだんすよ」
「お前がやらせたのか」
「俺じゃないですって」
フィンは肩を外し、カイを壁際の箱へ座らせた。
ドムが清潔な布を一枚持ってきた。
桶も置く。
「腫れるぞ。授業の前に、保健室も行け」
「わかってる」
カイは布を受け取った。
ドムは、カイの右手を見た。
「そこも」
拳の節が擦れていた。
カイが手の甲を水で濡らす。
ユリスは作業台の上を覗いた。
「俺のは?」
「そのまま」
「見りゃわかる」
「じゃあ聞くな」
フィンは少し笑った。
ドムが、壁に掛けてあった紙を取った。
「店は」
「開いてた。やっぱ寝てなかった。ちゃんと値段も聞いたよ」
フィンはポケットから紙を出した。
ドムの描いた部品の図の横に、数字が書き込まれている。
ドムはそれを見て、頷いた。
「合ってる」
「二個まとめてなら、もうちょい安くなるって」
「一個でいい」
「予備に持っとけば?」
「使わない予備は、金を棚に置いてるのと同じだ」
「でも、次に壊れたとき」
「次は違う場所が壊れるかもしれない」
フィンは作業台を見た。
小さな部品が、たくさん並んでいる。
「……全部、そう考えてんの?」
「全部、俺の金だからな」
ドムは紙を折ってしまった。
ユリスが、動かない扇の羽根を指で回した。
「じゃあさ、俺の金もそろそろ働かせてよ」
「まだもらってない」
「そうだった」
「今日、工具を返してもらう。そしたら続きやる」
ユリスの指が止まった。
「まだ持ってかれてんの」
「ああ」
「誰」
「ゼン」
フィンは、顔を上げた。
ドムがそれを見た。
「知ってるのか」
「昨日、俺に絡んできた二年が、その人のとこにいるって」
「ロドか」
ユリスが言った。
フィンは頷いた。
「あいつ、下の奴から取った金で、上の奴に奢ってるんだってさ。忙しいよね」
笑っていた。
ドムは笑わなかった。
「今日、返すって言った」
それだけ言って、パンを取った。
カイは、頬に当てていた布を下ろした。
「俺も行く」
「何で」
「借りたの返すんだろ」
「貸したの取りに行くんだ」
「じゃあ、余計に行く」
ドムがカイを見た。
カイは目を逸らさなかった。
ドムは、皿の端に残ったパンを半分に割った。
「先に食え」
「いらない」
カイの腹が鳴った。
ユリスが笑い、カイが睨んだ。
「食ってから睨めば」
「うるせえ」
「一年って、元気だなあ」
カイはパンを受け取った。
小さく、一口だけ齧った。
顎が痛んだらしく、眉間に皺が寄った。
ユリスは何か言いかけて、やめた。
代わりに、水差しをカイの方へ寄せた。
*
午後の授業が終わると、黒瀬の廊下は一斉に騒がしくなった。
フィンは鞄を抱えて二年の教室へ行った。
ドムが出てくるのを待つ。
階段からノクスが下りてきた。
「あ。ノクスさん」
止まらなかった。
「昼、カイのこと、運んだんすよ」
「そうか」
「ユリスさんも一緒に。あの、エルフの」
「知らねえ」
「ドムんとこで、飯も食って」
ノクスの足が、僅かに遅くなった。
フィンは続けた。
「これから、道具取りに行くんです」
「……誰と」
「ドムと。カイも来るって」
教室の戸が開いた。
ドムが出てきた。
「ノクス。灯り、今日はまだ無理だ」
「明日って言っただろ」
「念のためだ」
「場所は」
「何の」
「工具」
「南の乾燥棟。一番奥」
ドムは手の中の紙を見た。
貸した道具の一覧だった。
数の横に、小さな傷や印まで書いてある。
「戻ったら、中の歯車も確かめる」
ノクスは頷いた。
そのまま、階段を下りていった。
フィンは追いかけなかった。
今日はドムと行くと、自分で決めていた。
*
南の乾燥棟は、染料や木材を扱う実習で使われる、細長い建物だった。
授業で使うのは入口に近い二部屋だけで、奥には使わない架台が積んである。
その前で、ロドが煙を吐いていた。
フィンを見た途端、口元が歪んだ。
「また来たのか」
フィンの足が止まった。
腹は、まだ押すと痛かった。
ドムが前へ出た。
「ゼンに用がある」
「何だよ」
「借りてった物を返してもらう」
「待ってろ」
ロドは動かなかった。
壁へ背を預け、煙を吐いた。
カイが横へ出かけた。
ドムが片手で止めた。
「本人に話す」
「いねえっつってんだろ」
「今、待てって言っただろ」
フィンの口が動いた。
言ってから、しまったと思った。
ロドの目が細くなった。
「お前、昨日ので調子乗ってんのか」
肩を押された。
背中が壁へ当たった。
「今日は誰がいるんだよ」
フィンは、喉を鳴らした。
ノクスの名前が浮かんだ。
言えば、さっきの顔になるかもしれなかった。
昨日、襟を離したときの顔。
ロドの指が襟へ伸びた。
その手首を、ドムが掴んだ。
「俺に話せ」
「あ?」
「用があって来たのは俺だ」
奥で、椅子が鳴った。
「入れろ」
声がした。
ロドが振り返る。
ドムはその脇を抜けた。
フィンとカイも続いた。
広い部屋の中央に、背の高い魔族の三年生が座っていた。
片方の角に古い欠けがある。
その足元に、革張りの工具箱が置かれていた。
ゼンは、ドムの持っていた紙を見た。
「細けえな」
「返す物を忘れないように」
「もうちょい貸しとけよ」
「今日って言った」
「こっちも使ってんだ」
ゼンが机の上を指した。
分解された魔導灯がある。
ドムはそれを見た。
「それ、触る前に動力石外せ。接点が焼ける」
「詳しいじゃねえか」
「だから言っただろ。貸すときに」
ゼンが笑った。
周りの三人も笑った。
ロドが戸口へ回った。
「だったら、お前がやれよ」
「自分の仕事がある」
「こっち先にやりゃいいだろ」
「断る」
笑い声が止まった。
ゼンは椅子から立った。
ドムより、ずっと大きかった。
「お前、ここで誰に世話んなってると思ってんだ」
「先生から部屋を借りてる。寮費は家から出してもらってる」
「そういう話じゃねえんだよ」
「だったら、何の話だ」
ゼンがドムの胸を押した。
ドムは下がらなかった。
「直せって言ってんだ。道具、使いてえんだろ?」
足元の箱を蹴る。
中で、金属がぶつかった。
ドムの顔が変わった。
フィンには、わかった。
昨日から、ずっと静かな少年だった。
値段を聞いて、物を見て、できることとできないことを言う。
その口が、今は強く結ばれていた。
「蹴るな」
「あ?」
「返せ」
「やってから持ってけって」
ドムはゼンを見上げた。
右手を握った。
「俺が買った物だ」
ゼンの顎へ、拳が飛んだ。




