第20話 ついてくんな
黒瀬学園の裏門には、門扉が片方しかなかった。
残った片方も、開いたまま錆びついている。
そこをくぐると、川へ下りる石段があった。黒い川石を積んだ古い擁壁。その上に、煤けた校舎がいくつも並んでいる。
正門に近い階段は三年の溜まり場で、西の渡り廊下には二年が集まり、裏庭では一年同士が昼飯のパンを賭けて殴り合っていた。
どこを歩いても、誰かの知り合いに会う。
誰の知り合いでもないと、少し困る。
フィンは今、かなり困っていた。
「だからさ。誰に断って、あそこで売ってたんだよ」
襟首を掴んでいるのは、二年のロドだった。
太い首の横に、短い角が一本ずつ出ている。もう一人、鼻の脇に古い傷のある人間の生徒が、フィンの逃げ道を塞いでいた。
「売ってませんって。代わりに買ってきただけで」
「じゃあ、何で金もらってんだ」
「パン代ですよ」
「多く取ってたろ」
「坂の下まで行ったんすよ、俺。一個につき銅貨一枚。そこは最初に言ってて」
ロドの手に力が入った。
フィンは踵を浮かせた。
「商売じゃねえか」
「……まあ、言い方によっては」
「舐めてんのか」
「舐めてないです」
失敗した。
さっきから、口を開くたびに失敗していた。
黒瀬に入ってから覚えたことは、いくつかある。
売店のパンは昼の鐘が鳴る前に半分なくなる。
川沿いの坂を下りれば、同じ値段でもう少し大きなものが買える。
五人分まとめて買いに行けば、自分の昼飯代くらいは浮く。
それから、その程度のことでも、目をつける奴はいる。
「その袋、出せ」
「これ、まだ返してない釣りが」
「出せっつってんだよ」
ロドがフィンの鞄を引いた。
肩紐が食い込んだ。
離せばよかった。
けれど、鞄には金の袋だけでなく、昼前に借りた教科書も入っていた。返すときに言い訳を考えるのが嫌で、反射的に掴んでしまった。
腹に拳が入った。
「っ、ぐ……」
息が出ていった。
戻ってこない。
鞄を抱えたまま膝を折ると、今度は肩を押された。
「歩けよ。人が来んだろ」
渡り廊下の下へ押し込まれる。
フィンはよろけた。
石の縁に靴先が引っ掛かった。
転ぶ、と思ったときには、誰かの膝にぶつかっていた。
紙の束が、ばさりと鳴った。
「あ」
ベンチ代わりの低い石垣に、一人の生徒が座っていた。
黒い髪。
髪の間から後ろへ伸びる、滑らかな角。
開襟の制服には二年の印がついている。長い脚を半分投げ出していたその少年は、何も言わずに足元を見ていた。
本が落ちていた。
開いた頁が、雨水の残った溝に触れている。
フィンの腹が、別の意味で冷たくなった。
「す、すんません。今、拾いま――」
「踏むな」
低い声だった。
フィンは足を止めた。
少年が屈み、本を拾う。
濡れた角を指で押さえた。頁を一枚だけ剥がし、くっつかないように開き直す。
「何だよ、お前」
ロドが言った。
少年は答えなかった。
鞄から布を取り出し、本の縁へ当てた。
「聞こえてんだろ」
「聞こえてる」
「じゃあ返事しろよ」
「した」
フィンは目を閉じたくなった。
それは駄目だ。
さっきから自分も似たようなことをして、殴られている。
ロドが少年の肩を掴んだ。
「こっち見ろや」
少年は、本を石垣の上へ置いた。
布が風で飛ばないよう、その上に鞄を乗せる。
それから立った。
フィンより、頭ひとつ近く高かった。
「離せ」
「あ?」
「その手」
ロドが笑った。
もう一人も笑った。
少年は笑わなかった。
次の瞬間、ロドの拳が動いた。
顔を狙った右。
少年は首を僅かに傾けた。拳が頬の横を抜けるのと同時に、ロドの腕の内側へ踏み込んだ。
鈍い音がした。
少年の左拳が、ロドの腹に埋まっていた。
ロドの口が開く。
襟を掴んでいた指が離れた。
「てめ――」
人間の生徒が横から殴りかかった。
少年の肩に当たった。
制服が引かれ、身体が半歩流れる。
それでも倒れなかった。
振り向くより先に足を入れ替え、相手の次の拳を腕で受けた。
今度は、拳が顎の横を打った。
人間の生徒が石垣へぶつかった。
フィンは、鞄を抱えて後ずさった。
ロドが顔を上げた。
血の混じった唾を吐く。
「お前……」
少年の角から、目へ。
その顔を見て、ロドの声が変わった。
「ヴェインか」
少年は答えず、右手を開いて閉じた。
指の付け根を確かめるような動きだった。
ロドが一歩下がった。
「先に言えや」
「聞かれてねえ」
「……覚えとけよ」
ロドが、人間の生徒の腕を引いた。
二人ともこちらを見ていたが、もう近づいてこなかった。
靴音が遠ざかる。
フィンは、いつ息をしていいのかわからないまま立っていた。
少年は石垣へ戻った。
本を取り上げる。
濡れた頁が、僅かに波打っていた。
「……あの」
少年は布を挟んだ。
「ありがとうございました」
返事はなかった。
「俺、フィンっていいます。一年の」
「見りゃわかる」
「一年なのは、そうですけど」
少年がこちらを見た。
フィンは口を閉じた。
少し待った。
少年は、待つ必要がないと判断したらしく歩き出した。
「あ、待ってください」
「ついてくんな」
「いや、俺もこっちなんで」
「授業、向こうだろ」
フィンは振り返った。
校舎は、確かに向こうだった。
昼休みが終わる鐘が鳴った。
*
午後の授業で、フィンは三度指された。
三度とも答えられなかった。
最後には教師から、窓の外に正解はない、と言われた。
ノートには、授業と関係のない名前が書いてあった。
ノクス・ヴェイン。
隣の席にいた同級生は、その名を見ると顔をしかめた。
「お前、何したの」
「何も」
「じゃあ、何で名前調べてんの」
「ちょっと、会ったから」
「俺は知らねえぞ」
すぐに机を離された。
それから、噂を三つ聞いた。
三年を何人も病院送りにした。
魔法を使った相手の腕を折った。
前に一緒にいた連中まで、まとめて潰した。
最後の話だけは、人によって言うことが違った。
潰したのはノクスだという奴もいれば、ノクスだけが捕まったのだと言う奴もいた。
フィンには、どれが本当なのかわからなかった。
昼に見た拳は、本当だった。
そのあと本を拭いていた指も、同じ手だった。
*
放課後、ノクスは寮の部屋へ戻った。
寝台と机と、小さな棚。
机の上に置いた灯具を、上から覗く。
昨夜までは点いていた。今朝、支度の邪魔になって床へ置き、鞄で引っ掛けて倒した。
芯を送るつまみが動かない。
灯具を傾けると、内部で小さな部品が転がった。
「……面倒くせえ」
本はまだ乾いていなかった。
窓の前へ立てて置き、灯具だけを持って部屋を出た。
隣の扉を叩いた。
返事はなかった。
扉に、紙が一枚挟まっていた。
用事は旧汽罐室。
その下に、細い字で付け足してある。
金の貸し借りは部屋でしない。
ノクスは紙を戻した。
*
旧汽罐室は、実習棟の裏にあった。
使わなくなった大きな罐が撤去され、壁に太い管だけが残っている。
窓の半分は白く曇り、入口の戸は下を擦った。
ドムは、その戸を足で持ち上げながら開けた。
「閉めるときも上げろ。削れる」
中には作業台が二つあった。
片方に工具がきちんと並んでいる。
もう片方には、きちんと並べるのを諦めたような物が積まれていた。
ドムは袖を肘まで捲った、小柄なドワーフの二年生だった。
同じ寮の廊下で顔を合わせても、挨拶は頷くだけで済む。
それがノクスには都合がよかった。
「灯りか」
「落とした」
「自分で?」
「ああ」
「じゃあ、よかった」
ノクスは眉を動かした。
ドムが灯具を受け取る。
「誰かに壊された物だと、払う奴を決めるところから始まる」
「俺が払う」
「見てから値段出す」
細い金具を外し、中を覗く。
ドムは少し黙った。
工具掛けへ目を向け、また灯具へ戻した。
「明後日でいいか」
「そんなかかるのか」
「先の曲がった細い挟みが要る。貸したのが返ってきてない」
「誰に」
「三年。ゼンって奴と、その連れ。明日返すって言われてる」
ノクスの口元が動いた。
ドムはそれを見た。
「知ってるのか」
「名前だけ」
「俺も、貸す前はそのくらいだった」
ドムは灯具を作業台の端へ置いた。
「急ぐなら、別の奴に頼め」
「いい」
「じゃあ預かる」
話が終わった。
ノクスが戸へ向く。
戸の向こうに、人影があった。
こちらと目が合い、笑った。
「あ。いた」
フィンだった。
ノクスは戸を閉めた。
外で声がした。
「ちょっと!」
「閉めるとき上げろって言っただろ」
ドムが言った。
ノクスは、もう一度戸を開けた。
「何の用だ」
「これ」
フィンが紙袋を差し出した。
中に、平たい焼き菓子が二枚入っていた。
「昼の。お礼っす」
「いらねえ」
「おいしいですよ。端っこなんで、安かったし」
「お前の礼だろ」
「え?」
「相手に安かったって言うな」
ドムが、作業台から言った。
フィンは袋を見た。
「あ。そっか」
「持って帰れ」
ノクスが横を通った。
フィンは慌てて追いかけようとした。
「待って。せめて名前――」
「知ってんだろ」
フィンの足が止まった。
ノクスは振り向かなかった。
廊下の角を曲がるまで、誰もついてこなかった。
*
フィンは紙袋を下ろした。
指に、薄く油が染みていた。
「……知ってますけど」
「じゃあ、何で聞いた」
後ろからドムの声がした。
フィンは振り返った。
「本人から、聞きたかったんすよ」
ドムは返事をしなかった。
机の上の小さな輪を摘まみ、灯具の横へ並べている。
フィンは中を覗いた。
「ここ、何の部屋ですか」
「俺が借りてる作業場」
「何でも直せるんすか」
「何でもは無理だ」
「靴の金具とか」
「程度による」
「鞄の留め具」
「見る」
「魔導扇」
「物による」
フィンは一歩入った。
隅に、小さな羽根のついた器具があった。
指を伸ばしかける。
「触るな」
手を引っ込めた。
「売り物?」
「修理待ち」
「これ、直したら風出るんすか」
「出なきゃ直ってない」
フィンは笑った。
ドムは笑わなかった。
ただ、追い出しもしなかった。
フィンは空いている箱の縁へ腰を下ろした。
「俺、店知ってますよ。安いとこ」
「部品の?」
「飯の」
「それは今、いらない」
「部品も、探したらあるかも」
ドムの指が止まった。
「川向こうの、赤い庇の古道具屋は知ってるか」
「知ってる。親父がずっと寝てるとこ」
「寝てない。耳が遠いだけだ」
「え。俺、声かけないで帰っちゃった」
「起こしてもないのか」
フィンは袋の中を見た。
「これ、食べます?」
ドムは焼き菓子を見た。
フィンを見た。
「ノクスにやるんじゃなかったのか」
「いらないって」
「そうか」
一枚、取った。
フィンも一枚取った。
作業台に粉を落とすなと言われ、慌てて膝の上へ袋を広げた。
「ノクスさん、いつもあんな感じなんすか」
「隣に住んでるだけだ。知らない」
「え、寮も一緒?」
「俺の話を聞け」
フィンは菓子を噛んだ。
少し固かった。
ドムの方を見ると、同じように何度も噛んでいた。
「……安かったんで」
「今は言ってもいい」
フィンは、また笑った。
*
寮の部屋は、もう薄暗かった。
ノクスは窓際へ椅子を寄せた。
本を開く。
濡れた部分の文字は読めた。乾けば、多少は歪みも戻るだろう。
廊下で、誰かが声を上げた。
ノクスは目を閉じた。
足音が近づいてくる。
自分の部屋の前を通り過ぎた。
隣の扉を叩く音がした。
「ドムさん。これ、あの店に頼むやつ、書いといてくださいよ。俺、名前だとわかんないから」
「さんはいらない。呼ぶのも長い」
「じゃあ、ドム」
「何だ」
「紙」
「自分で持ってこい」
ノクスは顔を上げた。
隣の戸が開いて、閉まる。
しばらくして、フィンが声を上げた。
「絵、うまっ」
「部品の図だ」
「それがうまいんだって」
ノクスは頁へ目を戻した。
同じ行を、もう一度読んだ。
夕方の光が薄れていく。
灯具を預けたことを、少しだけ後悔した。




