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激情のディソナンス  作者: 白瀬余白


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19/32

第19話 一緒に来て

「……高っ」


 明細を見たニカの、第一声だった。


 教室の入口に立っていたトマが、眉を動かす。


「肉だぞ」


「肉なのは知ってる。あたしが落としたんだから」


 ニカは紙を持ち直した。


 肉。玉葱。香草。串。


 何にいくら使ったのか、細かな字で並んでいる。最後に書かれた合計を、もう一度見た。


 隣から覗いていたエマも、つられて数字を追った。


「これ、全部?」


「落ちた分だけって書いてある」


 トマが答えた。


「ベンチの材料は?」


「来てた。受け取った」


「直せそう?」


「手が治ればな」


 ニカは、トマの手元を見た。


 指の付け根まで巻かれた包帯。その下にある傷を思い出して、紙の端を握る力が少し強くなった。


「……わかった」


「渡しとくだけだからな」


「うん。あたしが行く」


 トマは一度だけ頷いた。


「喧嘩しに行くなよ」


「金払いに行くんだって」


「お前、途中で用事変えるだろ」


「変えない」


 即答すると、トマはまだ何か言いたそうな顔をした。


 けれど、言わなかった。


「じゃあな」


 廊下へ戻っていく背中を見送り、ニカは自分の席へ歩いた。


 座る時に、少し顔をしかめる。


 エマは隣の空いた椅子を引いた。


「足りる?」


「足りる」


 ニカは鞄から布の財布を出した。


 中を覗き、指で硬貨を寄せる。何枚か数えたところで、ため息が漏れた。


「口金、買えなくなった」


「口金?」


「菓子の。ほら、クリームを花みたいに絞るやつ」


「ああ。この前、店で見てた」


「そう。それ」


 財布を閉じた。


「もうちょいだったんだけどな」


 エマは窓の外を見た。


 教室へ戻ってくる生徒たちの笑い声が近づいている。次は苦手な歴史だった。黒板には、まだ前の授業の文字が残っている。


 いつもの朝だった。


 ニカが落とした串肉にも、こういういつもの朝があったのだろう。


 誰かが肉を買って、切って、串に刺していた。


 ニカは明細を畳み、教科書の間に挟んだ。


「ねえ、エマ」


「ん?」


「今日、治療院まで行く前、ちょっと時間ある?」


「少しなら」


「鉄門まで、一緒に来て」


 エマが顔を上げる。


 ニカは教科書の角を揃えていた。


「門のところまででもいいから」


「……うん」


「別に、喧嘩になるとか思ってないけど」


「うん」


「その。知らない奴ばっかだし」


 エマはニカの机に肘をついた。


「一緒に行くよ」


 ニカは、そこでやっとこちらを見た。


「ありがと」


 教師が入ってきて、二人とも慌てて前を向いた。


 ニカの教科書から、明細の端が少しだけ覗いていた。


     *


「串を落とした分。これで合ってるか、確認して」


 放課後、鍛冶通りへ向かう道で、ニカが言った。


 エマは横を見た。


「まだ本人いないよ」


「わかってる」


「練習?」


「うるさい」


 ニカは制服のポケットへ手を突っ込んだ。


 中で硬貨が鳴る。


 学校を出る前に、請求された額だけ小さな袋へ移していた。何度も数えていたから、間違ってはいないはずだった。


「ちゃんと謝るんだよね」


「謝るよ」


「うん」


「落としたことは」


 ニカは前を見たまま、付け加えた。


 エマは返事をしなかった。


 道の先に、鉄門学園の大きな門が見えてきた。


 片側だけでも、橋詰治療院の玄関がいくつも収まりそうだった。開いた門の向こうを、作業着姿の生徒や、上着を肩に引っ掛けた生徒が歩いている。


 鳴鐘の制服に気づいて、振り向く者もいた。


 ニカの歩く速さが落ちた。


 エマも、それに合わせた。


 ガルドがいるかもしれない。


 そう思った瞬間、エマはニカの横顔を見てしまった。


「何?」


「ううん」


「顔についてる?」


「ついてない」


 ニカは眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。


 門の脇にいた生徒へ声を掛け、エルンを呼んでほしいと頼む。


 その名前を聞いた生徒が校舎の方を向くより先に、奥から声がした。


「何しに来た」


 バッシュだった。


 ニカの肩が、わずかに上がった。


 相手の顔を見るより早く、脇腹の奥が縮む。


 あの拳が入った瞬間を、身体が勝手に思い出した。


 バッシュにも、顔に傷が残っていた。片方の頬に青い痣があり、唇の端が切れている。


 ニカはポケットから明細を出した。


「これ」


 バッシュが紙を見る。


「ああ」


「払いに来た」


「エルン呼ぶ」


 それだけ言って、背を向けた。


 ニカは、少し拍子抜けした顔で立っていた。


 言い返すために用意していた息を、ゆっくり吐く。


 エマが隣にいるのを確かめてから、門をくぐった。


     *


 第二実習棟の前には、長い作業台があった。


 片側には分解された器具が並び、反対側には包丁とまな板が置かれている。


 ポルは、まな板を洗っていた。


 ニカを見ると、手が止まった。


 その顔を見て、ニカも止まった。


 水門では、ほとんどまともに見ていなかった。


 地面に落ちた串を、しゃがんで拾っていた。


 大きな身体を丸めて、こっちの喧嘩がすぐ近くを通っているのに、ずっと下を向いていた。


「持って来たのか」


 エルンが実習棟から出てきた。


 ニカは頷き、作業台に明細と袋を置いた。


「串肉の材料代。書いてある分」


「確認する」


 エルンが袋を開けた。


 硬貨が台の上へ広げられる。


 ニカはポルの方を向いた。


 ポルは濡れた手を拭いていた。


 布で一度拭き、まだ濡れてもいないところを、もう一度拭いた。


「……あの時」


 ニカが口を開く。


 思っていたより、声が出なかった。


 咳払いをした。


「荷車、押したの、あたしだから」


 ポルが顔を上げた。


「あんたの作ったやつ、落として。駄目にして」


 門まで歩いてくる間、何度も頭の中で言った。


 もっと、さっさと言えると思っていた。


「悪かった」


 ポルは黙っていた。


 その沈黙が長く感じられて、エマは思わず口を開いた。


「あの時、ニカたちもベンチを――」


「エマ」


 ニカが言った。


 強い声ではなかった。


「それ、あたしが話すから」


 エマは口を閉じた。


 頬が熱くなった。


 隣にいるつもりだった。


 けれど、ニカが困っている顔を見た途端、先に言葉を足そうとしていた。


 ニカはもう一度、ポルを見た。


「あんたの飯まで、壊すつもりじゃなかった。でも、落としたのはあたしだから」


 ポルの手が、布を握った。


「……捨てました」


「うん」


「あの串。拾ったやつ」


 ニカは頷いた。


「最初、洗えばどうにかなるかと思ったんですけど。肉の間にも、砂が入ってて」


 ポルは視線を落とした。


「一回、並べてみたんです。使えるの、ないかなって」


 ニカは、何も言えなくなった。


 地面から拾っていたところまでは覚えていた。


 その後のことは、考えていなかった。


「なかったです」


 ポルが言った。


 エルンが硬貨を数える音が、妙にはっきり聞こえた。


「……ごめん」


 今度は、少し小さい声になった。


 ポルはすぐには頷かなかった。


 それから、ニカの顔を見た。


「お金は、受け取ります」


「うん」


「でも、まだ腹は立ってます」


 声の最後が、少し揺れた。


 ニカは唇を結んだ。


 言い返そうと思えば、言えることはあった。


 ベンチを壊したのは、そっちだ。


 先にあそこにいたのは、ミロだ。


 トマの手も、レオの顔も、まだ治っていない。


 けれど、今それを言う相手は、この少年ではなかった。


「……わかった」


 ニカは答えた。


 ポルが、布を握っていた手を緩めた。


「額は合ってる」


 エルンが言った。


 明細の下に短く書き足し、ニカへ返す。


 受領。その横に名前。


「ベンチの材料は?」


「トマが受け取った」


「足りなかったか」


「足りるって。いい材だって言ってた」


「そうか」


 エルンは、それだけだった。


 ニカも、それ以上は言わなかった。


 金を払って、謝った。


 それなのに、帰る前に何を言えばいいのか、わからなかった。


 ポルはまだそこに立っていた。


 笑ってはいなかった。


 ニカも、笑えなかった。


「……じゃあ」


 紙を畳み、ポケットへしまう。


 振り向いたところで、実習棟の戸が開いた。


「お、エマ?」


 ガルドだった。


 エマの胸が、ひとつ跳ねた。


「……こんにちは」


「どうした、こんなとこで」


「ニカの付き添い」


 ガルドがニカを見た。


 作業台の硬貨へ目を移し、事情がわかったらしく頷く。


「肉のか」


「あたしの分は払った」


 ニカが言った。


「おう」


 それで、その話は終わった。


 ガルドはエマに向き直った。


 治療院で見た時と同じように、少し屈むでもなく、遠慮するでもなく、まっすぐこちらを見る。


 エマは、自分が今どんな顔をしているのかわからなかった。


「レオ、学校来てるか」


「……来てるよ」


「そっか」


「まだ、顔は腫れてるけど」


 ガルドの口元が、少しだけ動いた。


 笑おうとしたのか、傷が痛んだのか、わからなかった。


「そうか」


 今度は、短く言った。


 エマの目が、その手へ落ちた。


 包帯は替えてあった。


 自分が巻いたものではなかった。


「手は?」


「動く」


「痛くないの」


「いてえよ」


 あまりにも普通に答えるので、エマは一瞬、いつもの調子で何か言いそうになった。


 じっとしていられない人だとか。


 また治りが遅くなるだとか。


 けれど、隣にニカがいる。


 その脇腹を殴ったのはバッシュで、レオを立てなくしたのは、目の前のガルドだった。


 エマは鞄の持ち手を握り直した。


「……そろそろ行くね。治療院があるから」


「おう。気をつけてな」


 ガルドが言った。


 優しい声だった。


 それが、困った。


     *


 鉄門の門を出てから、しばらく二人とも喋らなかった。


 鍛冶場から槌の音が響いている。


 道の端を、小さな荷車が通り過ぎた。


 ニカはポケットの中で、返された明細に触れていた。


「さっき、ごめん」


 先に口を開いたのは、エマだった。


「ベンチの話、私が言いかけたの」


「ああ」


「ニカだけ悪いみたいに思われるの、嫌で」


「わかってる」


 ニカは前を向いたまま答えた。


「でも、あたしが謝るとこだったから」


「うん」


「最後まで、自分で言いたかった」


 エマは頷いた。


 しばらく歩く。


 ニカが、やっと大きく息を吐いた。


「……めっちゃ怖かった」


 エマは横を見た。


「バッシュ?」


「違う。あの料理してた子」


「ポル?」


「うん」


 ニカは眉間を指で揉んだ。


「まだ腹立ってるって、あんなふうに言われると思わなかった」


 怒鳴られる方が、ずっと楽だった。


 殴り返してくるなら、構えることができた。


 けれど、あの少年は何も構えずに立っていた。


 それで、自分が嫌だったことを言った。


「払ったら、もうちょっとすっきりすると思ってた」


「……うん」


「全然だわ」


 ニカは空を見た。


 エマはその横顔を見ながら、鞄の持ち手を握っていた。


 言うなら、今だった。


 そう思ってから、また少し歩いてしまった。


「ニカ」


「何」


「私、ガルドにさ」


 ニカの顔が、こちらへ向いた。


「鍛冶通りのお祭り、来ないかって言われてた」


 槌の音が、遠くで二度鳴った。


「……いつ」


「治療院に来た日」


「レオたちが運ばれてくる前?」


「うん」


「何て返したの」


「仕事がなかったら、って」


 ニカは前を向いた。


 歩く速さは変わらなかった。


「この前、あたしが喋ったのか聞いた時、言わなかったやつ?」


「うん」


「何で」


 エマはすぐには答えられなかった。


 ニカの靴が、道の小石を蹴った。


「……嫌でしょ。今、そんな話」


「嫌だよ」


 まっすぐ返ってきた。


 エマの胸が縮んだ。


 ニカは続けなかった。


 だからエマも、そのまま黙ってしまいそうになった。


 けれど、それでは今日も同じだった。


「私、話してて楽しかったんだよ。あの日」


 ニカの足が止まった。


 エマも止まった。


「それで、お祭りも、ちょっと行ってみたいって思ってた。でもレオたちがあんなふうに戻ってきて、相手がガルドだって聞いて……」


 うまくまとまらなかった。


 先に結論を決めてから話したかった。


 嫌いになったと言えるなら、簡単だった。


 好きなのだと言い切れるなら、まだ話しようがあった。


 どちらも言えなかった。


「今日も、会うかもしれないって思ってた」


 エマは言った。


「付き添いって言いながら」


 ニカの目が細くなった。


「それで、一緒に来たの?」


「それだけじゃない」


 そこは、すぐに答えた。


「あんたが一人で行くの、心配だった。一緒に来てって言ってくれたから、来たかった。でも、ガルドに会うかもしれないって思ったのも、本当」


 ニカはエマを見ていた。


 その視線を受けながら、エマは待った。


「……先に言ってよ」


「言ったら、一人で行くって言われるかと思った」


「言ったかもね」


 エマが唇を噛んだ。


 ニカも、少し困ったような顔をした。


「今、あいつのこと聞いて、よかったじゃんって言えないよ」


「それを言ってほしくて話したんじゃない」


 声が強くなった。


 ニカが眉を寄せる。


 エマは一度、息を吸った。


「……ごめん。でも、隠してるの、嫌になったの。ニカと喋るたびに、そこだけ避けてるの」


 ニカはポケットから手を出した。


 何か言おうとして、やめる。


 それから、聞いた。


「好きなの?」


 エマは目を伏せた。


「まだ、わかんない」


「そっか」


「でも、また話したいとは思ってた」


 ニカは、小さく頷いた。


 すぐに何かを許してくれたわけではなかった。


 機嫌も戻っていなかった。


 しばらく、二人の間を荷車の音だけが通っていった。


「……あたし、あいつらのことはまだむかつくからね」


 ニカが言った。


「うん」


「今日、金払ったからって、別に」


「わかってる」


 エマは答えた。


 ニカはそれを聞いて、ようやく歩き出した。


 今度は、エマが半歩遅れてついていった。


     *


 橋へ向かう途中に、小さな道具屋があった。


 ニカは、その前で足を止めた。


 窓の中に、菓子用の型や、小さな鍋が並んでいる。


 銀色の口金もあった。


 数種類をひと組にして、布の上へ置いてある。


「あれ」


 ニカが指した。


 エマは横に並んだ。


「欲しかったやつ?」


「うん」


 値札を見る。


 ニカは、もう財布を出さなかった。


「あれで花みたいに絞ってさ。真ん中に苺乗せたら、絶対かわいいと思うんだよね」


「うん」


「大きいのじゃなくて、小さいやつ。三つくらい、箱に入るやつ」


 エマは窓に近づいた。


 ニカの指している口金を、もう一度見た。


「食べたい」


「まだ作れないって」


「できたら」


 ニカはしばらく黙っていた。


 それから、鼻で小さく息を吐いた。


「最初の、味見してよ」


「うん」


「甘すぎたら、甘すぎるって言って」


「言うよ」


「友達だからって、全部うまいとか言わないでね。売れるようにしたいんだから」


 エマはニカを見た。


 ニカは口金を見ていた。


 さっきまでとは違う目だった。


 欲しいものが、ちゃんと先にある目だった。


「ちゃんと言う」


 エマが答えると、ニカは頷いた。


「じゃあ、もうちょい待ってて」


 窓から離れる。


 歩き出したところで、ニカが小さく息を止めた。


 片手が脇腹へ行く。


「ニカ?」


「……歩きすぎた」


「少し座る?」


「橋まで行けば、腰掛けるとこある」


 ニカは二歩進んで、立ち止まった。


 それから、エマの方へ手を出した。


「腕、ちょっと貸して」


 エマは鞄を反対側へ持ち替えた。


 差し出した腕に、ニカが掴まる。


 思ったより、体重がかかった。


「ゆっくりね」


「わかってる」


 二人で歩き出す。


 ニカのポケットから、折り畳んだ紙の端が覗いていた。


 エマはそこを見て、何も言わずに前を向いた。


「エマ」


「何?」


「口金、買う時も付き合ってよ」


「うん」


「今度は、最初からそういう用事で」


 エマは少しだけ顔を伏せた。


「……うん」


 ニカは腕を離さなかった。


 エマも急がなかった。


 橋詰の白い壁が見えてくるまで、二人は同じ速さで歩いた。


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