第18話 勝った奴ら
「だから、最初にこっちを計算するんです」
「さっきは向こうからやったじゃねえか」
「さっきとは式が違います」
「似たような顔してんだろ」
「式の顔で解くなよ」
横から口を挟んだダンのノートを、ミロが覗いた。
「ダン先輩も間違ってます」
「俺の顔を見るな」
「式を見てます」
窓際で、トマが鼻を鳴らした。
放課後の教室には、もう四人しか残っていなかった。
西日が机を斜めに照らしている。運動場から上がる掛け声が、開いた窓を通って聞こえてきた。
レオは頬杖をつきかけて、やめた。腫れたところに指が触れたのだ。
何事もなかったように鉛筆を持ち直す。
ミロはそこには触れず、さっき書いた途中式を指した。
「ここからなら合ってます。次を一つずつやってみてください」
「……おう」
隣ではダンが、消しゴムのかすを細長く固めていた。
「ダン先輩」
「聞いてる。ものすごく聞いてる」
「じゃあ、これを」
「いま大事なとこなんだよ。首がつながりそう」
「そいつにもやらせろよ。二人で考えろ」
レオが言うと、ダンは消しかすの人形をノートの上に立てた。
すぐ倒れた。
「こいつ、もう駄目だ」
ミロが小さく吹き出した。
トマは窓辺から離れ、机に置いていた紙を畳んだ。昼休みに描いていたベンチの図だった。
「終わったら、水門寄るぞ」
鉛筆の先が止まった。
レオは顔を上げた。
「……何しに」
「木、見てくる。割れたとこ以外も傷んでるかもしれねえ」
「ああ」
「持って帰れる分は持って帰る」
レオはトマの手を見た。
包帯の端から出た指が、畳んだ紙を挟んでいる。
「俺も行く」
「その一問終わらせろ」
「わかってるよ」
レオはノートに目を戻した。
次に鉛筆を止めるまで、しばらくかかった。
「……ミロ」
「はい」
「ここ、もう一回」
ミロが椅子を寄せた。
*
「ガルド! 聞いたぞ!」
鉄門の第二実習棟前では、ガルドが背中を叩かれていた。
一人に叩かれ、振り返ると別の一人に肩を組まれる。三年も一年も混じっていた。
「鳴鐘のレオ倒したんだってな!」
「おう」
「一人で全員潰したって?」
「誰がそんなこと言った」
ガルドが笑った。
「俺がやったのはレオだけだ。他にもいたぞ」
「でも、お前が来て終わらせたんだろ?」
「終わったのは、あいつが立たなくなってからだ」
「どっちでもすげえじゃねえか!」
また背中を叩かれた。
「いてえっつってんだろ!」
「勝った奴が何言ってんだ!」
「勝ってもいてえんだよ!」
笑い声が上がった。
少し離れた作業台に、バッシュが腰を預けていた。
腕を組むと脇腹が痛んだので、片方の手だけを腰に当てている。
ガルドの周りにいた一年が、こちらを見つけた。
「バッシュ先輩もいたんすよね?」
「ああ」
「ガルド先輩が来るまで、鳴鐘止めてたって」
バッシュの眉が動いた。
「俺が先にやり合ってたんだよ」
「ですよね! そこにガルド先輩が来たんすよね!」
「……まあな」
一年はそれで納得して、また人垣に戻っていった。
バッシュは舌で口の内側に触れた。
切れたところが、まだ少しざらついていた。
「人気者、二名」
エルンが実習棟から出てきた。
右手に紙切れ。左の肩には長い板を担いでいる。
「暇なら持て。片方に寄って肩が死ぬ」
「おう、来たか」
ガルドが人垣を抜けた。
エルンの肩から板を二枚抜き取る。持ち上げた拍子に、わずかに息が詰まった。
バッシュはそれを見た。
ガルドはもう喋っていた。
「残りは?」
「中。角材と金具。金具は袋にまとめてある」
「何作るんだ?」
周りの一人が尋ねた。
「ベンチの材料だ」
「どこの」
「水門」
少し、間が空いた。
「……鳴鐘の?」
「俺がぶつけたやつだ」
バッシュが言った。
作業台から身体を離し、エルンの横を通る。
「残り持ってくる」
「え、でも勝ったんすよね?」
後ろから声が飛んだ。
バッシュは振り返った。
「それで板がくっつくのかよ」
返事を待たずに実習棟へ入った。
奥では、ポルが新しい串に肉を刺していた。
傍らには切り分けた野菜が並び、焼き台はまだ火を入れずに置かれている。その下にラグが半身を潜り込ませていた。
「足元、踏むなよ」
「出しとくなよ、そんなとこに」
「俺が入る前にお前が通れ」
「無茶言ってんな」
ラグの靴をまたぎ、バッシュは壁際の角材を拾った。
両腕でまとめて持とうとして、動きを止める。
脇腹に、あの日の痛みが戻ってきたようだった。
一度下ろす。
二本ずつに分けた。
ポルが顔を上げた。
「水門ですか」
「ああ」
「これも、お願いします」
差し出されたのは、折り畳んだ紙だった。
肉屋と八百屋の値段が、几帳面な字で書いてある。
「エルン先輩に言われたやつです。落ちた分だけ」
「全部書いたか」
「香辛料は、使った分がはっきりわからなかったので」
「適当に安くすんなよ」
「してません」
思ったよりはっきり返ってきた。
バッシュは紙を受け取った。
ポルはもう一本、串に肉を通した。今度の肉は、前より少し大きく切ってあった。
「今日はここで焼くんだな」
「はい。三十本だけです」
「少ねえな」
「少なくして、一回ちゃんと焼きます」
手を止めずに、ポルが答えた。
「まだ、一本も食べてもらってないので」
焼き台の下で、金具の音が止まった。
「おい、エルン!」
ラグが外へ怒鳴った。
「これ、火入れる前にもう一回締めるぞ! 戻ったら呼べ!」
外から、了解、と返事がした。
バッシュは角材を脇に抱え直した。
「俺の分、残しとけよ」
「残します」
「ガルドに食わすな」
「聞こえてんぞ!」
外から、別の声が返ってきた。
*
水門の広場は静かだった。
昼間の熱が残った石畳の上を、川から来た風が通り抜けていく。
壊れたベンチは、まだ同じ場所にあった。
座面が片側に傾き、その上に割れた横木が揃えて置かれていた。
ガルドは新しい板を下ろした。
「ここでいいか」
「地面に直に置くな。下にこれ」
エルンが短い端材を二本並べる。
その上へ、三人で材料を積んだ。
バッシュは最後の角材を置き、腰を伸ばした。
すぐ近くの石畳に、靴底で擦ったような黒い跡があった。
どこで投げられたのかは、正確にはわからなかった。
あれだけひっくり返された感触は、まだ身体に残っている。
背中から落ちた。
息が止まった。
その瞬間、負ける、と思った。
そこから起きて、殴って、掴まれて、また殴った。
最後に座り込んでいたのは、向こうだった。
バッシュは無意識に拳を握った。
「おい」
エルンが手を差し出していた。
「紙」
「ああ」
ポルから預かった紙を渡す。
エルンはそれをもう一枚の紙と重ね、文字を書き足した。風で飛ばないよう、金具の袋に紐で結ぶ。
ガルドが横から覗いた。
「なんて書いた」
「材料は置いた。串肉の材料代はこの額。あとは明細」
「喧嘩の果たし状みてえに書くなよ」
「お前に書かせたらそうなるだろ」
「なるな」
ガルドが笑った。
バッシュは笑わずに、壊れたベンチを見ていた。
横木に、小さな金属の頭が覗いていた。
釘だった。
曲がったまま、叩き込まれている。
あのドワーフが、割れ目より先にそこを見ていたことを思い出した。
折れた木を拾っていた時の顔も。
「……こっちの金、払うと思うか」
バッシュが聞いた。
「本人に見せりゃいい」
ガルドは答えた。
「角のある女だろ。落としたって自分で言ってたじゃねえか」
「ああ」
「払わねえってんなら、そん時また来る」
「お前、何でも自分で来んなよ」
「俺が来ちゃ悪いのか」
「そういう話じゃねえ」
ガルドが首を傾げた。
その向こうで、荷車が橋を渡ってきた。
若い荷運びの男が二人、こちらを見て声を上げた。
「おい、ガルド!」
ガルドが片手を上げる。
「よう!」
「派手にやったらしいな! 鳴鐘まとめてひっくり返したって?」
「まとめてじゃねえよ」
「またまた。そいつらもお前の子分か?」
片方の男が、エルンとバッシュを順に指した。
「ちげえよ」
バッシュの声が低くなった。
男は笑ったままだった。
「悪い悪い。仲間な、仲間」
「バッシュだ」
「ん?」
「俺の名前」
男が瞬きをした。
バッシュはまっすぐ見返した。
ガルドが口を開いた。
「こいつも勝ってんだよ。鳴鐘の――」
「俺が話してんだろ」
ガルドが止まった。
川の音が、一瞬近くなった。
荷運びの男が、困ったように笑う。
「……おう。覚えとくわ」
荷車が動き出した。
車輪が石畳の継ぎ目を越える音を、三人は黙って聞いた。
橋の上まで行ったところで、男たちの話し声が戻ってきた。
もう、別の話をしていた。
ガルドがバッシュを見た。
「俺、変なこと言ったか?」
「別に」
「お前も勝ったっつっただけだぞ」
「聞こえてたよ」
バッシュは空になった手を制服のポケットへ突っ込んだ。
腹の底に、妙な苛立ちがあった。
ガルドは、ちゃんと言った。
自分一人じゃないと。
バッシュも勝ったと。
それでも、ガルドが言ってやらなければ、誰にも伝わらない。
それが、気に食わなかった。
「戻るぞ」
エルンが立ち上がった。
「ポルが待ってる。ここで冷えた肉の話をするより、あっちで焼けた肉を食いたい」
「……おう」
バッシュは先に歩き出した。
坂を上りかけて、一度だけ振り向いた。
傾いたベンチ。
その前で、膝に手をついて立っていたトマの姿を思い出す。
――俺の負けだ。
あいつは、バッシュを見て言った。
ガルドではなかった。
そのことを思い出したら、少しだけ息が通った。
それでもまだ、胸の奥はむかついていた。
*
「遅えぞ。焦げる」
第二実習棟へ戻ると、ラグが焼き台の前に立っていた。
ポルが真剣な顔で串を返している。
仕組みの試運転を兼ねているらしく、エルンが作った軸は、ごくゆっくり回っていた。ところどころで動きが渋くなり、そのたびにポルが手を添える。
「焦げてません。まだです」
「さっき一本黒かったぞ」
「あれは、僕が食べます」
「俺が食った」
ポルがラグを見た。
「……どうでした」
「黒かった」
「それは知ってます」
ガルドが笑った。
焼き台を覗き込み、串へ伸ばした手をポルに止められる。
「そっちはまだです。右の端から」
「おう」
「熱いです」
「わかっ、あっつ!」
「言いました!」
また笑い声が起きた。
バッシュは作業台に腰を下ろした。
ポルが一本、皿に載せて持ってきた。
焼き目のついた肉と、脂を吸って色の変わった野菜が交互に並んでいる。
噛むと、口の中に熱い汁が広がった。
傷にしみた。
それでも、二口目を食った。
「どうですか」
「うまい」
ポルの肩が下がった。
ずっと、上がっていたらしかった。
「でも、これ祭りで出すんなら、もうちょい小さくてもいいんじゃねえか」
「小さいですか?」
「逆。口に入んねえ」
「ガルド先輩は一口でした」
「あいつで測んな」
ポルが、自分の手元の串を見た。
「……あ」
「気づけよ」
バッシュはもう一口かじった。
ポルはそばにあった紙へ、何かを書き足しに行った。
代わりに、ラグが隣に座った。
長い脚を伸ばし、片方の踵を石の縁に引っ掛ける。
「まだ食うのかよ」
バッシュが言った。
「俺は直した」
「俺は運んだ」
「じゃあ二人とも食っていいな」
ラグは皿から一本取った。
しばらく、二人で黙って食った。
少し離れたところで、ガルドが何かを大げさに話していた。途中で誰かが口を挟む。ガルドがそいつを指さして言い返すと、周りがまた笑った。
「何見てんだ」
ラグが聞いた。
「別に」
「さっきから三回くらい睨んでんぞ」
「数えんな」
ラグは鼻で笑った。
バッシュが串を皿へ置いた。
「……俺、鳴鐘の奴に勝ったんだけどな」
「ああ。聞いた」
「なのに、どこ行ってもあいつの話だ」
「そりゃ、あいつが鳴鐘のレオとやったからだろ」
「わかってんだよ」
思ったより、声が大きくなった。
ポルがこちらを見た。
バッシュは口を閉じた。
ラグは肉を噛んでいた。
ゆっくり飲み込んでから、言った。
「お前、こっち向け」
「あ?」
「ガルドばっか見てるけどよ」
ラグが皿を置いた。
「俺には勝ってねえぞ」
バッシュの目が動いた。
ラグは笑っていなかった。
ガルドに負けた男が、隣に座っていた。
あの日、土場で倒れた。
立てなかった。
それでも、こうして座っていると、でかかった。
「鳴鐘で一つ勝って、それで俺の上に行ったつもりか?」
「そんなこと言ってねえだろ」
「だったら、まだ俺も見とけ」
ラグが立ち上がった。
空いた皿を二枚、まとめて持つ。
「包帯が取れたら来い。西の土場」
バッシュが顎を上げた。
「泣くなよ、三年」
「お前こそ、また身体でけえのに転がされんなよ」
「今度は起き上がらせねえ」
ラグの口の端が上がった。
「やってみろ」
食器を持って歩いていく背中を、バッシュは睨んだ。
あっちには、ガルドがいた。
こっちには、ラグがいた。
二人とも、自分より偉そうな顔をしていた。
腹が立った。
さっきまでとは、少し違う腹の立ち方だった。
「バッシュ先輩」
ポルが戻ってきた。
「もう一本、食べますか」
「食う」
バッシュは手を伸ばした。
「で、今日の足の動き。あとで一回見せろ」
「いいんですか」
「見てるだけだ。俺はまだ動かねえ」
「はい」
「前みたいに目ぇつぶんなよ」
「足の練習で目はつぶりませんよ」
「お前、たまに何もなくてもつぶってるだろ」
ポルが少し考えた。
「……力を入れると」
「そこから直すぞ」
バッシュは串にかぶりついた。
*
「……来てたんだな」
水門へ下りたレオが、足を止めた。
壊れたベンチの横に、新しい木材が積まれていた。
エルンが掛けていった覆いの端が、川風に揺れている。
トマはしゃがみ込み、板の木口を確かめた。
指の腹をそっと滑らせる。
「どうだ」
レオが聞いた。
「使える」
「そっか」
「……いい材、持って来やがった」
その言い方が少し不機嫌だったので、ダンが覗き込んだ。
「いいならいいだろ」
「いいから腹立つんだろ」
「職人って面倒くせえな」
ミロが金具の袋についた紙を見つけた。
「これ、手紙です」
ダンが横から読む。
「……肉代?」
空気が一度、止まった。
レオの目が細くなる。
トマは紙を受け取った。
短い文章を読み、次に明細を見た。
「ニカに見せる」
「おう」
レオは、少し遅れて答えた。
あの日のことが、途中からしか浮かばなかった。
着いた時には、もう喧嘩になっていた。
ニカが殴られていて。
ダンがいて。
トマが、壊れた木を拾っていた。
その前にも、こいつらの間ではいろいろあったのだ。
レオが来る前から。
「今日は直すんですか」
ミロが尋ねた。
トマは包帯を巻いた手を見た。
「……まだ無理だ」
言って、立ち上がった。
「割れた方だけ持って帰る。寸法取るのに使う」
「僕、持ちます」
「長いぞ」
「ダン先輩、そっちお願いします」
「はいよ」
二人で、割れた横木を持ち上げた。
レオも手を出しかけた。
けれど、持つ場所はもうなかった。
手が、途中で止まる。
「レオ」
トマが呼んだ。
小さな袋が差し出されていた。
金具だった。
「これ。底、抜けそうだから下から持て」
「……おう」
レオは両手で受け取った。
袋の中で、釘と金具が触れ合った。
軽かった。
軽いものしか持たされなかったことが、少し悔しかった。
それを顔に出しそうになって、レオはトマを見た。
トマも、何も持っていなかった。
道具を使えない手を下ろし、ダンとミロに木の向きを指示している。
「そっち、尖ってる。身体に向けんな」
「はい」
「ダン、遊ぶな」
「槍じゃねえって。構えてねえって」
「構えてたろ」
レオは袋を抱え直した。
広場の真ん中に、何もない場所があった。
自分が倒れていたのは、たぶん、あの辺りだ。
石畳を見ているうちに、腹の奥が冷たくなった。
あいつは、ここから普通に歩いて帰った。
自分は、トマに背負われた。
「レオ、行くぞ」
声がした。
坂の下で、三人が待っていた。
「……おう」
レオは歩き出した。
坂は、思っていたより急だった。
途中で息が詰まり、少し足を緩める。
前を歩くトマも、同じくらいの速さになった。
どちらも、それについては何も言わなかった。
レオの腕の中で、金具が小さく鳴った。




