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激情のディソナンス  作者: 白瀬余白


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第17話 何でもねえよ

 レオが学校へ戻るより先に、噂が戻っていた。


「鉄門とやったんだって?」


「水門のとこで。見た奴がいる」


「二十人くらいに囲まれたって聞いたぞ」


「いや、頭同士でやって負けたんだろ」


 鳴鐘学園の朝は、いつもどおりうるさかった。


 階段でも、廊下でも、同じ名前が聞こえた。


 レオ。

 鉄門。

 ガルド。


 ミロが教室へ入ると、近くにいた生徒が顔を上げた。


「あ、お前もいたんだろ?」


 ミロは鞄を机へ置いた。


「……うん」


「魔法使われたって、本当?」


「使ってない」


 すぐに答えた。


 聞いた方が、少し拍子抜けした顔になる。


「そうなの?」


「素手だったよ。レオ先輩は、ガルドって人と、一対一で」


「じゃあ、普通に負けたのか」


 ミロの指が、鞄の紐を握った。


 言い方が嫌だった。


 普通に、という言葉が。


 けれど、負けたことは嘘にできなかった。


「……負けたよ」


 答えると、別の生徒が身を乗り出した。


「最後、ドワーフの奴に担がれてたって」


「トマ先輩」


「ああ、その人。そんなにやられたの?」


 ミロの目の前に、レオの顔が浮かんだ。


 地面へ手をついて、立とうとしていた。


 何度、力を入れても、上がらなかった。


 隣にいた生徒が、軽く笑った。


「レオって、もっとすげえのかと思ってた」


 ミロが顔を上げた。


 相手は、何気なく言っただけのようだった。


 それが、余計に嫌だった。


「……来てくれたんだよ」


「え?」


「僕が呼んだら、すぐに」


 声が少し大きくなった。


「トマ先輩も。一緒に」


 教室の中で、何人かがこちらを見た。


 ミロの耳が熱くなる。


 勝ったか負けたかの話をしている。

 そんなことは、分かっていた。


 それでも、そこを抜かして話されたくなかった。


「何で怒ってんだよ。別に――」


「ミロ」


 隣の席から、ニールがノートを差し出した。


「昨日借りたやつ。ありがと」


 ミロは口を閉じた。


 ノートを受け取る。


 ちょうど、予鈴が鳴った。


 集まっていた生徒たちが、それぞれの席へ戻っていく。


 誰かがまだ、鉄門の話をしていた。


 ミロはノートを机の中へしまった。


 手のひらに、鞄の紐の跡が残っていた。


     *


 その日の放課後、トマたちは約束どおり、橋詰治療院へ寄った。


 レオはもう、自分の上着に着替えていた。


 椅子に腰をかけ、靴を履こうとしている。


「おせえぞ」


 顔を上げるなり、言った。


 ダンが足を止める。


「俺ら、学校行ってたんですけど」


「知ってるよ」


「お前と違って、忙しいの」


「寝てただけみてえに言うな」


 レオが笑った。


 いつもの声だった。


 少し、大きすぎるくらいの。


 ニカが腕を組む。


「帰っていいって?」


「おう。もう平気だってよ」


「平気とは言っていません」


 奥から師匠の声がした。


 レオの口が止まる。


 ダンが、少しだけ吹き出した。


 レオがにらむ。


「細けえな」


「細かくねえだろ」


 レオは靴へ向き直った。


 身体をかがめたところで、息が止まる。


 ほんの一瞬だった。


 そのあと、何もなかったように紐を引いた。


 トマは見ていた。


 見ていたが、その場では何も言わなかった。


 母親が手続きを済ませて戻ってくるまで、レオは何度も笑った。


 昨日の飯が薄味だったとか。

 寝台の脚が短くて、足が落ちそうだったとか。


 どうでもいい話ばかりだった。


 ダンも、できるだけいつもの調子で返した。


 ミロは、レオが立つときだけ、少し近くへ寄った。


 レオはそのたびに言った。


「何でもねえよ」


     *


 レオが鳴鐘へ登校したのは、その翌朝だった。


 校門をくぐったところで、何人もの顔がこちらを向いた。


 見られている。


 それは、前にもあった。


 北校舎の三年を倒したあと。

 廊下で名前を呼ばれるようになったころ。


 けれど、今日は違った。


 視線が、まず顔へ来る。


 残っている腫れを見て。

 腕の包帯を見て。


 それから、隣の奴へ何かを囁く。


「お、本人来た」


「今日も休むのかと思ってた」


 レオは片手を上げた。


「いつまでも寝てらんねえだろ」


「大丈夫かよ、その顔」


「見学料取るぞ」


 何人かが笑った。


 レオも笑った。


 自分から笑えば、少しだけ楽だった。


「鉄門、魔法使ったんだろ?」


 同級生の一人が言った。


 レオの笑いが、少し止まる。


「使ってねえよ」


「え?」


「素手。タイマン」


 相手が目を瞬かせた。


「それで負けたの?」


「負けたよ」


 レオは、わざと大きく肩をすくめた。


「次、勝ちゃいいだけだろ」


「またやんのか?」


「当たり前だろ」


 言ってから、口の中が乾いた。


 次。


 次は勝つ。


 どうやって、というところは、まだ何もなかった。


 昨夜、何度もガルドの拳を思い出した。


 見えていた。

 打ち返した。

 自分の拳も当たった。


 そこから先へ、考えが進まなかった。


「頼むぜ。鳴鐘、ナメられちまうじゃん」


 誰かが言った。


 レオは、にっと笑った。


「任せとけって」


「レオ」


 後ろからトマの声がした。


 振り向く。


 トマも、まだ包帯を巻いていた。


「鐘鳴るぞ」


「おう」


 レオが歩き出す。


 トマが隣へ並んだ。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 階段の前で、レオが口を開く。


「何だよ」


「何が」


「さっきから、何か言いたそうじゃねえか」


 トマはレオの顔を見た。


「階段、ゆっくり上がれよ」


「何でもねえって」


「そうか」


 トマはそれ以上、言わなかった。


 ただ、先へは行かなかった。


     *


 昼休み、屋上には風が吹いていた。


 ダンがいつもの場所へ座り、弁当を開ける。


 トマは小さな紙を膝に置いていた。

 鉛筆で、何本か線を引いている。


 レオがのぞき込んだ。


「何それ」


「ベンチ」


 紙には、脚と横木の形が描かれていた。


 レオの目が止まる。


「直すのか」


「手が使えるようになったらな。脚、古い方も替える」


 トマは線を一本、引き直した。


「今度は、こっちにも木を入れる」


 レオはしばらく紙を見ていた。


「……俺が先に、ガルドやっとくから」


 トマの鉛筆が止まった。


「何の話だ」


「だから。あそこ、また使えるようにしてやるって」


「直す段取りの話してんだよ」


「分かってるよ」


 レオが隣へ座る。


 弁当箱を置いた。


 布の結び目へ指をかける。

 包帯の厚みが邪魔で、うまくつまめなかった。


 一度、手を離す。


 また、つまむ。


 ダンがこちらを見た。


「そういや、お前の飛距離、伸びてるぞ」


「あ?」


「噂。今朝は、水門から橋の上まで飛ばされたことになってた」


 レオが鼻で笑った。


「飛びすぎだろ」


「だろ? そのうち川越えるぞ」


「どこまで行くんだよ、俺」


 ダンも笑った。


 少しだけ、いつもの空気に戻った気がした。


 だから、続けた。


「そこまで飛べたら、飛行魔法の単位もらえんじゃねえの」


 ダンが背筋を伸ばす。


 算術の教師に似せて、顎を引いた。


「アーデン君は、着地に大きな課題が――」


「やめろ」


 レオが言った。


 ダンの口が、半端に開いたまま止まる。


「……ん?」


「面白くねえ」


 風が、紙の端をめくった。


 トマが手で押さえる。


 ダンは姿勢を戻した。


「悪い。今のは」


「お前、見てたろ」


 レオが顔を上げた。


「どうなったか、見てたくせに」


 ダンの表情が変わった。


「見てたよ」


「じゃあ、何で笑えんだよ」


 少し離れたところで、屋上の扉が開いた。


 ミロが入ってくる。


 声をかけようとして、足を止めた。


 ダンが弁当箱を膝から下ろした。


「……面白がってるわけじゃねえだろ」


「笑ってんじゃねえか」


「さっきまで、お前も笑ってただろ」


 レオが口を閉じた。


 ダンはその顔を見た。


 声を落とす。


「嫌なら、嫌って言えよ。やめるから」


「だから、言っただろ」


「そのあとだよ」


 ダンが言った。


「俺が何も考えず笑ってたみてえに言うなよ」


 レオの目が、わずかに動いた。


 ダンの口元にも、まだ傷があった。


 あの日、同じ場所にいた。


 それは、分かっていた。


 分かっているのに、腹の中の熱が引かなかった。


「……別に」


 出てきたのは、それだけだった。


 ダンは少し待った。


 それから立ち上がった。


「水、買ってくる」


 弁当箱は、その場へ置いたままだった。


 ミロとすれ違い、扉の向こうへ消える。


 閉まる音がした。


 レオは布の結び目を引いた。


 ほどけなかった。


     *


「……何だよ、あいつ」


 レオが呟いた。


 トマは答えなかった。


「こっちは、負けたんだぞ」


「知ってる」


「分かってねえだろ。あんな――」


「俺も負けた」


 トマが言った。


 レオが横を向く。


 トマは鉛筆を紙の上へ置いた。


「バッシュに」


「……分かってるよ」


「分かってねえみてえだから、言ってる」


 レオの眉が寄った。


「何だよ、それ」


 トマが、自分の手を見せた。


 包帯を巻いた指。


「これ、店の棚直して、怪我したんじゃねえからな」


 レオは何も言えなかった。


 トマは手を下ろした。


「俺だって、あいつに勝つつもりでやった」


 声は静かだった。


 あの日、治療院で話していたときと同じように。


「投げたら、立った。殴っても、来た。最後、立てなかったのは俺だ」


 レオが視線を落とす。


「……俺がガルドに勝ってりゃ」


「それでも、俺の負けだろ」


 すぐに返ってきた。


 レオの口が止まった。


 トマは、ベンチの図を折った。


「お前が次にガルドを倒しても、俺がバッシュに負けたのはなくならねえよ」


 折った紙を、胸のポケットへ入れる。


「俺の喧嘩まで、お前の勝ち負けに入れんな」


 レオはトマを見た。


 トマも、見返していた。


 慰めている顔ではなかった。


 怒っていた。


 レオに対してだけではない。


 まだ、あの石畳に膝をついたところから、うまく動けずにいる顔だった。


 レオは口を開いた。


「……そんなつもりじゃ」


「だったら、言うな」


 トマが弁当を取った。


 片手で蓋をずらす。


 その動きが少し遅かった。


 レオは、そこを見ていた。


 自分のことばかりで、さっきまで気づかなかった。


 何か言わなければと思った。


 けれど、言葉が出てこなかった。


     *


 ミロが、少し離れたところへ座った。


 鞄から弁当とノートを出す。


 レオがそちらを見た。


「……何だよ」


「いえ」


「聞いてたんだろ」


「途中から」


 ミロは、ごまかさなかった。


 レオが顔をそらす。


 ミロはノートを開いた。

 角の折れたページを伸ばす。


 それから、レオを見た。


「昨日、一年の教室でも、噂になってました」


「もういいよ、その話」


「はい」


 ミロが黙る。


 レオは風の吹いてくる方を見た。


 校舎の下から、笑い声が聞こえた。


 自分の話をしているわけではない。


 そう分かっていても、耳がそちらへ向いた。


「……何て言われてんだよ」


 自分から聞いてしまった。


 ミロが顔を上げる。


 少し迷ってから、答えた。


「たくさんの相手に囲まれたとか。魔法を使われたとか」


「使われてねえよ」


「そう言いました」


 レオがミロを見る。


「一対一だったって。先輩が負けたことも、言いました」


「……おう」


 ミロの指が、ノートの端を押さえた。


「でも、笑われたのは、嫌でした」


 レオの目が少し動いた。


「だから、来てくれたんだって言いました。僕が呼んだら、すぐに」


 ミロはトマも見た。


「二人とも」


 レオは、何も言わなかった。


 ミロも、それ以上は続けなかった。


 風が吹く。


 開いたノートが、二枚ほどめくれた。


 ミロが慌てて押さえる。


 その下に、数日前にやっていた計算の続きが見えた。


「……まだ持ってたのか、それ」


 レオが言った。


「途中だったので」


「もう捨てていいだろ」


「提出、明日ですよ」


 レオはノートを見た。


 それから、ミロの顔を見る。


「今、そっちの話すんのか」


「すみません。でも、明日です」


 レオの口元が、少しだけ動いた。


 笑った、というほどではなかった。


 けれど、朝から何度も作っていた顔とは違った。


「……お前、そういうとこあるよな」


「解き方、忘れてませんか」


「忘れた」


「じゃあ、最初からですね」


 トマが小さく鼻を鳴らした。


 レオがにらむ。


「お前は黙ってろ」


「今度は俺か」


「違えよ」


 声を返してから、レオは口を閉じた。


 違う。


 今のは、本当に。


 さっきダンに向けた声と、同じつもりではなかった。


 その違いが、自分でも少し怖かった。


     *


 扉が開いた。


 ダンが戻ってきた。


 水の入った小瓶を一本、持っている。


 レオは顔を上げた。


 ダンは弁当のところまで来ると、空いていた場所へ座った。


 蓋を開ける。


 何も言わずに、パンをちぎった。


「……ダン」


 レオが呼んだ。


「何」


 返事は、少し硬かった。


 レオは布の結び目を見た。


 何でもねえ、と言えば、また同じになる。


 そう思った。


「さっき、悪かった」


 ダンの手が止まった。


 レオは続けようとした。


 口を開く。


 けれど、うまく言えなかった。


 笑っていたのは自分もだった。


 次に勝てばいいと、自分で言った。


 大したことはないと。

 平気だと。


 その顔に合わせて喋っていたダンへ、腹を立てた。


「……お前に言うことじゃなかった」


 ようやく、それだけ出た。


 ダンは少し黙っていた。


「俺も、あの冗談は悪かったよ」


 パンを膝へ置く。


「いつもの調子でいけるかと思った」


 レオがうつむく。


「……おう」


「無理なら、無理って言えよ」


 ダンが言った。


「いきなり噛みつかれると、こっちも腹立つから」


「分かった」


 ダンはうなずいた。


 また、パンを食べ始める。


 肩を組むことも、背中を叩くこともしなかった。


 レオも、その方がよかった。


 少ししてから、弁当箱へ手を戻す。


 指を結び目へかける。


 まだ、うまくつまめなかった。


 力を入れようとして、痛みが走る。


 レオは手を止めた。


「……ミロ」


「はい」


「これ、ほどいてくれ」


 弁当箱を差し出す。


 ミロは受け取った。


 結び目を確かめてから、布の端を引く。


 すぐに、ほどけた。


「どうぞ」


「おう」


 レオは蓋を開けた。


 いつもと同じ、アーデン食堂の弁当だった。


 いつもより少し、軟らかいものが多かった。


 箸を取る。


 一口食べた。


 ダンがノートをのぞき込む。


「先生。俺もまだ、その問題終わってないんですけど」


「ダン先輩もですか」


「お前、俺なら終わってると思った?」


「……少し」


「買いかぶるなよ」


「威張んな」


 トマが言った。


 ダンが笑う。


 レオも、少し笑った。


 腹が痛んだ。


 顔をしかめる。


 今度は、何でもねえとは言わなかった。


     *


 昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。


 ノートをしまい、弁当箱を包む。


 ミロが先に立った。


「続き、放課後でも大丈夫です」


「まだやんのかよ」


「まだ終わってないので」


 ダンが笑いながら、ミロと扉へ向かった。


 レオは少し遅れて立とうとした。


 膝へ手を置く。


 その手を見た。


 ガルドを何発も殴った手だった。


 あのときも、拳は握れていた。

 前へ出ることもできた。


 それでも、負けた。


 今朝は、次に勝てばいいと簡単に言った。


 その次に、同じ拳がまた来たら。


 レオの指が、ゆっくり丸まった。


 途中で止まる。


「レオ」


 扉のところで、トマが待っていた。


「遅れるぞ」


 レオは顔を上げた。


 包帯の手を、開く。


「……おう」


 立ち上がる。


 笑った顔を作らずに、トマの方へ歩いた。


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