第16話 悔しいままで
入り口の鈴が鳴った。
「はい、どうぞ――」
顔を上げたエマの声が、途中で止まった。
トマが立っていた。
その背中に、レオがいた。
最初は、ふざけているのかと思った。
ダンが横から身体を支えているのも、レオが顔を伏せているのも、いつもの何かの続きに見えた。
けれど、トマの口元が赤かった。
ダンの唇も切れていた。
少し遅れて入ってきたニカが、片手で脇腹を押さえている。
レオの腕は、トマの肩から力なく下がっていた。
「師匠!」
エマは奥を振り返った。
椅子に膝をぶつけた。
痛みを確かめる暇もなく、診察室の扉を開ける。
「こっち。レオ、ここへ」
「どこに下ろす」
トマが聞いた。
声がかすれていた。
エマが診察台を指す。
師匠が出てきて、レオの身体を支えた。
「ゆっくり。頭をこちらへ」
ダンとトマが腕を外す。
レオが横になった。
目は開いていた。
エマを見る。
何か言おうとして、顔をしかめた。
「……よ」
いつものように言ったつもりらしかった。
エマは、返事ができなかった。
「レオ。こちらを見て」
師匠が顔をのぞき込む。
呼びかけへの返事を確かめ、傷を診ていく。
淡い光が、レオの身体の上をゆっくり動いた。
エマは言われたものを運んだ。
水。
清潔な布。
新しい包帯。
布を置く場所を一度間違え、持ち直す。
背後で、椅子が鳴った。
振り返ると、トマが座り込んでいた。
前へ折れた身体を、膝に置いた手で支えている。
「トマも?」
「……俺は、あとでいい」
ミロが、すぐに言った。
「トマ先輩も殴られてます。ずっと、レオ先輩を背負ってきたんです」
トマが顔を上げた。
ミロは目をそらさなかった。
「ニカ先輩も。さっきから、息を吸うと痛そうで」
「分かりました。みんな診ます」
師匠が答えた。
エマは、ニカを椅子へ座らせた。
触れると、制服の肩が汗で湿っていた。
「何があったの」
思ったより、小さな声になった。
ダンが壁に背をつけた。
唇をぬぐう。
「……鉄門と、やった」
いつもの冗談の続きはなかった。
*
レオの治療が進んでも、待合は静かなままだった。
誰かが息を吸う音。
布を水に浸す音。
たまに、奥から師匠の問いかけと、レオの短い返事が聞こえる。
エマはニカの口元を拭いた。
「ここ、しみると思う」
「もう、だいたいしみる」
「……そっか」
いつもなら、もう少し何か言えた。
今日は、言葉が見つからなかった。
ニカが、汚れた袖を見下ろす。
血とは違う、油の染みがついていた。
「ベンチ、壊れたんだよ」
エマの手が止まる。
「水門の?」
「鉄門が、機械持ってきて。降ろすとき、ぶつけて」
少し離れた椅子で、トマが手を握ろうとしていた。
指が曲がりきらない。
一度開いて、また曲げる。
エマはその手を見てから、ニカへ視線を戻した。
「それで、喧嘩に?」
「……あたしが、先に殴った」
ニカが言った。
エマを見る。
言い直すつもりのない目だった。
「向こうの料理も落とした。荷車、動かそうとして」
「料理?」
「串焼き。試しに焼きに来たんだってさ」
エマの胸の奥が、わずかに動いた。
串焼き。
回る機械。
来月の祭り。
「大きい一年が、拾ってた」
ニカは袖の染みを、親指でこすった。
「……食えなくなったと思う」
ダンが、隣で目を伏せた。
エマの頭に、別の声が戻ってきた。
料理がうめえんだよ、あいつ。
自慢するように言っていた。
自分のことより、ずっと嬉しそうに。
エマは布を持ち直した。
「そのあと、頭が来た」
ダンが言った。
「鉄門の。ガルドっての」
エマの指が止まった。
今度は、はっきりと。
「……ガルド?」
ニカが顔を上げる。
「知ってんの?」
「この前、ここに来たから」
返事をするまでに、少し間があった。
「手と、口を怪我してて。それで……話した」
ニカは、エマを見ていた。
エマは布へ目を落とした。
祭りに誘われたことは、言わなかった。
休めたら行きたいと思ったことも。
「レオをやったの、そいつだよ」
ニカが言った。
エマはうなずいた。
奥の診察室を見る。
レオの靴が、台の端から少し出ていた。
*
師匠がレオのそばを離れたのは、しばらくしてからだった。
エマが呼ばれる。
「口元の浅い傷を。ほかは、こちらで診ています」
「はい」
「今夜は奥の寝台で休んでもらいます。家の方にも伝えましょう」
待合から、ミロが立つ音がした。
「僕、食堂へ行ってきます」
レオが顔を動かした。
「……母ちゃんに?」
「はい」
「大げさに言うなよ」
ミロは扉の前で止まった。
少しだけ困った顔をした。
「見たとおり、言ってきます」
レオは何か言おうとした。
やめた。
ミロが出ていく。
鈴の音が、やけに大きく響いた。
エマは診察台のそばへ椅子を寄せた。
丸椅子が、床をこする。
数日前にも、同じ場所へ座った。
大きな身体の前で、口元の傷に手をかざした。
そのときは、じっとしていてと言うたびに、相手が笑いそうになっていた。
今、目の前にいるレオは、天井を見ていた。
「口、少しだけこっちに向けられる?」
レオが顔を動かす。
エマは傷を確かめた。
布を当てると、レオの眉が寄った。
「痛かったら言って」
「全部痛えよ」
「……うん」
それ以上、何も返せなかった。
指先に光を灯す。
傷に意識を向ける。
けれど、その向こうに、別の顔が浮かんだ。
頭になったと胸を張った顔。
友達に昼飯を分けてもらえなかったと、笑っていた顔。
包帯を巻いた大きな手。
あの手が、レオを殴った。
「エマ」
呼ばれて、顔を上げた。
「……何?」
「知ってんのか。ガルド」
聞こえていたらしかった。
エマはうなずいた。
「治療に来たの。この前」
「ふうん」
レオはまた、天井を見た。
「……ちょっと、びっくりした」
エマが言った。
「こんなことになると思ってなかったから」
「どんな奴だと思ってたんだよ」
責めるような声ではなかった。
けれど、答えにくかった。
エマは指先を見た。
「よく笑う人だと思った。学校の友達の話、いっぱいしてて」
レオが目を閉じた。
エマは言葉を止めた。
「……そりゃ、するだろ」
レオが言った。
「あっちにも、ダチがいるんだから」
エマは口を開いた。
「うん。だから――」
「今は、聞きたくねえ」
強い声ではなかった。
その分、はっきり聞こえた。
「お前が喋ったときの、そいつの話」
エマの指先が、わずかに下がった。
何も、かばおうとしたわけではない。
そう言いかけて、やめた。
自分でも、何を言おうとしていたのか分からなかった。
「……ごめん」
レオは返事をしなかった。
エマは一度、息を整えた。
今度は、目の前の傷を見た。
唇の端。
まだ血のにじむところ。
ゆっくり、光を重ねていく。
レオは動かなかった。
喋らなかった。
傷がつながったのを確かめて、エマは手を離した。
「ここは、終わったよ」
「……おう」
それだけだった。
痛くなくなったと笑うことも、すごいと驚くこともなかった。
レオは、顔を横へ向けた。
「俺さ」
エマが見る。
「勝てると思ってた」
声が低かった。
枕に、半分吸い込まれていた。
「最初に殴られたとき、すげえ重かった。でも、こっちのも当たったんだよ。何発も」
エマは黙って聞いた。
「だから、いけると思った」
レオの指が、敷かれた布をつかんだ。
「最後も、見えてたんだ」
少しだけ、布が寄る。
「来るの、分かってた」
言葉が途切れた。
エマは、何も言えなかった。
頑張ったんだね、も。
仕方なかったよ、も。
今のレオに言ったら、何かを取り上げてしまう気がした。
レオは顔を上げなかった。
「……負けた」
小さく、言った。
エマは手の中の布を見た。
さっき拭いた血が、赤く残っていた。
*
トマは、治療の終わった手を見ていた。
包帯を巻かれた指を、少し動かす。
「しばらく、力仕事は休むこと」
師匠が言った。
トマは顔を上げた。
「道具も?」
「今の手で、無理に握らないように」
トマの口が閉じた。
すぐに、うなずいた。
「……分かりました」
ダンが隣の椅子へ座った。
口元には、小さな当て布が貼られている。
「俺、あのバッシュって奴、倒れたとき、いけたと思った」
トマは手を見たまま、答えた。
「俺も」
「すぐ立ったな」
「ああ」
少し、間があった。
「ちゃんと投げたんだけどな」
トマが言った。
ダンが横を見る。
トマは顔を上げなかった。
「手応え、あったんだよ」
ダンの口が動いた。
けれど、いつものような言葉は出てこなかった。
トマは手を膝に置いた。
拳を握ろうとするのを、やめた。
ニカが壁にもたれていた。
小さく息を吸う。
まだ、少し痛むらしい。
「……最初に、手ぇ出さなければよかったのかな」
誰も、すぐには答えなかった。
ニカは膝の上を見ていた。
「ベンチ壊されて、あの言い方されて。帰れって言ったら、向こうも引かなくてさ」
袖の染みを、また指でこする。
「肉、落とすつもりじゃなかった」
ダンが、その指を見た。
「分かってる」
「分かってたって、落ちたじゃん」
ニカの声が少し尖った。
ダンは口を閉じた。
ニカも黙った。
しばらくしてから、トマが言った。
「俺は、俺で腹立ってた」
二人が見る。
「話はミロから聞いてた。飯落としたことも、お前が先に殴ったことも」
トマは顔を上げた。
「それでも、あいつとやりたかった」
ニカが唇をかんだ。
「……うん」
誰のせいにすればいいのか、決まらなかった。
決めたところで、レオが立てるようになるわけでもなかった。
ダンが椅子の背へ頭を預けた。
天井を見る。
「勝つと思ってたなあ」
独り言みたいな声だった。
今度は、誰も返さなかった。
*
レオの母親が来たとき、外はもう薄暗くなっていた。
仕事着の上に上着を羽織り、着替えの入った包みを抱えている。
後ろからミロが入ってきた。
母親は待合の三人を見た。
ダン。
ニカ。
トマ。
一人ずつ顔を確かめてから、奥へ向かった。
レオは寝台に移されていた。
母親が入ると、顔を背けた。
「……店」
「早めに閉めた」
「まだ、客」
「今はそっちの心配しなくていい」
包みが椅子へ置かれた。
衣擦れの音がする。
「着替え、持ってきたから」
「……おう」
母親はレオの顔を見た。
しばらく、何も言わなかった。
レオも、顔を戻さなかった。
「帰ってから、話は聞くよ」
「……分かってる」
その声は、学校で聞くより少し幼かった。
エマは入り口で足を止めた。
替えの布を棚へ置き、そっと離れる。
母親のそばで、レオが小さく息を吐いたのが聞こえた。
*
師匠の話を聞き、それぞれの家へ連絡をする段取りがつくころには、治療院の窓は暗くなっていた。
ニカが上着を羽織る。
腕を通すところで動きが止まり、エマが袖を持った。
「こっち、ゆっくり」
「ん」
布を引っ張りすぎないようにする。
ニカは、しばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「ガルドと、結構喋ったの?」
エマの手が止まりかけた。
「……うん。治療してる間に」
「そっか」
ニカが袖口を整えた。
エマは、その横顔を見た。
何か言った方がいいのだろうか。
知り合ったばかりだと。
仲がいいわけではないと。
そう言えば、ニカは少し安心するのだろうか。
けれど、楽しかった。
喋って、笑った。
そのことまで、なかったように言いたくはなかった。
エマは口を閉じた。
ニカも、それ以上は聞かなかった。
診察室の方を見て、声を落とす。
「レオ、あんな顔すんだね」
エマはうなずいた。
「……うん」
「あたし、知らなかった」
その声には、さっきまでの怒りがあまり残っていなかった。
エマは何も返せず、ニカの上着の襟を直した。
ダンが荷物を持って立ち上がる。
トマは奥の寝台へ顔を出した。
「明日、来る」
レオが目を向けた。
トマの口元。
包帯を巻かれた手。
それから、視線を落とした。
「……おう」
トマは、それ以上何も言わなかった。
ミロも頭を下げる。
「また、明日」
レオは小さくうなずいた。
四人が出ていく。
最後に、ニカが一度だけ振り返った。
エマが見送る。
扉が閉まると、治療院は急に広く感じられた。
*
エマは受付の机に座った。
今日の治療の記録を、師匠に確かめてもらうためにまとめる。
レオ・アーデン。
名前を書いて、手が止まった。
少し前まで、水門のベンチで笑っていた。
釘を一本、まっすぐ打てなくて。
トマに金槌を取り上げられて。
それでも、大きな声で言い返していた。
今日も、あそこで会うつもりだったのだろう。
みんなで。
エマは続きを書いた。
次の名前を書く。
ペンを置いてから、机の隅にある問題集を開いた。
一問だけ。
そう思って、最初の行を読んだ。
もう一度、読んだ。
意味が頭へ入ってこなかった。
ガルドの顔が浮かんだ。
笑うと口の傷が痛んで、それでも笑うのをやめなかった顔。
鉄門の頭になったと、胸を張った姿。
あの日、ガルドは勝っていた。
今日も、勝った。
エマは奥の部屋へ目を向けた。
そこには、負けたレオがいる。
ガルドに腹が立った。
あんなに殴らなくてもよかったのに、と思った。
そう思うと、今度はレオの声が浮かんだ。
勝てると思ってた。
エマは額を押さえた。
誰か一人を怒れば、すっきりするような話ではなかった。
けれど、すっきりしないからといって、腹が立たなくなるわけでもなかった。
来月の祭り。
ちゃんと焼いておくと、ガルドは言った。
そのとき、少し楽しみになった。
今も、あの会話を嫌な思い出にすることができない。
エマは、そのことをレオに知られたくなかった。
鉛筆を持ち直す。
答えを書く欄へ先を置いた。
何も書けなかった。
「……エマ」
奥から、声がした。
顔を上げる。
「水、もらっていいか」
レオだった。
エマは立ち上がった。
「うん。持ってくね」
コップを取り、水を注ぐ。
何を言えばいいのかは、まだ分からなかった。
ガルドに次に会ったら、どんな顔をするのかも。
水をこぼさないように両手で持って、エマはレオのいる部屋へ戻った。




