第15話 立て、レオ
レオの拳が、ガルドの頬に届いた。
鈍い感触が、指の付け根へ返ってくる。
ガルドの顔が横へ向いた。
レオは止まらなかった。
踏み込む。
もう一発。
今度は腕で受けられた。
構わず、肩ごと押し込む。
「どうした!」
ガルドの足が、半歩下がった。
レオの目が光る。
殴れば動く。
当てれば、効く。
さっきの一発で、腕を持っていかれそうになった。
それでも、拳の届かない相手ではない。
レオは左を振った。
ガルドが顔を引く。
空を切った腕の下へ、太い拳が入ってきた。
「っ!」
腹の奥が詰まった。
息が止まる。
レオは歯を食いしばり、前へ出した足を残した。
下がらない。
そのまま、額がぶつかりそうな距離で拳を返す。
ガルドの唇が切れた。
赤いものがにじむ。
エルンが、機械の横から声を上げた。
「ガルド!」
ガルドは口元をぬぐった。
親指についた血を見る。
それから、レオへ目を戻した。
「……やりやがったな」
「まだまだ!」
レオが打つ。
ガルドも打った。
二人の肩がぶつかる。
制服の布が引かれ、靴底が石をこすった。
すぐ隣では、別の二人が組み合っていた。
*
トマの手が、バッシュの襟をつかんだ。
もう片方の腕を抱える。
バッシュはすぐに腰を落とした。
さっき、同じ学校の生徒が投げられたところを見ていた。
そのまま身体を預けるつもりはない。
トマが引いた。
バッシュが踏ん張る。
次の瞬間、トマの足が動いた。
身体を支えていた足を払われ、バッシュの視界が傾いた。
「っ、てめ――」
背中が石畳へ落ちた。
息が漏れる。
トマは手を離し、すぐに距離を取った。
バッシュが横へ転がる。
片手をつき、起き上がった。
早かった。
トマの眉が、わずかに動く。
バッシュは背中を確かめるように肩を回した。
「……効いたぞ、今の」
トマは答えなかった。
拳を上げる。
バッシュも構えた。
今度は、バッシュから来た。
伸びてきた拳を、トマが腕で受ける。
距離を詰め、再び身体をつかもうとした。
その手が届く前に、腹を打たれた。
トマの肩が揺れる。
だが、手は止めなかった。
制服をつかむ。
引き寄せる。
バッシュの顎へ、短い拳を入れた。
顔が跳ねた。
それでもバッシュは、トマの腕を押し返した。
肘が離れる。
空いたところへ、また拳が入る。
「ぐっ……」
トマが一歩下がった。
バッシュが追う。
下がった足を止め、トマが打ち返した。
頬を捉える。
バッシュの口から、血の混じった息が漏れた。
それでも、前へ来た。
トマは、もう一度つかみにいった。
殴られる距離に置いておきたくなかった。
自分の距離へ。
自分の形へ。
入ってしまえば、倒せる。
トマが肩を寄せた。
バッシュの片足が動く。
さっきとは違う場所に、足が残った。
引いても、身体が浮かなかった。
「二回も」
耳の近くで、バッシュが言った。
「同じように転がされるかよ!」
拳が、トマの脇腹へ入った。
一発。
腕を締め直す。
二発目。
つかんだ布が、指の中でずれた。
トマは歯を食いしばった。
離すな。
まだ、倒せる。
バッシュの肩越しに、ベンチが見えた。
傾いたままの座板。
その上に置いた、割れた木。
トマは声を上げ、相手の身体を引き込んだ。
バッシュの上体が崩れる。
膝が落ちかけた。
しかし、片手が石畳についた。
倒れきらない。
次の瞬間、バッシュが身体を起こした。
近すぎて、大きく拳を振ることはできない。
それでも、打てた。
短い拳が、トマの身体を止めた。
つかんでいた手が開く。
バッシュが一歩分、離れた。
トマが追おうとした。
そこへ、拳が来た。
頬を打たれる。
足が、揃ってしまった。
踏み直そうとして、間に合わなかった。
トマの膝が、石畳についた。
*
同じころ、レオも膝をついていた。
片手を地面へ置き、口を開けて息を吸っている。
うまく入ってこない。
腹の中へ、硬い塊を押し込まれたようだった。
ガルドの靴が、目の前にある。
レオはその靴をにらんだ。
顔を上げる。
ガルドも、息を切らしていた。
頬は赤い。
口元には血がついている。
だが、立っていた。
こっちを見ていた。
「どうした、鳴鐘」
レオは片足を立てた。
「……うるせえ」
膝に手をつく。
立つ。
足の裏が少し遠い。
それでも、立った。
横から、誰かが倒れる音がした。
レオの目が動く。
トマだった。
片膝をつき、片手で身体を支えている。
その前に、バッシュがいた。
「トマ――」
「前見ろ!」
トマが叫んだ。
血のついた口で。
「お前、まだ終わってねえだろ!」
レオの喉が動いた。
ガルドへ顔を戻す。
ガルドは拳を上げていた。
レオを待っているのではない。
レオを、見ていた。
次にどう来るか。
どこから殴ってくるか。
それだけを。
レオも構えた。
トマが倒れた。
ニカも、ダンも、傷を作っている。
ミロが、こっちを見ている。
ここで自分まで倒れたら。
レオは拳を握り直した。
「……まだだ」
足を前へ出す。
「まだ、終わってねえ!」
*
バッシュが、膝をついたトマを見下ろしていた。
すぐには手を出さなかった。
トマは地面を押した。
腕が震える。
片足を動かそうとして、息が詰まった。
「立つか」
バッシュが聞いた。
トマは答えなかった。
答えるための息も、今は惜しかった。
もう一度、身体を持ち上げる。
膝が少し浮く。
だが、その先へ行かなかった。
手のひらが石をこすり、身体が戻った。
バッシュは、まだ構えを解かなかった。
トマが上を向く。
バッシュの顔も、ひどいことになっていた。
自分の拳は当たった。
投げることもできた。
何もできなかったわけではない。
それでも、相手は立っていた。
自分は、立てなかった。
トマの指が、地面の小さな砂利をつかんだ。
バッシュが息を吐く。
一歩、下がった。
それで、決まった。
ポルが、箱を抱えたまま口を開いた。
「バッシュ先輩……」
声は、ほとんど息だった。
勝った。
数日前、自分に構え方を教えてくれた人が。
何度も殴られ、投げられて、それでも立って。
ポルは、その場から動けなかった。
バッシュは一度だけポルを見た。
何も言わず、口元を腕でぬぐう。
その向こうで、ガルドとレオがまたぶつかった。
*
レオは、今度は正面から押し込まなかった。
ガルドの腕が上がるのを見て、横へ動いた。
拳を入れる。
頬に当たった。
もう一発。
ガルドの肩が揺れる。
「レオ!」
ダンが叫んだ。
レオには、ちゃんと聞こえていた。
ここにいる。
みんな、まだここにいる。
レオは息を吐きながら、拳を振った。
ガルドの顔を、もう一度捉えた。
大きな身体が下がる。
一歩。
もう一歩。
ニカが石の縁から腰を浮かせた。
「いけ!」
レオが踏み込む。
止められる。
このまま、殴り続ければ。
ガルドの足が止まった。
レオの次の拳を、腕で受ける。
身体が近づいた。
まずい、と思ったときには、もう腹を打たれていた。
息が抜けた。
それでもレオは、拳を返した。
ガルドの顎へ届く。
顔が上を向いた。
ガルドが歯を食いしばったのが見えた。
次の拳が来る。
レオも打った。
二つの身体が、同時に揺れた。
レオの足が、後ろへ動いた。
ガルドの足は、動かなかった。
「っ、くそ……!」
レオは踏み直した。
口の中が熱い。
頬の感覚が、鈍くなっている。
それでも、見えていた。
拳も。
肩も。
こっちへ向かってくる目も。
見えているのに、身体が少しずつ遅れる。
腕を上げたときには、もう打たれていた。
足を置き直したときには、また押されていた。
レオは唸った。
下がりたくなかった。
ここを出ていくのが自分たちになることが、嫌だった。
壊れたベンチを残して。
傷ついた仲間を連れて。
負けた顔で。
「倒れて――」
拳を振る。
「たまるかよ!」
ガルドが受けた。
レオは続けた。
「こいつらの前で!」
もう一発。
ガルドの口元に当たった。
それでも、返ってきた。
「こっちにも!」
ガルドが吠えた。
「見てる奴らがいんだよ!」
拳がぶつかった。
肩がぶつかった。
レオの踵が、石の継ぎ目を踏んだ。
踏ん張った。
身体を戻す。
まだ打てる。
右腕を引いた。
ガルドが前へ出た。
レオの拳は、届いた。
確かに、届いた。
ガルドの顔が横を向いた。
けれど、その身体は止まらなかった。
腹へ拳が入った。
レオの腕が、わずかに下がる。
次の一発が、顔を打った。
空が見えた。
水門の鉄骨。
橋の欄干。
夕方の、まだ明るい空。
それらが、一度に傾いた。
*
石畳が、頬のすぐ近くにあった。
最初、レオにはそれが何なのか分からなかった。
ざらざらしている。
冷たい。
誰かが、名前を呼んでいた。
「レオ!」
ダンの声。
「レオ、ちょっと!」
ニカの声。
レオは手を動かした。
地面へつく。
押す。
身体が上がらなかった。
おかしい。
腕はある。
足もある。
立つだけだ。
いつも、何も考えずにやっていることだ。
たった、それだけ。
レオは歯を食いしばった。
もう一度、押した。
肘が震えた。
片膝を引き寄せる。
そこまでだった。
腕が折れ曲がり、身体が落ちた。
ガルドの靴が見えた。
少し離れたところに、止まっている。
「……終わりだ」
ガルドが言った。
息は荒かった。
声も、少しかすれていた。
それでも、立っていた。
「まだ」
レオの口が動く。
「やれ……る」
言い終わる前に、息が引っかかった。
ガルドは動かなかった。
レオはもう一度、手のひらを地面へつけた。
力を入れる。
腕が震える。
身体は、上がらなかった。
「もういい!」
ニカが叫んだ。
「もういいって、レオ!」
ミロが走り出した。
今度は、誰も止めなかった。
レオは、立てなかった。
*
広場の上で、声がした。
「……鉄門が勝った」
誰かが言った。
大きな声ではなかった。
けれど、レオには聞こえた。
耳のすぐそばで言われたように、はっきりと。
鉄門が勝った。
鳴鐘が負けた。
自分が、負けた。
ミロが隣にしゃがんだ。
「レオ先輩」
肩へ触れようとして、手が止まる。
どこなら触っていいのか、分からなかった。
顔も。
腕も。
制服の下も。
痛そうだった。
「……大丈夫ですか」
レオは答えようとした。
大丈夫だと言おうとした。
口を開いて、やめた。
トマが立ち上がっていた。
片手を膝に置き、ゆっくり身体を起こす。
バッシュがそちらを見た。
トマは、その目を見返した。
「もうやらねえ」
喉の奥から出すような声だった。
「……俺の負けだ」
バッシュは黙っていた。
トマが歩き出すと、半歩だけ横へずれた。
トマはレオの前にしゃがんだ。
「乗れ」
レオが顔を上げる。
「……歩ける」
「じゃあ、立て」
レオは黙った。
トマは背中を向けた。
「乗れ」
ミロが、レオの腕を支えた。
ダンも反対側へ回る。
レオは何か言いかけたが、声にならなかった。
トマの肩へ腕をかける。
身体を預ける。
トマが立ち上がった。
一度、膝が揺れた。
ダンがすぐに支えた。
「おい、トマ。お前も――」
「持てる」
「そういうことじゃ」
「坂だけ、手ぇ貸せ」
ダンは口を閉じた。
それから、レオの身体がずれないように支え直した。
「……おう」
ニカも立った。
片手で脇腹を押さえている。
ミロが見ると、ニカは少しだけ顔をしかめた。
「歩ける。ちょっと、ゆっくり行って」
「はい」
返事をして、ミロは荷物を拾い集めた。
誰も、勝ったときのようには喋らなかった。
*
ガルドの周りに、鉄門の生徒が寄ってきた。
「ガルド!」
「お前、今の――」
声が大きくなる。
ガルドは口元をぬぐった。
頬が痛んだ。
腹も。
拳も。
レオの打ったところが、いくつも残っていた。
それでも、最後に立っていたのは自分だった。
バッシュは少し離れたところで、荒い息を整えていた。
ポルが近づく。
「バッシュ先輩」
「何だ」
手ぬぐいが差し出された。
「口、まだ出てます」
バッシュは受け取った。
押し当てる。
顔をしかめた。
ポルは、何か言いたそうに見上げていた。
「……見てたか」
バッシュが聞く。
ポルはうなずいた。
「はい」
バッシュは、それ以上聞かなかった。
手ぬぐいで口を押さえたまま、鳴鐘の方を見た。
ガルドが一歩、そちらへ出る。
「おい」
トマが足を止めた。
振り返りはしなかった。
「ベンチの材は、ここへ持ってくる」
ガルドが言った。
トマの顎が、わずかに動いた。
「……折れた方、捨てんなよ」
「分かった」
それだけだった。
握手もしなかった。
笑いもしなかった。
トマは、また歩き出した。
*
坂は、来たときより長かった。
トマの足が、石を一つずつ踏んでいく。
背中のレオは重かった。
いつものレオの重さだった。
けれど今日は、トマの足にも、腕にも、力が残っていなかった。
ダンが横から支える。
少し後ろを、ニカとミロが歩く。
誰も、先へ行かなかった。
「……トマ」
背中で、レオが言った。
「何だ」
返事をすると、腹が痛んだ。
レオはしばらく黙っていた。
「……悪い」
トマは足元を見た。
石の高くなっているところを避ける。
「つかまってろ」
それだけ返した。
坂の上へ出ると、橋詰治療院の看板が遠くに見えた。
水門から、まだ鉄門の声が聞こえていた。
さっきまで自分たちがいた場所。
数日前、みんなで笑って座った場所。
レオは、トマの肩へ額を押しつけた。
拳を握ろうとした。
指が、うまく曲がらなかった。
「……くそ」
声が漏れた。
もう一度。
「くそ……」
トマは何も言わなかった。
レオの身体を背負い直す。
そして、次の一歩を踏み出した。




