↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
激情のディソナンス  作者: 白瀬余白


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/32

第2話 俺が勝手に

「誰をやったんだ?」


 肩に置かれた手が、重かった。


 ミロは男の顔を見上げた。


 知らない顔だった。


 昼に屋上へ来た二人とは違う。髪を短く刈り、制服の左の襟だけが外側へ折れている。口元は笑っていたが、肩をつかむ指は少しも緩まなかった。


「……名前までは」


 言ってから、しまったと思った。


 男が首を傾けた。


「名前までは?」

「あの、その」

「じゃあ、顔見りゃわかるよな」


 男は後ろの二人を指した。


 細い三年と、昼にレオに殴られた大柄な三年。


「こいつ?」


 首を振る。


「こっち?」


 また、首を振る。


「北棟の三年なんだけどな、俺ら」


 川の水音が聞こえた。


 ミロは、男の折れた襟を見つめた。


 直したほうがいい、と、どうでもいいことを思った。


「ロッシュさん。こいつ、昼はもっと元気だったんすよ」


 細い三年が笑った。


「レオの横で、三人やったとか何とか」

「へえ」


 ロッシュと呼ばれた男が、顔を近づけた。


「俺のことも知らねえ?」


 ミロは答えられなかった。


「知らねえやつ三人殴って、顔も覚えてねえのか。ずいぶん喧嘩慣れしてんだな」


 後ろへ下がろうとした。


 靴の踵が、階段の縁に引っかかった。


 細い三年に右手首をつかまれる。


「どこ行くんだよ」


「すみませ――」


 腹に、拳が入った。


 息が消えた。


 身体を折ろうとしても、手首と肩をつかまれているせいで、うまく曲がれない。


 口だけが開いた。


「おい。三人やったんだろ」


 大柄な三年の声だった。


「俺らもちょうど三人だぞ」


 笑い声が、頭の上で重なった。


 ミロは空気を吸おうとした。


 喉が鳴るだけだった。


 昼に見たレオは、殴られても立っていた。


 顔を拭いて、そのまま相手を殴り返した。


 自分は一発で、何も考えられなくなっていた。


「……うそ、です」


「何?」


 ロッシュが聞き返す。


 ミロは、もう一度息を吸った。


「嘘、つきました」


 つかまれていた手首が放された。


 膝が階段に当たった。


 痛かったが、腹のほうがずっと痛かった。


「喧嘩、してないです」


 声が小さくなった。


「三人とか、やってないです。すみません」


 靴の先が、すぐ目の前にあった。


 土のついた靴だった。


 ミロはそれを見ながら、もう一度謝った。


「すみません」


「だってよ」


 ロッシュが、後ろの二人へ言った。


「一年に大嘘吹かれて、昼飯一緒に食ってたわけだ。あいつら」


 ミロの指が、階段の角をつかんだ。


「あの人たちは」


 声が出た。


 三人がこちらを見る。


 それだけで、続きを言うのが怖くなった。


 けれど、口に出してしまった。


「あの人たちは、知らないです」


 ロッシュはしばらく黙った。


 それから、しゃがんだ。


「じゃあ、本人に聞こうか」


 ミロの顔を覗き込む。


「明日、レオ連れてこい」


「……え」


「放課後。北棟裏の、使ってねえ実習場。わかるな」


 ミロは唇を動かした。


「何で、レオさんを」

「俺が話してえからだよ」


 返事はすぐだった。


「お前が嘘ついた話も、あいつが三年に好き勝手してる話も、まとめて聞いてやる」


 ミロは、昼の屋上を思い出した。


 レオの唇から落ちた血。


 ノートを汚されて怒っていたエマ。


 肉の箱を抱えていたダン。


 あそこへ、この三人を連れていくところを想像した。


「俺が、謝るんじゃ」

「あ?」


 ロッシュの声が低くなった。


 ミロの口が閉じた。


「謝って済んだ気になってんじゃねえぞ」


 ロッシュが立ち上がる。


「連れてくるだけだろ。レオのとこの一年なんだからよ」


 レオのところの一年。


 ついさっきまでなら、そう呼ばれるのは嬉しかったかもしれない。


「逃げたら、お前の教室まで迎えに行くからな」


 三人の足音が、階段を上っていった。


 ミロは、すぐには立てなかった。


 何度か息を吸って、吐いて、ようやく片足を動かした。


 右手首に、指の形が赤く残っていた。


     *


 橋詰治療院には、まだ灯りがついていた。


 窓の向こうを、白い前掛けが横切った。


 エマだった。


 何かを棚へ戻し、奥にいる人と話している。相手の言葉に頷いてから、もう一度瓶を手に取った。


 ミロは、入口から少し離れたところに立っていた。


 扉まで、十歩もない。


 怪我をしていなくても来ていいと、言っていた。


 今は怪我をしている。


 入っても、いいはずだった。


 ミロは一歩だけ近づいた。


 腹が痛んだ。


 きっと、どうしたのか聞かれる。


 誰にやられたのか。


 どうしてやられたのか。


 レオさんは知っているのか。


 昼に言ったことが、全部嘘だったと。


 そう話している自分を想像すると、足が動かなくなった。


 窓の向こうで、エマがこちらを向いた。


 ミロは反射的に壁の陰へ下がった。


 見つかったかもしれないと思った。


 しばらく待ったが、扉は開かなかった。


 明日。


 明日、話そう。


 ちゃんと最初から謝れば、まだ何とかなるかもしれない。


 ミロは袖を引き、赤い手首を隠した。


 治療院の前を通らずに帰れる道を、頭の中で探した。


     *


 翌日の授業は、ほとんど頭に入らなかった。


 教師が黒板へ書きつけた文字を、そのまま写す。


 一行ずれていることに、次の授業になってから気づいた。


 ノートの端に、小さく書いた。


 ――昨日の話、嘘です。


 しばらく眺めた。


 その下に、謝る言葉を書こうとして、やめた。


 紙の端を切り取り、折り畳んだ。


 昼休みになっても、しばらく席を立てなかった。


 周りでは、弁当を持った生徒たちが机を寄せている。


 誰かが誰かを呼んだ。


 窓際で笑い声が上がった。


 ミロは鞄から弁当を出しかけて、手を止めた。


 今日は、入っていない。


 昨夜、家で言ったのだ。


 明日は友達と食べるから、いらない、と。


 そのときは、少しだけ嬉しかった。


 ミロは鞄を閉じた。


 折った紙をポケットへ入れて、立ち上がった。


     *


 屋上の扉の前で、足が止まった。


 向こうから声がする。


「だから、俺も手伝ったって」

「箱運んだだけだろ」

「昨日は皿も洗った」

「割らなかった?」

「割ってねえよ!」


 笑い声がした。


 ミロは取っ手へ手を伸ばした。


 昨日までは、知らない声だった。


 今は、誰が喋っているのかわかる。


 それが嬉しかった。


 嬉しいぶんだけ、扉を開けるのが怖かった。


 取っ手を引く。


 風が頬に当たった。


「お、ミロ!」


 レオがすぐに気づいた。


「遅えぞ。ダンがお前の分狙ってた」

「狙ってねえよ。守ってたんだよ」

「口で?」

「一番安全だろ」


 トマが、ダンの前から肉の入った皿を取り上げた。


「座れ。なくなる」


 ミロは、小さく頭を下げた。


「……お邪魔します」

「家かよ」


 ニカが笑った。


 昨日と同じ場所が空いていた。


 レオの隣。


 給水槽の陰で、風が少し弱くなるところ。


 ミロはゆっくり腰を下ろした。


 腹に力を入れないようにしたが、最後に少し痛んだ。


 唇を噛む。


「ほら」


 目の前へ、薄焼きパンが差し出された。


 昨日より肉が多い。


「お前、昨日うまそうに食ってたからさ。母ちゃんに言った」


 レオは、何でもないことのように言った。


「いっぱい入れとけって」


 ミロは両手で受け取った。


「ありがとうございます」


「余りじゃねえじゃん」


 ニカが木箱を覗いた。


「昨日、作りすぎたって言ってなかった?」

「今日は違う」

「おばさん、何か言ってた?」

「食わせる人数増やすなら、お前の手伝いも増やすって」

「そりゃそうだ」


 トマが頷いた。


 レオは自分の分をかじった。


 文句を言うわけでも、ミロを見るわけでもなかった。


 ミロはパンを見下ろした。


 自分のために、増えた肉だった。


「あの」


 レオが顔を向ける。


 ミロの指が、パンを少し潰した。


「いただきます」


「おう」


 言えなかった。


 肉は、昨日と同じ味がした。


 でも、うまく飲み込めなかった。


「レオ。足」


 トマが言った。


 レオが自分の足元を見る。


 昨日の木の橋が、箱の上に置かれていた。今朝また何かつけ足したらしく、欄干の横に細い支えが増えている。


「踏んでねえよ」

「踏む前に言ってる」

「信用ねえな」

「芋が一個死んでる」


 ダンが真面目な顔で頷いた。


「昨日な。惜しい芋を亡くした」

「まだ言うか」


 エマは、弁当の隣にノートを開いていた。


 ページの端に、赤茶色の染みがある。


 レオがそれを見て、少し気まずそうにした。


「まだ写してんの」

「あんたが汚したところだけね」

「だから俺がやるって」

「先生が読めない字で提出したら、私が怒られるでしょ」

「読めるだろ。トマ、俺の字読めるよな」

「長年の勘で」


 ニカが膝を叩いて笑った。


 ミロも笑いかけた。


 腹の奥が引きつった。


 慌てて息を止めたが、その拍子に右手の袖が上がった。


 トマの目が、そこへ向いた。


「手、どうした」


 ミロは袖を引いた。


「え?」

「手首」


 レオもこちらを見た。


 エマがノートから顔を上げる。


 急に、全員の真ん中へ座らされた気がした。


「転んだんです」


 言葉は、すぐ出てきた。


 昨日の夜から、考えていた言葉だった。


「橋のところで。階段、踏み外して」

「昨日の帰り?」


 トマが聞いた。


「はい」

「派手にいった?」

「いや、全然。大したことないです」


 エマが少し身を乗り出した。


「痛むなら、放課後に橋詰おいで。昨日来てくれればよかったのに」

「大丈夫です」


 思ったより、大きな声になった。


 自分で驚いた。


 エマが動きを止めた。


「……そっか」


 風が、開いたノートの端をめくった。


 ミロは顔を上げられなかった。


 怒ったかもしれない。


 せっかく心配してくれたのに。


 また余計なことをした。


 そう思ったところで、目の前に茹で卵が置かれた。


「じゃあ、これはお前に任せた」


 ダンだった。


 ミロは卵を見た。


「何をですか」

「警備。レオがもう二個食ってる」

「二個しか食ってねえだろ」

「全員に二個ずつあると思うなよ」

「数えたのかよ」

「お前の食う量は数えとかねえと」


 ニカがレオの手から三個目を奪った。


 レオが文句を言った。


 エマが笑って、ノートを押さえた。


 ミロの前には、卵が残った。


 誰も、さっきの大きな声を責めなかった。


 そのほうが、ずっと困った。


     *


「これ、結局どっちが先なの」


 ニカがエマのノートを覗き込んだ。


「反乱と条約」

「条約じゃない?」

「でも先生、反乱がどうとか言ってなかった?」


 ミロは、二人の間から文字を見た。


「反乱が先です」


 口に出してから、二人がこちらを向いた。


「え?」

「南部の反乱ですよね。終わったあとに、諸侯が集まって条約を」


 エマが目を閉じた。


 ニカが、ゆっくり笑った。


「私、一問合ってる」

「まだ答案返ってないから」

「合ってるって。今ミロが言った」

「ミロが絶対正しいとは限らないでしょ」


 言ってから、エマが慌ててこちらを見た。


「あ、疑ってるわけじゃなくて」

「疑ってるだろ」


 ダンが言った。


 エマがその足を軽く蹴った。


「ミロ、得意なんだな」


 レオが言った。


「歴史」

「……読むのは、好きです」

「すげえ。俺、人の名前が全然覚えらんねえ」

「生きてるやつの名前はすぐ覚えるのにね」


 ニカが言うと、レオは少し考えた。


「会ったことねえからかな」

「会う気だったのか」


 トマが言った。


 今度は、ミロも笑った。


 痛くて途中でやめたけれど、最初は本当におかしかった。


 ニカが自分のノートを引き寄せる。


「今度、ここ教えてよ」

「俺でよければ」

「よくなかったら頼まないって」


 軽い調子だった。


 ミロは頷いた。


 何度も頷きそうになったので、一回でやめた。


 ポケットの中で、折った紙が指に触れた。


 今なら。


 今、ちゃんと謝れば。


 紙をつまむ。


「なあ、今日さ」


 レオが口を開いた。


「放課後、商店通り寄らねえ? トマが材木屋行くって」

「何で私らまで板見に行くの」


 ニカが聞く。


「楽しいぞ」

「レオ、前に途中で帰ったよな」


 ダンが言った。


「こいつ長えんだよ。ずっと同じ板見てんだもん」

「同じじゃねえ」


 トマの声が、少しだけ強くなった。


 エマが肩を揺らした。


「私は橋詰あるから」

「ニカは?」

「三時間も板見ないからね」

「だから三時間も見ねえよ」


 全員がトマを見た。


 トマは無視した。


「ミロは?」


 レオが、こちらを向いた。


 ミロの指が、紙をつかんだまま止まった。


 北棟裏。


 使っていない実習場。


 授業が終わったら、まっすぐ。


「俺、今日は」


 喉が乾いていた。


「家の用事があるんで」

「そっか。じゃ、また今度な」


 レオはすぐに頷いた。


 残念だとも、来いとも言わなかった。


 また今度。


 次がある言い方だった。


 ミロは、ポケットの中で紙を折った。


 もう一度、折った。


 親指の爪で、強く折り目をつけた。


 鐘が鳴った。


     *


 階段へ向かうレオの背中を、ミロは追いかけた。


「あの、レオさん」


 声が出た。


 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。


 レオが振り向く。


「ん?」


 今、言わなければ。


「俺、昨日」


 レオは待っていた。


 腕には、空になった食堂の箱を抱えている。


 その後ろで、ダンとニカがどちらから先に階段を下りるかで揉めていた。トマが呆れた顔で追い越し、エマがその後ろをついていく。


 誰も、ミロを急かさなかった。


 誰も、話すのを邪魔しなかった。


 レオが少し首を傾けた。


「昨日、何?」


 ミロは口を開いた。


 この人は、来るかもしれない。


 助けてくれと言えば、怒って、三年のところへ行くかもしれない。


 レオだけでは済まないかもしれない。


 トマも、ダンも、ニカも。


 昨日みたいに血が出て。


 今度は、もっと大きな怪我をして。


 そのあとで。


 全部終わったあとで、自分はどこに座ればいいのだろう。


 また、あの給水槽の陰に行っていいのだろうか。


 嘘をついて、昼飯を食べて、喧嘩まで押しつけた自分が。


「……昨日も、今日も」


 声が細くなった。


「飯、ありがとうございました」


 レオは瞬きをした。


「おう」


 それから、少し笑った。


「いちいちいいって。母ちゃんにも言っとく」


 レオが階段を下りる。


 ミロは、その背中についていった。


 ポケットから手を出せなかった。


     *


 放課後の廊下は、いつもより長かった。


 ミロは昇降口へ向かう生徒たちに混じって歩いた。


 途中で、列から外れた。


 北棟へ続く渡り廊下に入る。


 すれ違った一年生が、こちらを見た。


「そっち、何かあんの?」


 ミロは少し笑った。


「ちょっと、用事」


 自分は嘘が下手だと思っていた。


 なのに、今日は何度もついている。


 最初の一つを隠すために、次の一つが必要だった。


 次を隠すためには、また別のことを言わなければならなかった。


 ポケットの中で、紙が汗を吸っていた。


 ――昨日の話、嘘です。


 たったそれだけのことが、言えなかった。


 北棟の向こうへ回ると、使われていない実習場が見えた。


 扉の片側だけが開いていた。


 中から笑い声がする。


 ミロは足を止めた。


 そのまま帰ることもできた。


 走れば、正門まで戻れた。


 けれど、明日、教室へ来られたら。


 明日の屋上で、みんなの前で言われたら。


 ミロは、扉へ手をかけた。


     *


「おい、トマ」


 ダンが窓の外を見ていた。


 廊下の端で、トマは橋を入れた箱を鞄へしまった。


「何だ」

「あれ、ミロじゃね?」


 窓へ寄る。


 一年の制服が、北棟の角を曲がるところだった。


 淡い色の髪が、壁の向こうへ消えた。


「家の用事って言ってなかった?」

「言ってた」


「そっち、門ねえよな」

「ねえな」


 ダンが窓枠へ肘をついた。


 ふざけたことを言いそうな顔をして、何も言わなかった。


 トマは、昼に見た手首を思い出した。


 引っ込める速さ。


 大きくなった声。


 笑ったあと、すぐに口を閉じたこと。


「……転んだってさ」


 ダンが言った。


「ああ」


 北棟の陰から、別の生徒が出てきた。


 背の高い、細い三年。


 昨日、ニカの拳を避けていた男だった。


 そいつは周りを見てから、ミロが消えたほうへ歩いていった。


 ダンが窓枠から肘を離した。


「レオ、鞄取りに戻っただけだよな」

「ああ」

「呼んでくる」


 返事を待たずに走りだす。


 トマは鞄の紐を肩へ掛け直した。


 材木屋のことは、あとでよかった。


     *


 実習場には、昨日の三人がいた。


 ほかにも二人、奥の台に腰掛けている。


 床には使われなくなった木材や、脚の折れた椅子が寄せられていた。高い窓から入る光の中で、埃がゆっくり動いていた。


 ロッシュは作業台に座っていた。


 ミロを見て、その後ろを見た。


「レオは?」


 ミロは入口に立ったまま、答えた。


「……来てません」


「見りゃわかるよ」


 笑い声がした。


 ロッシュは笑わなかった。


「どうしたんだよ。用事でもあんのか」

「はい」


 また、言ってしまった。


 ミロは唇を噛んだ。


 ロッシュが作業台から下りた。


「何つってた?」


 近づいてくる。


「俺が呼んでるって言って、あいつ、何つった?」


 ミロは扉の縁を握った。


 何も知らない。


 レオは、何も知らない。


 今日も弁当を持ってきてくれて、明日の話をしていた。


 ここへ呼ばれていることなんて、知るはずがない。


「……言ってないです」


 ロッシュが止まった。


「は?」


「レオさんには、言ってません」


 細い三年が吹き出した。


「こいつ、何しに来たんすか」


 ロッシュの手が伸びた。


 胸倉をつかまれ、扉から引き剥がされた。


「俺、何つった?」


 ミロの靴が床を擦った。


「連れてこいって言ったよな」


「はい」


「じゃあ、連れてこいよ」


 入口へ突き飛ばされた。


 ミロはよろめき、壁に手をついた。


 扉は、まだ開いていた。


 行けと言われている。


 今なら出られる。


 教室へ戻って、レオを見つければいい。


 ポケットの紙を見せるだけでもいい。


 立っているうちに、膝が震えはじめた。


「早くしろよ」


 ミロは壁から手を離した。


 扉の向こうを見た。


 それから、振り向いた。


「……連れて、来られません」


 声が掠れた。


 ロッシュの顔が変わった。


「何だよ、それ」


 ミロは両手を握った。


 力を入れても、震えは止まらなかった。


「レオさんは、何も知らないんです」


「だから今から教えてやれって」


「違うんです」


 違わない。


 何を違うと言ったのか、自分でもわからなかった。


 ただ、レオの名前を、これ以上ここで使いたくなかった。


「俺が、嘘ついたんです」


 ミロは言った。


「三年倒したとか、喧嘩できるとか。俺が勝手に言っただけで」


「知ってるよ」


 ロッシュが歩いてくる。


「その話、昨日聞いた」


 ミロは後ずさった。


 壁が背中に触れた。


 もう下がれなかった。


「お前に聞いてんのは、何でレオを連れてこねえのかってことだよ」


 答えられなかった。


 怖いから。


 殴られるのも怖い。


 ここへ来るのも怖かった。


 でも、嘘だと知ったレオが、自分を見るところを想像するほうが、もっと怖かった。


 明日の昼、屋上の扉を開けたとき。


 誰も場所を空けてくれなかったら。


 ミロは顔を伏せた。


「……言えませんでした」


 ロッシュが、短く笑った。


「何だよ。友達じゃねえのか」


 その言葉が、一番痛かった。


 ミロは口を開いた。


 友達だと、言いたかった。


 昨日から友達になったのだと。


 今日も一緒に飯を食べて、笑ったのだと。


 けれど、今ここでそう言ったら、その人たちの名前をもう一度盾にすることになる気がした。


 ミロは首を振った。


「あの人たちは、何も悪くないです」


「お前がそれ決めんの?」


 胸を押された。


 背中が壁に当たる。


 昨日殴られたところが痛んで、息が詰まった。


 それでも、顔だけは上げた。


「俺が」


 声が震えた。


 ロッシュが目を細める。


 ミロは、握った手をほどけなかった。


「俺が、勝手に言っただけなんです」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。