第1話 明日も来いよ
パンを食べながら全力で走ると、息ができない。
エマは今朝、それを身をもって知った。
「……っ、んぐ」
角を曲がったところで立ち止まり、胸を叩く。ようやく飲み込んだパンが、喉の奥をゆっくり落ちていった。
「何してんの」
靴屋の軒先で、ニカが呆れていた。
短い二本の角に引っかかった髪を直しながら、こちらを見ている。
「弟が」
「うん」
「私の卵、食べた」
「それで?」
「揉めた」
ニカはちょっと考えた。
「寝坊もした?」
「……少し」
「そっちじゃん」
返す言葉がない。
エマは残りのパンを口に押し込んで、ふと靴屋の窓を見た。
昨日までなかった靴が並んでいる。深い茶色の革に、赤銅色の小さな留め金。つま先の形も、今履いているものよりずっと可愛い。
「あ」
足を止めた瞬間、襟首をつかまれた。
「あとで」
「見るだけ」
「あとで!」
引きずられるように走りだす。
朝の石畳は、まだ日陰のところだけ湿っていた。魔法灯を消して回る老人の横を抜け、野菜を積んだ荷車を追い越す。御者台のドワーフが「転ぶぞ」と笑った。
ニカがパン屋の前で手を振る。店先を掃いていた女の人が、箒を持ったまま振り返した。
坂の上に、鳴鐘学園の正門が見えてきた。
古い鐘楼が鳴っている。
「間に合う!」
「喋ると遅くなる!」
最後のひと打ちが響くのと、二人が門をくぐるのは、ほとんど同時だった。
昇降口で膝に手をついたエマの隣で、ニカが息を整える。
「あんた、歴史の小テスト勉強した?」
「……え?」
ニカが、ゆっくり顔を上げた。
エマも顔を上げた。
「今日?」
「今日」
昨夜、回復魔法の教本は読んだ。
図にある術式がどうしても腑に落ちず、紙に写して、書き直して、気づいたらずいぶん遅くなっていた。
歴史の教科書は、鞄の底に入ったままである。
「ニカ」
「無理。私も今思い出した」
鐘が鳴り終わった。
*
昼休みになるころには、エマは自分の名前と三つの解答を書いたことだけを心の支えにしていた。
五問中三問。
まだ望みはある。
「第二問、何て書いた?」
「南部諸侯の反乱」
「私、条約の名前を書いたんだけど」
「……問題、何だったっけ」
望みが遠ざかった。
机に額をつけようとしたところで、教室の入り口から声が飛んできた。
「ニカ! エマ! 飯!」
レオが立っていた。
赤茶色の髪が、いつもどおり好き勝手な方向に跳ねている。制服の前は開きっぱなしで、片腕には大きな包みを抱えていた。
「母ちゃんが作りすぎた。食う?」
「何?」
「肉」
「行く」
「私も」
「返事早えな」
ニカが椅子を鳴らして立ち上がる。エマも弁当袋と、午後の授業で使うノートをつかんだ。
廊下に出たレオは、通りかかった男子にも声をかけた。
「お前も飯どうだ?」
「今日、部の当番」
「そっか。じゃあまたな」
少しも残念そうではない。また別の誰かを見つければ、同じように誘うのだろう。
「人数増やしすぎんなよ」
ニカが言うと、レオは腕の包みを持ち上げた。
「いっぱいあるって」
「その台詞、三人前にも聞いた」
エマは包みの大きさを見た。
レオはたぶん、友達が増えると昼飯も増えると思っている。
*
屋上の扉を開けると、風が制服の裾を持ち上げた。
柵の向こうには、家々の屋根が連なっている。川に架かった石橋と、その先の通りまで見えた。
給水槽の陰では、トマが木を削っていた。
ドワーフらしい太い指の間にあるのは、掌に収まるほどの小さな橋だった。欄干までついている。
その隣で、ダンが背中を丸めていた。
「えー。つまり君たちは、先人が何のために血を流してきたかを、もう少しですね」
エマは足を止めた。
「やめて」
「おや、リーヴェル君。君には特に聞いていただきたい」
「やめてってば!」
顔も声も、今朝の歴史教師にそっくりだった。
トマの肩が揺れた。
「笑ってる?」
「風だ」
「そこ、風当たってないけど」
レオが包みを下ろす。
布の中から、蓋に〈アーデン食堂〉の焼き印が入った木箱が二つ現れた。開けた途端、肉と香草の匂いが広がる。
薄焼きのパンに挟まれた焼き肉。揚げた芋。茹で卵。豆の和え物。
エマの腹が、鳴った。
全員が見た。
「レオ」
「俺じゃねえよ」
「そういうことにして」
「無茶言うなよ」
ニカが笑いながら座る。
レオが肉に手を伸ばすより早く、トマがその手首をつかんだ。
「先に分けろ」
「一個くらい」
「お前の一個は、毎回二個になる」
図星だったらしい。レオは黙って手を引っ込めた。
エマは膝にノートを置き、空いた手で薄焼きパンを受け取った。
一口かじると、肉汁が染みた生地がやわらかい。
「おいしい」
「だろ」
なぜかレオが胸を張った。
「作ったのおばさんでしょ」
「俺も運んだ」
「偉いねえ」
ニカの褒め方は、完全に小さい子に対するものだった。
レオが文句を言いかけたとき、屋上の扉が細く開いた。
「あの」
見慣れない男子が、隙間から顔を出した。
淡い色の髪の間から、尖った耳が覗いている。まだ新しい制服の襟をきっちり留めた、一年生だった。
「レオさん、いますか」
レオが、肉を飲み込んだ。
「俺?」
「あ、はい。昨日、三年とやり合ったって聞いて」
「やり合ったっつうか、向こうが勝手に怒って」
「お前が話長えって言ったんだろ」
トマが口を挟む。
「長かったんだよ」
「もう少し柔らかく言えよ」
ダンがすっと姿勢を正した。
「先輩、誠に恐縮なんですが、話が長えです」
「一緒じゃん」
エマが言うと、ニカが吹き出した。
一年生だけが、笑っていいか迷っている顔をしていた。
レオが隣を叩く。
「まあ座れよ。飯は?」
「まだです」
「食え食え」
返事を待たず、薄焼きパンを一つ渡した。
一年生はそれを両手で受け取った。
「あ、ありがとうございます」
「名前は?」
「ミロです」
「ミロな。俺がレオで、こっちトマ。うるせえのがダン」
「今お前のほうが喋ってるけど」
「ニカと、エマ」
名前を呼ばれたので、エマは口の中のものを急いで飲み込んでから手を振った。
ミロは何度も頷いた。
それから一口食べて、目を丸くした。
「うまいです」
「だろ!」
「だから何であんたが偉そうなの」
ニカがレオの膝を小突いた。
少しして、ミロが口を開いた。
「あの、俺、喧嘩とかも、別に足引っ張ったりしないんで」
レオが顔を向ける。
「ん?」
「前に住んでたところでも、その、結構やってて」
「へえ」
ミロはパンを握り直した。
「この前も、北棟の三年と……三人くらい、やって」
エマは顔を上げた。
ミロの身体は細かった。肩もまだ小さく、袖から出た手首には骨が浮いている。
けれど、見た目だけではわからないのかもしれない。ニカだって、初めて会ったときには、男子を殴り倒すようには見えなかった。
「三人?」
ダンが眉を上げた。
「おいレオ。お前、明日から荷物持ちじゃね?」
「何でだよ」
「新しい頭にご挨拶しとかないと」
「先に食った分の皿を片づけろ」
トマに言われ、ダンは黙って卵の殻を拾った。
レオはミロを見て、素直に笑った。
「お前、すげえな」
ミロの背筋が伸びた。
「いや、そんな」
「じゃあ今度、私ともやろうよ」
ニカが身を乗り出した。
ミロの手が止まる。
「え」
「私、二年。三年より楽でしょ」
「いや、その、今ちょっと手を」
「痛めてんの?」
エマが聞くと、ミロは慌てて手を膝の下へ隠した。
「いや、大丈夫です。もう治ってるんで」
そのとき、屋上の扉が蹴り開けられた。
鉄の音が、柵まで響いた。
「ずいぶん楽しそうじゃねえか」
入ってきたのは、男子生徒が二人。
一人は大柄で、制服の襟を大きく開けていた。もう一人は背が高く、細い。どちらも踵を踏んだ靴を引きずっている。
ミロが、わずかに身体を引いた。
トマは木の橋を箱に入れた。折り畳みの小刀を閉じ、その隣に収める。
レオは座ったまま、二人を見上げた。
「何すか」
「後輩集めて、いい気になってんのか」
「飯食ってるだけっすけど」
大柄なほうが、レオの前まで来た。
「立てよ」
レオは手に残っていたパンを口へ入れた。
ゆっくり噛んだ。
「聞こえてんだろ!」
胸倉をつかまれる。
エマの指が、膝のノートを握った。
レオが立ち上がった、その途中だった。
拳が飛んだ。
鈍い音がして、レオの顔が横を向く。
「レオ!」
思わず声が出た。
レオは倒れなかった。
唇の端を親指で拭い、赤くなった指先を見た。
「……飯食ってんだろ」
次の瞬間、レオの拳が相手の腹にめり込んだ。
大柄な身体が、くの字に折れる。
細身の三年が踏み出した。
その前に、ニカが立った。
「二人でやんの?」
「どけよ。女は――」
ニカの拳が、その鼻先をかすめた。
三年が慌てて仰け反る。
「聞こえなかった。もう一回」
「エマ、これ」
横から木箱を渡された。
ダンだった。
「何」
「肉」
「見ればわかる!」
「落とすなよ。俺の昼飯」
「みんなのでしょ!」
受け取ってしまったせいで、両手が塞がった。
トマがもう一つの箱を引き寄せる。その脇で、ミロが壁に背中をつけていた。
足元の卵の殻が、ふわりと浮いた。
風が巻いている。
屋上を吹き抜ける風とは、違う動きだった。
「ミロ」
レオが言った。
大柄な三年から目を離さずに。
「それはしまっとけ」
ミロの指先が震えた。
「でも」
「魔法出したら、喧嘩じゃ済まねえだろ」
殻が、ぱらぱらと床に落ちた。
「余所見してんじゃねえ!」
大柄な三年が、再び殴りかかった。
レオが半歩ずれる。
肩がぶつかるほど近づいて、短く拳を振った。
相手が尻餅をついた。
大きな音だった。
レオは息を吐き、見下ろした。
「まだやる?」
細身のほうが、床に座った仲間を見る。
ニカが一歩寄ると、そいつは舌打ちした。
「……覚えとけよ」
「おう」
レオの返事があまりに普通だったので、エマは少しだけ腹が立った。
二人が扉の向こうに消え、足音が遠ざかる。
誰も喋らなかった。
レオが振り向いた。
「芋、無事?」
ダンが箱の中を覗いた。
「一個死んだ」
「誰がやった」
「お前が踏んだ」
「……悪い」
ニカが笑った。
エマは笑えなかった。
肉の箱を下ろし、膝から滑りかけていたノートを拾う。
開いたページに、赤い染みがついていた。
さっきレオの唇から落ちた血だった。
「レオ」
「ん?」
「これ」
見せると、レオが顔をしかめた。
「あ」
「午後、ここ当てられるんだけど」
「……写し直すか?」
「あんたの字で?」
レオは黙った。
エマは鞄から清潔な布を出し、押しつけるように渡した。
「押さえてて」
「今、治せねえ?」
「もう鐘鳴る」
「ちょっとだけ」
「ちょっとで済むなら、あとでいいでしょ」
レオは布を唇に当てた。
「放課後、橋詰寄って。先生に診てもらってから」
「はいはい」
「一回」
「はい」
授業開始を知らせる鐘が鳴った。
トマが手早く箱を重ね、ダンは最後の卵を口に放り込んだ。
ニカがミロの肩を叩く。
「教室、東棟?」
「はい」
「じゃ、一緒。道わかる?」
「わかります」
「そっち西だけど」
ミロが、黙って向きを変えた。
レオが笑う。
ダンも笑う。
ミロは耳まで赤くなって、それから自分でも少し笑った。
エマはノートの染みをもう一度見た。
消えないだろうな、と思った。
ため息をついて閉じたのに、階段を下りるころには、自分もちょっと笑っていた。
*
放課後、校門にレオたちの姿はなかった。
昼休みの騒ぎについて、先生に呼ばれたらしい。
あんなに大きな音を立てておいて、見つからないと思っていたなら、そっちのほうがどうかしている。
「エマ、今日も橋詰?」
「うん。ニカは店?」
「今日は夕方から」
ニカが鞄の中を探り、小さな紙袋を取り出した。
「これ」
「何?」
「昨日焼いたやつ。皮入れてみた」
中には、小さな焼き菓子が三つ入っていた。
一つかじる。
甘さのあとに、柑橘の匂いがふわっと鼻へ抜けた。
「おいしい」
「それ、何にでも言うじゃん」
「言ってないよ」
「甘すぎない?」
「私は好き」
ニカは紙袋を覗き込んだ。
「……そっか」
さっきまで男子を殴っていた顔とは、少し違った。
「あと二個も食べていいの?」
「そのつもりで渡したんだけど」
「やった」
「感想、ちゃんと考えといてよ」
通りの角で手を振って別れた。
エマは川沿いの道を歩く。
向こう岸から、どこかの学校の鐘が聞こえた。
橋のたもとに、白い壁の小さな建物がある。入口の木の看板には、〈橋詰治療院〉。下の角が少し欠けているのは、荷車をぶつけた人がいるからだ。
扉を開けると、石鹸と、煮出した薬草の匂いがした。
「こんにちは」
「おかえり」
奥から師匠の声が返ってくる。
「遅くなりました」
「まだ時間前だよ」
壁の時計を見る。
本当だった。
学校で走っていたせいで、何となく遅れている気がしていたらしい。
エマは奥の小部屋で上着を脱ぎ、髪を結び直した。袖をまくり、手を洗い、白い前掛けをつける。
待合には、足首に布を巻いた男子生徒が座っていた。
制服の襟章が、鳴鐘のものとは違う。
「お名前、お願いできますか」
帳面を開いて名前を書き、師匠に声をかける。
自分にできることは、まだ多くない。
使った器を洗う。包帯を畳む。棚の瓶を数える。患者の名前を間違えずに書く。
奥から聞こえる診察の声に、つい耳を澄ませた。
今の質問は、何を確かめるためだろう。
あの傷なら、自分はどこから術をかけるだろう。
考えながら包帯を巻いていると、途中で妙に太くなった。
ほどいてやり直す。
棚の前にしゃがんだ拍子に、靴のつま先が見えた。
朝の店先に並んでいた、赤銅色の留め金を思い出す。
あれ、いくらだっただろう。
値札だけでも見ればよかった。
「エマ、そっちの瓶を三本」
「はい!」
立ち上がりかけて、棚に肘をぶつけた。
*
レオが来たのは、窓の光が少し赤くなってからだった。
後ろに、ミロもいる。
「長え」
入ってくるなり、それだった。
「先生の話、長え」
「本人に言った?」
「言ってねえよ」
「顔には出てました」
ミロが言った。
レオが振り返る。
「お前、そういうこと言うようになったな」
「あ、いや」
「合ってると思う」
エマが言うと、ミロが小さく笑った。
師匠がレオの唇と頬を確かめた。
「歯は大丈夫そうだね。エマ、やってごらん」
「はい」
返事が少し大きくなった。
椅子を引き、レオの前に座る。
「動かないで」
「おう」
「少し熱くなるから」
「知ってる」
言われなくてもわかっている、という顔だった。
その顔を見ていたら、少し緊張がほどけた。
エマは指先を傷の近くへ持ち上げる。
細い光が生まれた。
広げすぎないように、傷の形に沿わせる。
切れたところをつなぐ感覚は、教本の絵よりずっと曖昧だ。力を込めればうまくいくものでもない。かといって、怖がって弱めると、途中で光が途切れる。
一度、光の端が揺れた。
「そのまま。急がない」
師匠の声に頷く。
息を吐いた。
レオが、珍しく黙っている。
薄く光っていた傷が、ゆっくり閉じた。
エマは手を下ろした。
指先に、じんとした疲れが残っている。
「……どう?」
「お」
レオが口を動かした。
「痛くねえ」
横から覗いていたミロが、息を漏らした。
「すげえ」
エマは顔が緩みそうになるのをこらえた。
「これくらいなら」
「前より痛くなかったな」
レオが言った。
胸の中が、ぱっと明るくなった。
「そう?」
「うん。先生がやると、もっと早いけどな」
消えた。
「じゃあ次から先生に頼めば」
「何で怒るんだよ」
「怒ってない」
「怒ってんじゃん」
師匠が、奥で小さく笑った。
エマは使った布を片づけるふりをした。
上手くいった。
前より痛くなかった。
そこだけ覚えておこう、と思った。
立ち上がったレオが、頬に触れる。
「ありがとな、エマ」
さっきまでと同じ、何でもない調子だった。
エマは布を畳み直した。
「……どういたしまして」
「また頼むわ」
「授業中に呼ばないでよ」
「今日、昼休みだろ」
「そういうことじゃなくて」
ミロが二人を見比べて、また笑った。
帰り際、エマも入口まで出た。
風が少し冷たくなっている。
「ミロも、怪我したら来てね」
「はい」
「あ、別に、怪我してなくてもいいけど」
言ってから、治療院に何をしに来るのだろうと思った。
ミロは不思議そうな顔をして、それから頷いた。
「ありがとうございます」
レオが階段を二段まとめて下りた。
「俺、店手伝わねえと。遅れると母ちゃんうるせえから」
「もう遅いんじゃない?」
エマが言うと、レオは聞かなかったことにした。
通りへ出かけて、ふと思い出したように振り向く。
「ミロ」
「はい」
「明日も来いよ」
ミロが瞬きをした。
「……え?」
「昼。屋上」
レオは自分の腕を、大きな包みを抱えるように曲げた。
「弁当、多めに持ってくから」
ミロは少しの間、何も言わなかった。
「いいんですか」
「何が?」
「いや」
首を振る。
「行きます」
「おう」
レオは片手を上げ、食堂のある通りへ駆けていった。
ミロは、その背中が角を曲がってから、ようやく小さく手を振った。
*
院内へ戻ると、師匠が届いた書類を分けていた。
エマは隣に座って、封筒を重ねる。
一枚の紙に、目が止まった。
王都治療学院。
夏期講習。
その下に、小さく、見習い回復魔導士、受講者選抜、とある。
「それ、今年の募集」
師匠が言った。
エマは紙を引き寄せた。
見習いでも受けられる。
試験がある。
選ばれれば、夏の間、王都で講習と実習を受けられる。
並んでいる講師の名前には、昨夜読んでいた教本の著者もあった。
「受けてみる?」
エマの指が止まった。
自分の作った光は、一度揺れた。
さっきは小さな傷だった。
それでも、手を下ろしたときには指先が疲れていた。
「……まだ、見てるだけです」
「そう。締切は見ておきなさい」
紙の下へ目を移す。
思っていたより近かった。
エマは学校の鞄を持ってきた。
ノートを開くと、昼についた血の染みが見えた。乾いて、赤茶色になっている。
ページをめくった。
新しいところに、募集の締切日だけを書いた。
その下にペン先を置く。
少し待った。
何も書かずに、蓋をした。
募集の紙は、折り目をきちんと揃えて畳んだ。
ノートの奥へ挟んでから、鞄の中へしまった。
*
川沿いの道を歩きながら、ミロは何度も口元を引き結んだ。
そうしないと、勝手に笑ってしまう。
明日も来いよ。
昼。屋上。
弁当、多めに持ってくから。
レオは、もう自分の名前を覚えていた。
ダンは普通に話を振ってくれたし、ニカは教室まで一緒に歩いてくれた。
エマは、怪我をしていなくても来ていいと言った。
今日初めて会ったのに。
ミロは歩きながら、空に向かって小さく息を吐いた。
言わなければよかった。
三人なんて。
せめて、一人にしておけば。
いや。
一人でも嘘だった。
ミロは今まで、喧嘩に勝ったことがなかった。
殴られそうになったら先に謝った。道を塞がれたら引き返した。怖くなかったことなんて、一度もない。
今日だって、魔法を出しかけた。
レオに止められなければ、きっと使っていた。
明日、言おうか。
あれ、ちょっと大げさに言いました、と。
けれど、レオが「すげえな」と言ったときの顔が、すぐに浮かんだ。
ミロは靴の先を見た。
うまくやれば、大丈夫かもしれない。
喧嘩にならなければ。
もう、余計なことを言わなければ。
「おい」
橋の下へ降りる階段から、声がした。
ミロは足を止めた。
三人いた。
全員、鳴鐘の制服だった。
一人は、昼に屋上へ来た、あの細い三年だった。
そいつが隣の男へ顎をしゃくる。
「こいつ」
階段に座っていた男が、立ち上がった。
「お前がミロ?」
返事をする前に、肩へ手が置かれた。
重い手だった。
「北棟の三年、三人倒したんだってな」
ミロの喉が動いた。
川の水が、橋脚に当たって音を立てている。
通りの向こうを見た。
レオの姿は、もうどこにもなかった。
肩をつかむ指に、力が入った。
「誰をやったんだ?」
昼には、あんなに簡単に出てきた言葉が。
今は、一つも出てこなかった。




