第13話 水門のベンチ
「ミロ。お前、字きれいだな」
「答えは写させませんよ」
「まだ何も言ってねえだろ」
「さっきから、僕のノートしか見てないので」
鳴鐘学園の屋上で、ダンが弁当を吹き出しかけた。
レオがそちらをにらむ。
「笑うな。お前も半分白紙だったろ」
「俺のは余白を生かした答案だ」
「先生、すごく怒ってましたけど」
ミロが言う。
今度はレオが笑った。
ミロは二人の間に置いたノートを、自分の膝へ戻した。
「解き方なら、説明します」
「お願いします、先生」
ダンが頭を下げる。
レオも、しぶしぶ頭を下げた。
その横で、トマが短い板の角を削っている。
薄い木くずが一枚、レオの膝に落ちた。
「おい。飯に入るだろ」
「食い終わっただろ」
「まだ卵焼き残ってる」
「それ、さっきダンが食った」
レオが振り向いた。
ダンは、ミロのノートを熱心に見ていた。
「お前、こっち向け」
「先生、続きを」
「ごまかせると思うなよ」
屋上の扉が開いたのは、そのときだった。
「うるさ。階段まで聞こえてるよ」
ニカが顔を出す。
後ろからエマが続いた。
トマの手元を見ると、ニカが眉を上げた。
「あ、それ。今日直すの?」
「放課後」
「水門のベンチ?」
エマが聞く。
トマがうなずいた。
川沿いの古い水門には、小さな広場がある。
屋根も店もないが、風がよく通る。
ただし、置かれている長椅子は傾いていた。
数日前、何も考えず端へ腰を下ろしたダンが、そのまま地面へ落ちた。
「俺の尻を犠牲に、欠陥が発見されたわけだ」
「座る前に見れば分かる」
トマが言った。
「被害者に冷たい」
「だから直すんだろ」
ダンが黙る。
レオが笑って、その肩を叩いた。
「よかったな。お前の尻も浮かばれる」
「死んでねえよ」
ミロも笑っていた。
以前のように、一度みんなの顔を見てから笑うのではなく。
*
放課後、六人で水門へ向かった。
トマが板と道具を持ち、レオはどこからか借りてきた箒を担いでいた。
道の脇から川へ下ると、石畳の小さな広場がある。
使われなくなった荷揚げ場の名残で、端には錆びた鉄輪がいくつも残っていた。
ベンチの周りには落ち葉がたまり、石の隙間から草が伸びている。
「よし。まず持ち上げるぞ」
レオが片側へ回る。
反対側には、ニカが立った。
「ダン。そこ、下に挟まってる枝取って」
「俺も持つ方が――」
「もう持ってる」
二人でベンチを持ち上げた。
ダンが慌ててしゃがむ。
「俺、完全に使われてない?」
「今ごろ気づいたのか」
レオが言った。
トマは傷んだ脚を確かめ、古い横木を外していく。
ミロが隣にしゃがんだ。
「何を持ってればいいですか」
「この板。ここを合わせて」
「はい」
「指、もう少しこっち」
ミロが持ち直す。
トマは一度確かめてから、釘を打った。
乾いた音が、川へ抜けていく。
エマとダンは、周りの落ち葉を掃いた。
「エマ、こっちの袋持って」
「うん。でも私、鐘が鳴ったら行くからね」
「治療院?」
「そう。今日はその前に、師匠に聞きたいこともあるし」
エマが袋の口を広げると、ダンが箒で落ち葉を押し込んだ。
その向こうで、レオが金槌を借りていた。
「俺にもやらせろよ」
「曲げるなよ」
「釘くらい打てるわ」
一打。
釘が斜めになった。
トマが黙って手を出す。
「まだいける」
「貸せ」
「直せるって」
「曲がった方に打ち続けてどうすんだ」
ニカが横で笑った。
「喧嘩みたいに、数殴れば何とかなると思ってんじゃない?」
「思ってねえよ」
「今、ちょっと思ってただろ」
レオが答えなかったので、今度は全員が笑った。
エマが治療院へ向かったあとも、作業は続いた。
座板を一枚替え、脚に横木を入れる。
トマが手のひらで表面を確かめ、引っかかるところを削る。
ミロが掃き終えた石畳へ、水を少し流した。
泥の筋が、端の溝へ吸い込まれていく。
「できた?」
ダンが聞く。
「待て」
トマはもう一度、脚を押した。
揺れない。
それを確かめてから、道具をしまった。
「いいぞ」
ダンが真っ先に座った。
ゆっくりと体重をかける。
片側へ傾かない。
地面にも落ちない。
「……おお」
「何だよ、その感動」
レオが隣へ座る。
続いてミロが、少し間を空けて腰を下ろした。
トマは最後に端へ座った。
「ちょっと」
ニカが立ったまま四人を見る。
「働いたあたしの席は?」
「詰めるぞ」
レオが言い、ダンを押す。
「押すな、端が――」
「今日は落ちねえよ」
「そういう問題じゃねえ!」
結局、ニカが座る分だけ詰めたら、レオが半分ほどはみ出した。
トマは知らない顔で川を見ていた。
水が石に当たり、白くほどけている。
橋を渡る荷車の音が、遠くに聞こえた。
「……ここ、いいな」
レオが言った。
「お前、半分しか座れてねえぞ」
「それ以外はいい」
ダンが笑った。
ミロは、座板の新しくなったところに手を置いた。
まだ少し、木の匂いがした。
*
翌日も、その次の日も、誰かが水門へ寄った。
全員そろう日ばかりではなかった。
ミロがニールと並んでノートを広げていることもあったし、ダンが一人で寝ていることもあった。
ニカは仕事へ行く前にパンをかじり、トマは小さな木の模型をいじった。
レオは来るたび、誰かの食べ物を欲しがった。
特別な名前をつけたわけではない。
ただ、別れるときに「水門にいる」と言えば、分かるようになった。
*
ベンチを直してから三日後。
その日は、ミロが先に着いた。
レオは一度、アーデン食堂へ戻ると言っていた。
トマも、店の棚を直す約束があるらしい。
ニカはあとから。
ダンは掃除当番。
ミロはベンチの真ん中へ座り、鞄から本を出した。
ページを開いて、まだ数行も読まないうちに、車輪の音がした。
がたがたと、石畳を下りてくる。
大きな荷車だった。
上には、鉄で組まれた見慣れない機械が載っている。
長い軸。歯車。四本の脚。
その周囲を、五人の生徒が囲んでいた。
制服を見て、ミロの指が止まる。
鉄門だった。
「ここなら、煙も抜けるな」
耳の長い少年が、川の方を見た。
「だから言ったろ。降ろすぞ」
前を引いていた人間の少年が、荷車を止める。
背が高い。
袖をまくった腕には、いくつか古い傷があった。
その隣に、大柄なドワーフの一年生が立っていた。
浅い木箱を両手で抱えている。
「それ、いったん荷台へ置け。ポル、こっち持って」
「はい」
ポルと呼ばれた少年が箱を置く。
人間の少年は、ベンチにいるミロを見た。
「悪い。そこ、ちょっと空けてくれ」
ミロは本を閉じた。
「何をするんですか」
「焼くやつの試運転」
顎で機械を示される。
ミロはベンチから立った。
「あの。このベンチ、直したばかりなので。ぶつけないようにしてもらえますか」
「分かった」
返事は、短かった。
ミロは鞄を持って、少し離れた。
鉄門の生徒たちが、荷台へ手をかける。
「バッシュ。そっちの脚、出っ張ってるから」
「見えてる」
耳の長い少年が指を差す。
そのとき、荷車の片輪が石畳のくぼみに落ちた。
荷台が、がくんと傾いた。
「おい、待て!」
バッシュが前を持ち上げる。
横へずれた機械の脚が、ベンチに当たった。
鈍い音。
続いて、木の割れる音がした。
ミロの目の前で、横木が裂けた。
片側の脚が開き、座板が斜めに落ちる。
「あ――」
声が出たときには、もう止まっていた。
新しい木の割れ目が、白く見えた。
「……くそ」
バッシュが機械を支え直す。
ポルがベンチを見て、顔を青くした。
「すみません。あの、これ――」
「そっち離すな。先に降ろす」
バッシュが言う。
ミロは、折れた横木を見ていた。
トマが何度も押して、揺れないか確かめていたところだった。
「何やってんの」
背後から、声がした。
ニカだった。
広場の入り口に立ち、傾いたベンチを見ている。
ミロが顔を上げる。
「ニカ先輩」
ニカは近づいてきた。
折れた木。
機械。
鉄門の制服。
順に見て、バッシュへ目を向ける。
「今、あんたらが壊した?」
機械を地面へ降ろし終えたバッシュが、手を離した。
「ああ。悪かった」
ニカは答えなかった。
「直す。材料も、こっちで出す」
耳の長い少年が、割れたところへしゃがみ込む。
「エルン、戻せるか」
「同じ材はあると思う。買ってこないと」
「触んないで」
ニカが言った。
エルンの手が止まる。
「これ、トマが直したんだよ」
「だから、壊したとこは直すって言ってんだろ」
バッシュが返した。
ニカの目が細くなる。
「まず、それ全部どけて」
「今、降ろしたばっかだぞ」
「知らないよ。鉄門の学校でやればいいでしょ」
「煙が流せる場所を探して来たんだよ」
「こっちはここ使ってんの」
バッシュの顔から、謝るときの表情が消えた。
「……ここ、お前らの学校の土地か?」
ミロが、二人を見た。
ニカが一歩前へ出る。
「あたしたちが掃除して、直して、使ってる場所だよ」
「だから、俺らは来ちゃいけねえって?」
「壊しに来たんなら帰れって言ってんの」
「壊しに来たわけじゃねえだろ」
声が大きくなった。
ポルが木箱を抱え直し、二人の間を見ている。
ミロは本を鞄へ押し込んだ。
「あの。わざとじゃ、なかったです。でも、みんなで直したばかりだから――」
「分かってる。だから直す」
バッシュが言った。
ニカが鼻で笑う。
「その言い方、全然分かってなさそうだけど」
「じゃあ、どう言や満足なんだよ」
バッシュも一歩、前へ出た。
「壊したのは悪かった。それと、鳴鐘以外は使うなってのは別の話だろ」
ニカの肩が、わずかに上がった。
ミロには分かった。
もう、ベンチだけの話ではなくなっていた。
鉄門に、どけと言われた。
鳴鐘に、帰れと言われた。
そこから先へ、どちらも引けなくなっている。
「口動かす前に、これどけなよ」
ニカが荷車の縁へ手をかけた。
「おい。触るな」
バッシュが反対側をつかむ。
ニカが押した。
バッシュが止めた。
荷台が、横へ揺れた。
置き直されたばかりの木箱が滑る。
「待って!」
ポルが手を伸ばした。
指が箱の端にかかった。
けれど、止められなかった。
箱が裏返る。
下味をつけた肉の串が、石畳へ落ちた。
十数本。
香草の混じった汁が、石の隙間へ流れ込んでいく。
一本が、ニカの靴のそばで止まった。
全員が黙った。
ポルだけが、すぐにしゃがんだ。
「あ……」
串を一本拾う。
肉の表面に、砂がついていた。
バッシュが、ニカを見た。
「今、何した」
さっきより、低い声だった。
ニカも、落ちた串を見ていた。
「……落とす気じゃ、なかった」
「だったら触んなって言っただろ」
「そっちが急に止めるから――」
「まだ押す気か」
バッシュが、荷車をつかんでいたニカの腕を押さえた。
ニカの目が跳ねる。
「放して」
「先に手ぇ離せ」
「そっちが放せって言ってんの!」
ニカが腕を引いた。
空いた方の拳が、バッシュの顔へ飛んだ。
鈍い音がした。
バッシュの顔が横を向く。
ミロの身体が、固まった。
ニカは、もう構えていた。
バッシュが口元を親指でぬぐう。
赤いものがついた。
それを見る。
次の瞬間、踏み込んだ。
ニカが横へずれる。
拳が頬をかすめ、髪が跳ねた。
「ニカ!」
広場の入り口から、ダンの声がした。
走ってきたダンが二人を見て、足を速める。
「おい、何やって――」
「下がってろ!」
ニカが叫んだ。
バッシュの肩へ拳を叩きつける。
押し返されて、靴底が石をこすった。
エルンが機械を引いた。
「こっち、どけるぞ! 脚持って!」
鉄門の二人が慌てて動く。
ポルはまだ、地面にしゃがんでいた。
串を握ったまま、殴り合う二人を見ている。
ミロの喉が、からからになった。
止めたい。
けれど、あの間へ入ったら何ができるのか、分からない。
ニカが殴った。
バッシュが打ち返した。
ダンが叫んでいる。
折れた木が、誰かの足に蹴られて転がった。
ミロは広場の出口を見た。
それから、ダンへ駆け寄った。
「ダン先輩」
「ミロ、そこ危ねえから――」
「レオ先輩、呼んできます」
ダンが振り向いた。
ミロはもう一度言った。
「トマ先輩も。食堂にいます」
ダンの口が、きつく結ばれた。
ニカとバッシュを見る。
それからミロへ戻った。
「……頼む」
ミロはうなずいた。
鞄を抱え直す。
広場を出て、坂を駆け上がった。
*
アーデン食堂は、夕方の仕込みの最中だった。
レオは拭き終えた皿を重ね、トマは台の下へ頭を突っ込んでいた。
「おい、そこ直ったら、こっちの椅子も――」
「増やすな」
「母ちゃんが頼むって」
「お前が折ったんだろ」
「ちょっと座り方が悪かっただけだ」
「それを折ったって言う」
扉が開いた。
二人とも、そちらを見た。
ミロが立っていた。
肩で息をしている。
鞄の紐が片方、ずり落ちていた。
「レオ、先輩」
レオが皿を置いた。
「どうした」
ミロは息を吸った。
途中でむせる。
レオが近づこうとしたところで、ようやく声が出た。
「来てください」
トマが、台の下から出てきた。
「水門で、ニカ先輩が。鉄門と、喧嘩になってて」
レオの顔が変わった。
「お前、怪我は?」
「僕は、してないです。ダン先輩もいます。でも――」
「何人だ」
「鉄門は五人。今、殴り合ってるのは、一人とニカ先輩で」
トマが道具を布の上へ置いた。
使っていた小刀を閉じ、箱へしまう。
ミロは二人を見た。
「ベンチが、壊れて。それでニカ先輩が怒って、機械を動かそうとして、向こうの料理も落ちて……僕、うまく止められなくて」
レオが前掛けを外した。
「分かった」
それだけ言った。
壁に掛けていた上着を取り、袖を通す。
「トマ」
「聞こえてる」
トマはもう立っていた。
ミロは扉を開けた。
外の通りへ出る。
川へ向かう道は、夕方の荷車で少し混んでいた。
「場所、いつものとこだな」
「はい」
「続き、走りながら聞く」
レオが言った。
ミロはうなずいた。
鞄を背負い直す。
そして今度は、ミロが先頭を走った。




