第12話 じっとしていられない
「ガルドさん。こっちへどうぞ」
呼ばれると、ガルドはすぐに立ち上がった。
エマの後について診察室へ入る。
白い布の敷かれた診察台と、薬棚。窓辺には、乾燥させている薬草がいくつか吊るされていた。
奥にいた師匠を見ると、ガルドは軽く頭を下げた。
「お願いします」
待合で胸を張っていたときより、少しだけ声が小さい。
エマはその背中を見てから、手洗い場へ向かった。
「昨日の喧嘩だそうです。学校で手当てをしてもらって、手の腫れが残っているから、こちらでも診てもらうようにと」
「分かりました。まず、手を見せてください」
ガルドが両手を出す。
包帯をほどいていくと、腫れた指の付け根が現れた。
エマは受け取った布を脇へまとめる。
「痛むのは、この辺り?」
「そこは平気――いって!」
「ここですね」
「そこは痛え」
「今、聞いていますからね」
ガルドが口を閉じた。
エマは思わず下を向いた。
笑ってはいけないところだ。
けれど、肩が一度だけ揺れてしまった。
「笑っただろ」
「ちょっと」
「正直だな」
「痛いところも、正直に言ってください」
「言ってるだろ。痛えって」
「声はよく聞こえています」
師匠が静かに言った。
エマは今度こそ、唇を結んだ。
*
手の腫れを師匠が診ている間、エマはガルドの口元の傷を確かめることになった。
「そこはエマに任せます。急がずに」
「はい」
返事をしてから、丸椅子をガルドの前へ寄せる。
「エマっていうのか」
「うん。まだ言ってなかったね」
「俺は――」
「ガルド・バルケン。さっき書いた」
「そうだった」
にっと笑おうとして、また傷を引きつらせる。
エマは小さく息を吐いた。
「少し、じっとしてて」
「おう」
指先を傷の近くへかざす。
淡い光が灯った。
ガルドの目が、少し大きくなる。
「お」
「動かないで」
「まだ動いてねえぞ」
「口が動いてる」
ガルドは唇を結んだ。
エマが傷に意識を戻す。
大きな傷ではない。
けれど口元は、少し動くだけで形が変わる。表面だけを急いでつないでも、きれいには治らない。
習ったことを思い出す。
焦らず。
見えているところだけに気を取られず。
光が、傷の縁に沿ってゆっくり広がった。
「昨日、そんなに強い人とやったの?」
「おう。ラグって――」
傷が動いた。
光がぶれた。
「あっ、喋らないで」
「聞いたのそっちだろ!」
二人とも止まった。
横で、師匠が一度だけ咳をした。
エマの耳が熱くなる。
「……今のは、私が悪かった」
ガルドは笑いそうになっていた。
明らかに、笑いそうになっていた。
「笑うのも、もう少し待って」
ガルドが、唇を結んだままうなずく。
肩が揺れている。
「肩も」
今度はエマまで笑いそうになった。
いったん手を下ろす。
息を整える。
ガルドは、おとなしく待っていた。
大きな両手を師匠に預け、膝を開いて座ったまま、窓の外へ目を向けている。
動かないようにしているのが、見ていて分かった。
エマも、笑うのをやめた。
「もう一回、やるね」
今度は、途中で話しかけなかった。
薄い光が傷を覆う。
少しずつ。
さっきよりも、確かに。
裂けていたところがつながるのを見届けてから、エマは手を離した。
「……よし」
つい、声が出た。
ガルドの目が戻ってくる。
「もう喋っていいか」
「いいよ」
「治った?」
「そこはね。頬の腫れは、まだ残ってるから」
ガルドが口を動かす。
慎重に。
もう一度。
「おお」
さっきより大きく笑った。
「切れてたとこ、痛くねえ」
エマも、つられて笑った。
「うん」
「すげえな」
「……まあ、これくらいなら」
「さっき、あんなに難しい顔してたのに」
「それは言わなくていいの」
すぐに返してから、エマは師匠を見た。
見られていた。
さっきまで得意になっていた顔を、慌てて引っ込める。
ガルドが声を上げて笑った。
今度は、止めなかった。
*
手の治療が終わっても、ガルドの拳は元どおりにはならなかった。
腫れは引いた。
だが、動かすとまだ痛みがある。
「しばらく休ませなさい。見た目がよくなったからといって、すぐ殴り合いに使えるわけではありません」
「……どんくらい」
「少なくとも、痛む間は」
ガルドは自分の手を見た。
少し考えた末に、指を曲げかける。
「今、確かめなくていいです」
止められた。
エマは新しい包帯を用意しながら、横目でその顔を見た。
本当に残念そうだった。
外で鈴が鳴る。
師匠が受付へ出て、診察室には二人が残った。
「そんなに早く、また喧嘩したいの?」
今度は口元の治療が終わっている。
聞いても大丈夫だった。
「待ってる奴がいるからな」
「昨日やった人?」
「そいつもだけど。バッシュって奴」
「同じ学校?」
「おう」
ガルドは嬉しそうに言った。
「俺が勝ったら、次は自分だってよ」
「……友達なんだよね?」
「ダチだよ」
「その友達が、あなたを殴りたいの?」
「倒してえんだと」
「あなたは?」
「勝つ」
あまりに迷いのない返事だった。
エマは包帯を持ったまま、しばらくガルドを見た。
「分かんないなあ」
「そうか?」
「そうだよ。私、友達と喧嘩したら、その日のうちに仲直りしたいもん」
「俺ら、仲悪くてやるわけじゃねえし」
「じゃあ、何でやるの」
「勝ちてえから」
戻ってきてしまった。
エマは諦めて、差し出された手に包帯を巻いた。
「喧嘩、好きなんだね」
「おう」
「痛いのに」
「痛えのは嫌だ」
「そこは嫌なんだ」
「当たり前だろ」
エマが笑う。
ガルドも笑った。
大きな手は、さっきからちゃんと止まっていた。
「頭になってみて、どうだった?」
「最高」
即答だった。
「昨日、門のとこで叫んだ」
「何て?」
「俺が鉄門の頭だ、って」
「……学校の門で?」
「おう。そしたら向かいの親父に怒鳴られた」
エマの手が止まった。
「何してんの」
「だって、言いてえだろ」
「言いたくても、店先ではやめた方がいいと思う」
「バッシュにも笑われた」
「それは笑うよ」
ガルドは不満そうな顔をしたが、すぐにまた笑った。
「今日もよ。ポルが、うまそうな煮込み持ってきてたんだ」
「ポル?」
「一年。料理がうめえんだよ、あいつ」
エマは包帯の端を留める。
ガルドは話し続けた。
「一口くれって言ったら、バッシュの分だから駄目だって」
「約束してたなら、そうでしょうね」
「頭になったのによ」
「関係なくない?」
ガルドは一瞬、きょとんとした。
それから、喉を鳴らして笑った。
「ねえんだな、これが」
その顔を見て、エマも笑った。
番長になった自慢話のはずだった。
けれど聞いていると、次々に別の名前が出てくる。
昨日負けたのに、もう次を狙っている三年生。
人の昼飯を絶対に分けない友達。
肉の切り方を、これから先輩たちに教えるらしい一年生。
「楽しそうだね、鉄門」
「おう」
今度の返事は、さっきより少し大きかった。
*
診察室を出ると、待合には仕事帰りらしい人が二人、座っていた。
ガルドは空いている椅子へ戻る。
エマは受付に入り、治療の記録を書きつけた。
その隣に、解きかけの問題が置いたままになっている。
「それ」
ガルドが指した。
「鳴鐘って、今あんな難しいことやってんのか」
エマが顔を上げる。
「何で鳴鐘って分かったの?」
「そこ、制服」
椅子の背に掛けてある上着だった。
「ああ」
「二年か?」
「うん。ガルドも?」
「おう」
「三年かと思った」
「よく言われる」
エマは問題の紙を引き寄せた。
「これは、学校のじゃないよ。夏に王都でやる、回復魔法の講習の試験」
「王都?」
「うん。選抜があるの」
「行くのか」
エマの指が止まった。
「……行きたいとは、思ってる」
「じゃあ、受けりゃいいじゃねえか」
ずいぶん簡単に言う。
エマは、線だらけの答案を見た。
その線を引いたのは、自分だった。
答え合わせをして、三つ続けて間違っていた。
「受ければ受かるわけじゃないよ」
「そりゃそうだろ」
「落ちたら、そこまで勉強したのにってなるし。申し込むにも、お金かかるし。行くなら、こっちのお手伝いも休ませてもらわないとだし」
言いながら、だんだん口が尖ってきた。
ガルドは黙って聞いていた。
エマは紙の端をそろえた。
「……あと、全然分かんない問題がある」
「さっき、にらんでたな」
「見てたの?」
「見えた」
エマは答案を裏返しかけた。
途中で、やめる。
もう見られている。
今さら隠した方が、余計に恥ずかしい。
「三問、続けて間違えたの」
「おう」
「そこで『受けりゃいい』って言われると、ちょっと腹立つ」
ガルドが鼻の横をかいた。
「……なるほどな」
「分かった?」
「分かんねえ問題に腹立ってんのは分かった」
エマはガルドを見た。
ガルドも、エマを見ていた。
悪気はなさそうだった。
それが分かってしまって、エマは先に笑った。
「そうです。いま、かなり腹立ってます」
「俺に?」
「ちょっと」
「ちょっとかよ」
「だいぶ問題に」
ガルドが笑う。
待合の人が一人、こちらを見た。
二人とも、少しだけ声を落とした。
「何しに行きてえんだ、その講習」
エマは答案を表に戻した。
「ここで教えてもらってること以外にも、いろんな治療を覚えたいの。難しい怪我を診られるようになりたいし、今は師匠に任せきりのことも、自分でできるようになりたい」
言いながら、ガルドの手を見る。
「今日だって、私は口の傷だけだったでしょう」
「治ったぞ」
「うん。それは、嬉しい」
素直に言うと、少し照れくさかった。
「でも、手も治せるようになりたいんだよ」
ガルドは膝の上の手を見た。
さっきまで一つに見えていた治療に、別々の仕事があったことを、今になって知ったような顔だった。
「いつか、自分の治療院も持ちたいし」
「でっけえの?」
「大きさは、まだ分かんない」
「場所は?」
「それも、まだ」
「何か決まってねえのか」
「窓は広い方がいい」
ガルドが瞬きをした。
エマは続けた。
「日当たりがよくて、待ってる間、外が見えるの。あと、仕事着は自分で決めたい」
「服?」
「そう」
「場所より先に?」
「いいでしょ、別に」
少し強く返す。
ガルドは笑った。
「いいんじゃねえか」
「笑ってるじゃん」
「いや。そこは決まってんだなと思って」
エマは頬を膨らませかけて、やめた。
そうなのだ。
決まっているところは、妙にはっきり決まっている。
窓辺に置きたい鉢。
看板の色。
今より少しだけ、動きやすくてかわいい仕事着。
そのくせ、そこへ行くための試験には、まだ申し込めていない。
エマは紙の端を指で押さえた。
「治療の勉強も、ちゃんとするよ」
「してんだろ。今も」
言われて、顔を上げた。
ガルドは答案を見ていた。
問題の意味なんて、一つも分からない顔で。
エマは紙へ視線を戻す。
「……うん」
さっき裏返そうとしたのが、少しだけ馬鹿らしくなった。
*
代金を受け取り、お釣りを返す。
ガルドは包帯の巻かれた指で硬貨をつまもうとして、うまくいかなかった。
「あー、くそ」
「袋、開けておいてくれたら入れるよ」
「頼む」
差し出された小さな革袋へ、エマが硬貨を落とす。
最後に、治療の内容を書いた紙を渡した。
「師匠が言ったこと、覚えてる?」
「手を休ませろ」
「うん」
「痛むうちは殴るな」
「うん」
「飯は食っていい」
「それ、言ってないけど。食べていいよ」
ガルドが満足そうにうなずいた。
立ち上がり、扉へ向かう。
途中で、ふと思い出したように振り返った。
「来月、鍛冶通りで祭りやるだろ」
「うん」
「俺ら、串焼き出すんだ。来いよ」
「ガルドが焼くの?」
「ポルが」
「さっきの、料理のうまい子?」
「おう。エルンって奴が、串を回す機械作っててよ。ラグが部品持ってきて、今日、でかくした」
また名前が増えた。
エマは受付に両手をつき、少し身を乗り出した。
「あなたは?」
「肉切る」
「これから習うんだっけ」
「切れるっつうの。大きさそろえろってうるせえだけで」
「それ、大事だと思うよ」
「味方しろよ」
「ちゃんと焼けたの食べたいもん」
ガルドが笑った。
「じゃあ、ちゃんと焼いとく」
「私、その日お手伝いかもしれないから。休めたらね」
「おう」
そこで帰るのかと思った。
けれどガルドは、扉の前でもう一度足を止めた。
「エマ」
「ん?」
呼んだ本人が、わずかに黙る。
何かを言いかけたらしかった。
エマが首をかしげると、ガルドは包帯の手を少し上げた。
「助かった。これ」
「口の方は私。手の方は師匠ね」
「分かってる」
「師匠にも伝えておく」
エマが笑った。
治療の終わりに向ける、丁寧な笑顔ではなかった。
さっき、自分でうまく傷を治せたときと同じ顔だった。
ガルドは、その顔をもう少し見ていたくなった。
けれど、ほかに喋ることが思いつかない。
「……じゃあな」
「うん。手、お大事に」
鈴が鳴った。
*
橋の上へ出ると、風が頬に当たった。
ガルドは歩きながら、口を動かしてみた。
切れていたところは、もう痛まない。
代わりに、頬の奥がまだ少し痛んだ。
手も。
腹も。
ラグの拳は、どこまでもしつこかった。
「……強かったな、あの野郎」
一人で呟く。
それから、橋の向こうを見た。
明日は、バッシュに何を言われるだろう。
また勝負をせがまれるだろうか。
手は、しばらく使えない。
そう言えば、あいつも待つだろう。
文句は言うだろうが。
ガルドは足を止めて、治療院を振り返った。
窓の向こうで、エマが机に向かっていた。
鉛筆を持っている。
何かを書いて、止まる。
また、あの問題をにらんでいるらしかった。
ガルドは小さく笑った。
祭りの日には、休みが取れるといい。
そんなことを考えてから、自分で少し不思議になった。
さっきまでは、早く治療を済ませて帰りたかった。
今は、もう少し喋ってくればよかったと思っていた。
*
エマは、四問目を途中まで解いたところで手を止めた。
やっぱり分からない。
「……悔しいなあ」
紙の隅に、小さく印をつける。
あとで師匠に聞こう。
どこから分からなくなったのか、自分で説明できるようにしてから。
扉の方へ目を向けた。
変わった子だった。
あんなに痛そうなのに、勝った話をすると嬉しそうで。
自分が頭になった話の途中で、何人もの友達の話をする。
料理を教わる顔は、少し見てみたい。
エマは机へ向き直った。
次の問題を、最初から読み直す。
受付の片隅で、鉛筆の音がまた動き始めた。




