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第35話①、信じるという選択

 黒い角を持つ巨大な魔物が、ゆっくりとこちらを向いた。


 赤い瞳が、私を捉える。


「……っ」


 息が詰まった。


 剣を握る手に、じっとりと汗が滲む。


 目の前にいるのは、これまで戦ってきた魔物とは明らかに違う存在だった。


 剣が通じない。


 魔法も、ほとんど効かない。


 騎士たちが何人も力を合わせても、押し返すことすら難しい。


 それなのに。


 魔物は、まるで私のことを知っているかのように、じっとこちらを見つめていた。



『イリス……』


『にげて……』


『こわい……でも、みんなが……!』



 精霊たちの声が、頭の中に響く。


 怖いのは、私だけではない。


 森にいた生き物たちも。


 傷ついた騎士たちも。


 逃げ惑う人々も。


 みんな、必死に生きようとしている。


「……逃げられないよ」


 私は小さく呟いた。


 剣を握り直す。


 左腕は痛むし、身体も思うように動かない。


 それでも、目の前にいる人たちを置いて逃げることなんてできなかった。


「イリス!」


 ノアの声が聞こえた。


 振り返ると、彼もまた傷を負いながら剣を構えていた。


「無茶をしないで! 今の君じゃ、あいつを止められない!」


「……うん。わかってる」


「だったら――」


「でも、何もしなかったら、もっとたくさんの人が傷つく!」


 思わず声が大きくなった。


 ノアが息を呑む。



 私自身も、胸の奥が痛かった。


 わかっている。


 自分一人では、全員を守れない。


 剣だけでは、あの魔物を止められない。


 それでも、まだ何かできるはずだ。


 そう思ってしまう。


 守りたい。


 目の前にいる人たちを。


 大切なものを。


 もう二度と、誰かが目の前で失われるところを見たくない。



 そのためなら――。


「……っ」


 私は、胸元のペンダントを握りしめた。


 金属が、いつもより温かく感じられた。


 指先のそばで、かすかな光が揺れる。


 ほんの一瞬。


 周囲の騎士たちが気づかないほどの、小さな光。


 けれど、私にはわかった。


 精霊たちが、自分の返事を待っている。


 ずっと。


 ずっと、待ってくれていたのだ。



『イリス』


『どうするの?』



 どうするのか。


 答えは、もう決まっている。


 だけど、その答えを選ぶことは、これまで守ってきた秘密を手放すことでもあった。


 髪の色も。


 瞳の色も。


 自分が使える魔法も。


 誰にも知られてはいけない。


 そう思っていた。


 知られれば、何が起こるかわからない。


 また、誰かに利用されるかもしれない。


 大切な人たちを、危険に巻き込んでしまうかもしれない。


 だから、隠してきた。


 ずっと、一人で。


 ――でも。



『ひとりで、がんばらなくていいのよ』



 ふと、ミレーヌの言葉が蘇った。


 誰かを守るためには、自分自身も大切にしなければならない。


 ノアの言葉も思い出す。


 一人で全部守れなくてもいい。


 助けを求めたっていいのだと。


「……そう、だよね」


 私は顔を上げた。


 少し離れた場所では、ヴィルヘルムが騎士たちに指示を飛ばしている。


 アルフォンスも、第一騎士団の陣形を立て直そうとしていた。


 二人とも、必死だった。


 自分と同じように。


 誰かを守るために、戦っている。


 だったら。


 自分だけが、すべてを抱え続ける必要はないのかもしれない。


 秘密を明かすのが怖いなら。


 秘密を守ってほしいと、お願いしてもいいのかもしれない。


 その願いを、聞いてくれる人たちなのだと。


 信じてみても、いいのかもしれない。


「ノア」


「……何?」


「少しだけ、時間を稼いでくれる?」


「時間?」


「うん。総長と団長に、話したいことがあるの」


 ノアは一瞬、目を見開いた。


 けれど、すぐに私の顔を見つめる。


「……何か、考えがあるんだね?」


「うん」


 私は頷いた。


「うまくいくかは、わからないけど……どうしても、伝えたいことがあるの」


 ノアは少しだけ考えたあと、剣を握り直した。


「わかった。近くの騎士たちにも声をかけるよ。僕一人じゃ、あの魔物は止められないからね」


「……ありがとう」


「ただし、無茶はしないで。僕たちも、できるだけ時間を稼ぐだけだから」


「うん」


「それと」


「?」


「終わったら、ちゃんと戻ってきて」


 私は一瞬だけ目を丸くした。


 それから、ふわりと笑った。


「うん。約束する」


 ノアは小さく頷くと、近くにいた騎士たちへ声をかけながら駆け出した。


 その背中を見送ってから、私は息を吸い込んだ。


 怖い。


 今まで隠してきたものを、誰かに知られるのが。


 信じて、裏切られるのが。


 それでも。


 今、信じなければ。


 きっと、後悔する。


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