第34話②、守りたいもの、隠したいもの
「イリス!」
ノアが駆け寄ってきた。
彼は私の姿を確認すると、ほっと息を吐いた。
「よかった……本当に」
「ノア……」
「怪我は?」
「左腕が少し。でも、大丈夫」
「少し、ね……」
ノアは不満そうに眉を寄せたが、それ以上は追及しなかった。
代わりに、私の右手を見た。
剣を握る指が、白くなるほど力んでいる。
「イリス、少し休もう」
「休めないよ」
「でも――」
「だって、まだ戦ってる人がいる!」
思わず声が大きくなった。
ノアが驚いたように目を見開く。
私自身も、はっとした。
「……ごめん」
すぐに謝る。
まただ。
また、自分の気持ちを押し込もうとしている。
怒ってはいけない。
弱音を吐いてはいけない。
みんなが頑張っているのだから、自分も笑っていなければ。
そうやって、ずっとやってきた。
けれど、今は。
「……怖いの」
ぽつりと、言葉が零れた。
ノアは何も言わず、私を見つめた。
「このままじゃ、誰も守れないかもしれない。団長も、総長も、みんなも……」
声が震える。
「私、騎士になったのに。守りたいって思って、ここに来たのに……」
目の奥が熱くなった。
泣いている場合ではない。
そんなことは、分かっている。
それでも、涙を止めることができなかった。
「私、何もできない……」
ノアはしばらく黙っていた。
やがて、私の前にしゃがみ込む。
「イリス」
「……なに?」
「僕だって怖いよ」
私は顔を上げた。
ノアは、いつもの穏やかな表情ではなかった。
唇を引き結び、剣を握る手を震わせている。
「みんなが傷ついていくのを見るのは怖い。
次に誰が倒れるのか分からないのも怖い。
自分が何もできないんじゃないかって、ずっと考えてる」
「……ノアも?」
「うん」
彼は小さく笑った。
「でも、怖いからって、イリスが一人で全部背負わなくていいんだよ」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「僕にできることは限られてる。君にできることも、きっと限られてる。
アルフォンス団長だって、総長だって、何でもできるわけじゃない」
「……うん」
「だから、みんなで戦うんだと思う」
ノアは、私の右手にそっと触れた。
「一人で全部守れなくてもいい。助けを求めてもいいんだよ」
胸が、苦しくなった。
助けを求める。
誰かに頼る。
そんなことを、自分はしてもいいのだろうか。
ずっと隠してきたものを抱えたまま。
本当の名前も。
本当の髪の色も。
自分の力も。
何もかも偽っている自分が。
誰かに助けてほしいと願ってもいいのだろうか。
「……ノア」
「うん?」
「もし、私が……」
そこまで言って、私は口を閉じた。
言えなかった。
この先を口にしたら、もう後戻りできなくなる気がした。
ノアは急かさなかった。
ただ、静かに待っていた。
けれど、私は首を横に振った。
「……何でもない」
また、言えなかった。
ノアは少しだけ寂しそうに笑った。
「そっか」
それから、私の無事な肩を軽く叩いた。
「でも、覚えておいて。僕は、君が何を話しても、ちゃんと聞くから」
私は、俯いた。
涙が一滴、地面へ落ちた。
笑わなくては。
そう思ったのに。
今だけは、笑うことができなかった。
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戦場の中央では、ヴィルヘルムが巨大な魔物と対峙していた。
黒い剣が、赤い瞳の前で閃く。
狙いは眼ではない。
ヴィルヘルムは一撃を放つと同時に身を引き、魔物の注意を自分へ向けた。
「こっちだ、化け物!」
魔物が低く身を沈める。
次の瞬間、巨体が突進してきた。
ヴィルヘルムは横へ跳ぶ。
魔物が背後の岩壁へ激突し、岩が砕け散った。
その隙に、騎士たちが負傷者を運び出す。
「今だ! 搬送路を開け!」
「了解!」
セドリックの指示を受け、リュミエールの騎士たちが動く。
ミレーヌたちは盾を並べ、迫る魔物を食い止めていた。
「あと少し! 負傷者を先に通して!」
「ミレーヌ隊長、左から来ます!」
「分かってる! 二人、私について!」
彼女は剣を振るい、仲間とともに魔物を押し返す。
誰もが限界に近かった。
それでも、戦いをやめる者はいない。
ヴィルヘルムが魔物の攻撃を引きつけている間に、アルフォンスは再び指揮を執り、崩れた陣形を立て直そうとしていた。
「第一隊、三歩後退! 第二隊は間隔を詰めてください!」
騎士たちが動く。
「魔法師は前衛の足元へ防御陣を! 攻撃よりも、まずは陣形の維持を優先してください!」
魔法陣が地面に浮かび上がった。
淡い光が騎士たちの足元を覆い、迫る魔物の動きをわずかに鈍らせる。
その隙に、前衛が体勢を整えた。
ほんの少し。
ほんの少しだけ、戦場に余裕が生まれる。
しかし、巨大な魔物は再び頭を上げた。
その赤い瞳が、周囲を見渡す。
そして、ヴィルヘルムではなく。
陣形の奥にいる、イリスの方へと向けられた。
◇◇◇
「……何?」
私は息を止めた。
遠く離れている。
こちらから攻撃を仕掛けたわけでもない。
それなのに、魔物は私を見ていた。
まるで、何かを確かめるように。
背筋に、冷たいものが走る。
魔物が一歩、こちらへ踏み出した。
「総長! 魔物の進路が変わりました!」
騎士の叫びが響く。
ヴィルヘルムが振り返った。
「何だと?」
巨大な魔物は、再び歩き出していた。
一直線に。
私たちのいる場所へ向かって。
「イリスさん、下がりなさい!」
アルフォンスの声が飛ぶ。
ノアが私の手を掴んだ。
「走ろう!」
私は頷こうとした。
けれど、足が動かなかった。
怖かったからではない。
あの魔物が、どうしてこちらへ向かってくるのか。
どうして、私を見ているのか。
何ひとつ分からないのに。
胸の奥にある何かが、強く反応していた。
(……どうして?)
初めて見る魔物のはずなのに。
あの赤い瞳を見ていると、胸の奥がざわつく。
思い出したくない何かが、すぐそこまで迫っているような気がした。
私は胸元を押さえた。
精霊たちの声が、一斉に響く。
『イリス!』
『気をつけて!』
『そのままじゃ、だめ!』
そのままじゃ、だめ。
何が。
何をすればいいの。
答えは、まだ見つからない。
けれど、もう分かっていた。
このまま剣だけで戦い続けても、いつか限界が来る。
そのとき、自分は何を選ぶのか。
秘密を守るのか。
それとも、大切な人たちを守るのか。
私は、唇を噛みしめた。
どちらも、手放したくなかった。
今まで積み重ねてきた日々も。
ようやく見つけた居場所も。
何も知らずに笑い合ってくれる仲間たちも。
全部、大切だった。
(……でも)
もし、このまま何もしなかったら。
その大切なものすら、失ってしまうかもしれない。
巨大な魔物が、再び地面を踏み鳴らす。
轟音が響き、戦場が揺れた。
私は、剣を握り直した。
秘密を守りたい。
それは、今も変わらない。
でも。
それ以上に、守りたいものがある。
もう、迷っている時間は残されていなかった。




