第33話②、崩れる陣形
「イリス、こっち!」
ノアに引かれ、私は崩れた岩の陰へ滑り込んだ。
ほんの数秒、魔物の視線が外れた隙だった。
「腕、見せて」
「平気だよ」
「平気な人は、そんな顔をしない」
ノアは即座に言い返した。
私は言葉に詰まった。
ノアは私の左腕を慎重に確かめる。
鎧が歪んでいる。
肩も痛む。
「……しばらく、左腕は使わないで」
「でも、剣が……」
「右手で持てるだろうけど、今までと同じようには戦えない。
無理に動かしたら、もっと悪くなる」
「……うん」
私は頷いた。
分かっている。
自分の身体が、いつもどおりではないことくらい。
それでも。
岩の陰から見える戦場では、まだ騎士たちが戦っていた。
倒れた人を助けようとする人。
魔物を引きつけ、仲間の退路を作る人。
自分の傷を押して、前へ出ようとする人。
みんな、必死だった。
誰かを守るために。
誰かを失わないために。
それなのに。
「……足りない」
唇から、言葉が零れた。
「え?」
「私の力じゃ……足りないよ」
ノアは何も言わなかった。
私は剣を握り直した。
右手だけで握ると、柄がいつもより重く感じる。
たった一本の剣。
目の前の魔物を倒すことはできる。
仲間の隣で戦うこともできる。
でも、戦場のすべてを守ることはできない。
遠くで、悲鳴が上がった。
私は反射的に顔を上げた。
数人の騎士が魔物に押し込まれている。
助けに行きたい。
今すぐに。
けれど、ノアが立ち上がろうとした私の手首を掴んだ。
「待って」
「でも!」
「僕たちが飛び出しても、二人とも動けなくなるだけかもしれない」
「……っ」
「助けたいよ。僕だって、助けたい。
でも、今はどうすれば助けられるかを考えないと」
ノアの声は震えていた。
怖くないはずがない。
彼もまた、目の前で傷つく騎士たちを見ていた。
それでも、彼は考えることをやめなかった。
「イリス。僕たちにできることを探そう」
私は、ノアを見つめた。
その言葉は、以前にも聞いたことがあるような気がした。
一人で抱え込まなくていい。
仲間を頼っていい。
そう言われたことが、確かにあった。
でも。
胸の奥では、別の声が囁いていた。
(……もっと力があれば)
もっと強ければ。
誰も傷つかずに済むのに。
私は、胸元のペンダントを服の上から握りしめた。
『イリス……』
小さな声が聞こえた。
風に紛れるほど、か細い声。
『こわい……』
『たすけて……』
精霊たちの声だった。
私の瞳が揺れる。
精霊たちもまた、何かに怯えている。
けれど、声は途切れ途切れで、何を伝えようとしているのか、はっきりとは分からなかった。
「……ごめんね」
私は小さく呟いた。
「もう少しだけ、待っていて」
返事はなかった。
ただ、胸元のペンダントを握る手に、自然と力がこもっていた。
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そのとき、戦場の中央で大きな音がした。
巨大な魔物が、騎士たちの防衛線へ突進したのだ。
「防御陣形!」
アルフォンスの命令が飛ぶ。
騎士たちが盾を構え、魔法師たちが防御魔法を展開する。
幾重もの光が重なった。
だが。
巨大な魔物は、止まらなかった。
防御魔法が砕け散る。
盾が弾かれ、騎士たちが地面へ転がった。
「ぐあっ!」
「隊長!」
陣形の中央に、大きな穴が開いた。
そこへ、周囲の魔物たちが一斉に押し寄せる。
「陣形を立て直せ!」
アルフォンスが叫ぶ。
「負傷者を下げろ! 前衛は左右から挟み込まず、距離を保ってください!」
命令は正しい。
けれど、命令を実行するための時間がなかった。
巨大な魔物が振り返る。
その進路上にいた騎士たちが、慌てて逃げようとした。
一人が足を取られ、倒れる。
その隣で、別の騎士が彼を助けようと手を伸ばす。
逃げ遅れる。
私には、すべてが見えていた。
走れば、間に合うかもしれない。
けれど、今の腕では、先ほどのように身体を庇いきれない。
剣だけでは、あの巨体を止めることもできない。
それでも。
「イリス!」
ノアの声を背に、私は岩陰から飛び出した。
剣を右手に握り、倒れた騎士たちのもとへ走る。
「立って! 早く!」
「お前、何を――!」
「いいから!」
私は一人の騎士の腕を掴み、もう一人と一緒に引き起こした。
巨大な影が迫っている。
あと数秒。
それだけしかない。
騎士たちは歯を食いしばり、互いに肩を貸しながら走り出した。
私も後を追おうとした。
その瞬間。
足元で、地面が大きく揺れた。
「っ!」
体勢が崩れる。
視界が傾いた。
剣を握った手が、地面に触れそうになる。
目の前に、巨大な前脚が迫っていた。
逃げられない。
そう理解した瞬間、呼吸が止まった。
頭の中が、真っ白になる。
怖い。
でも、それ以上に。
守れないことが、怖かった。
誰かが傷つくのを、ただ見ていることが。
目の前で手を伸ばしている人を、助けられないことが。
何よりも、怖かった。
耳の奥で、精霊たちの声が重なる。
『イリス』
『こっちを見て』
『ひとりじゃないよ』
指先が、わずかに震えた。
私には、まだ使える力がある。
ずっと隠してきた力。
誰にも知られないように、必死に押し殺してきた力。
けれど、私はまだ、その力に手を伸ばせなかった。
使えば、隠してきたすべてが明らかになるかもしれない。
名前も。
正体も。
自分が、何者なのかも。
それでも――。
「イリス!」
聞き慣れた声が、戦場を貫いた。
次の瞬間、白い鎧が私の前へ滑り込む。
アルフォンスだった。
剣を構え、迫る前脚を真正面から受け止める。
凄まじい衝撃が走った。
アルフォンスの足元の地面が砕け、身体が大きく沈む。
「団長!」
私の叫び声が響く。
「下がりなさい、イリスさん!」
アルフォンスは歯を食いしばりながら言った。
「ここは私が抑えます!」
だが、その剣も長くは持たなかった。
巨大な力に押され、刃が軋む。
アルフォンスの腕が震えた。
このままでは、アルフォンスまで倒れてしまう。
私は、動けなかった。
目の前の騎士を助けたい。
自分を守ってくれた人を。
信じてくれた人を。
なのに、どうすればいいのか分からない。
隠してきた力を使えば、助けられるかもしれない。
でも、その先に何が待っているのか、分からなかった。
アルフォンスの剣が、また一段と沈む。
「……っ!」
私は、唇を噛んだ。
もう、時間がない。
このままでは。
誰かが――。
そのとき、戦場の反対側から、低く荒々しい声が響いた。
「アルフォンス! 退け!」
ヴィルヘルムだった。
総長は巨大な魔物へ向かって駆けていた。
その手には、黒い剣が握られている。
だが、彼が間に合うかどうかは、誰の目にも明らかだった。
間に合わない。
私には、そう見えた。
時間が、ひどくゆっくりと流れる。
アルフォンスの剣。
迫る前脚。
逃げ遅れた騎士たち。
そして、自分の手の中にある剣。
たった一本の剣では、届かない。
どれほど頑張っても。
どれほど剣を振るっても。
今の自分では、守りきれない。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
胸元のペンダントを、強く握りしめる。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
隠してきた自分に。
信じてくれた人たちに。
それとも、ずっと助けを求めている精霊たちに。
怖い。
本当は、今すぐ逃げ出したいくらい怖い。
もし、魔法を使ったら。
もし、私の正体を知られたら。
また、あの場所へ連れ戻されるかもしれない。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
(……でも)
目の前で、アルフォンスが私を守ろうとしてくれている。
ノアも、ヴィルヘルムも。
みんな、自分の身を危険に晒しながら、誰かを守ろうとしている。
それなのに。
私だけが、怖いからという理由で目を背けていいのだろうか。
(……違う)
私は、ゆっくりと目を開けた。
守りたい。
今度こそ。
目の前にいる人たちを、守りたい。
そのために、自分が何を選ばなければならないのか。
答えは、もう分かっていた。
たとえ、この力を知られることになったとしても。
たとえ、隠してきた秘密が明らかになったとしても。
今ここで、誰かを失うよりは。
――ずっと、いい。
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戦場の空に、黒い煙が立ち上っていた。
騎士たちの叫び声。
魔物の咆哮。
砕ける大地。
そのすべての中で、ヴィルヘルムは一瞬だけ、イリスの姿を見た。
少女は、剣を握ったまま立ち尽くしていた。
恐怖に震えているようにも見えた。
けれど、その目は逃げる場所を探してはいなかった。
何かを決めようとしている。
ヴィルヘルムは、そう感じた。
「……あの小娘」
彼は小さく呟く。
イリスが何かを隠していることには、以前から気づいていた。
ただの十二歳の少女ではない。
それでも、彼女が何を背負っているのかまでは分からなかった。
そして今。
その秘密が、戦場の行方を左右しようとしている。
そんな予感がした。
ヴィルヘルムは剣を握り直した。
「アルフォンス! あと少しだけ持ちこたえろ!」
「承知しました!」
返事と同時に、アルフォンスの足元で地面がさらに砕ける。
戦場は、限界に近づいていた。
そして、イリスもまた、選択の時を迎えようとしていた。
もう、剣だけでは守れない。
それを、彼女自身が誰よりも理解していた。




