第32話①、森の奥から来るもの
森が、震えていた。
風が吹いているわけではない。
木々の枝が揺れ、葉が舞い落ち、地面の土が小刻みに跳ねている。
そのすべてが、森の奥から近づいてくる何かの存在を告げていた。
「……おい、あれは何だ」
ヴィルヘルムの低い声が響いた。
騎士たちの視線が、一斉に森の奥へと向けられる。
木々の隙間から、巨大な影が姿を現した。
最初に見えたのは、黒い角だった。
次に、木の幹ほどもある太い前脚。
そして、暗闇の奥でぎらりと光る、赤い二つの瞳。
「な……」
誰かが息を呑んだ。
現れた魔物は、これまでに目撃されたどの魔物よりも大きかった。
四本の脚で地面を踏みしめ、その背丈は周囲の木々に迫るほど。
全身を覆う黒灰色の体毛の隙間から、岩のような外殻が覗いている。
頭部には、ねじれた二本の角。
その口元からは、剣にも似た牙が幾本も突き出していた。
魔物が一歩進む。
ズンッ、と地面が沈んだ。
もう一歩。
近くにあった木の根が、音を立てて裂けた。
「……あんな魔物、見たことがありません」
ミレーヌが呟いた。
その声には、隠しきれない緊張が滲んでいた。
第三騎士団に所属するミレーヌは、これまで数多くの魔物討伐を経験している。
危険な魔物も、群れを成す魔物も、決して珍しくはない。
それでも、目の前の存在には、これまでの経験が通用しないような異様さがあった。
「セドリック副総長……」
「分かっている」
呼ばれたセドリックも、魔物から目を離さずに答えた。
「全員、距離を取れ! あの魔物には不用意に近づくな!」
その指示が終わるより早く、魔物が顔を上げた。
赤い瞳が、騎士たちを捉える。
次の瞬間。
――グオオオオオオオオッ!!
凄まじい咆哮が森を揺らした。
耳を塞ぎたくなるほどの轟音。
空気が震え、足元の土が跳ねる。
近くにいた騎士の一人が、思わず片膝をついた。
「うっ……!」
私も顔をしかめた。
ただ大きな声というだけではない。
胸の奥を直接叩かれるような、奇妙な圧迫感があった。
息が詰まる。
指先が冷たくなる。
思わず胸元のペンダントを握りしめた。
(……何、これ)
なぜだろう。
この魔物を見た瞬間から、胸の奥がざわついて仕方がない。
初めて見る姿のはずなのに。
知らない魔物のはずなのに。
どこかで、似たような気配を感じたことがある気がした。
(……違う)
思い出してはいけない。
私は小さく首を振った。
今は考えている場合ではない。
目の前には、守らなければならない人たちがいるのだから。
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「総長、いかがいたしますか!」
アルフォンスが声を張り上げた。
ヴィルヘルムは魔物を見据えたまま、即座に指示を出す。
「まずは周囲の魔物を抑える! あいつに手を出すのは、一般の魔物を退けてからだ!」
「承知しました!」
「アルフォンス、前線を任せる。無理にあの巨体を仕留めようとするな!」
「はい!」
アルフォンスは第一騎士団へ向き直った。
「第一騎士団、隊列を維持! 負傷者を後方へ移動させ、魔物の突破を防いでください! 単独行動は厳禁です!」
「了解!」
騎士たちが一斉に動く。
しかし、魔物たちの動きは、すでに先ほどまでとは違っていた。
グレイウォルフたちが突然進路を変え、騎士の間をすり抜けようとする。
別の魔物は、前方に仲間が倒れていても止まらず、その身体を踏み越えて走っていった。
「なんだ、こいつら……!」
「こちらを狙っているわけじゃないのか!?」
騎士たちの困惑が広がる。
彼らが対処しているのは、単なる魔物の群れではなかった。
何かに追われ、逃げ場を失い、正常な判断すらできなくなった生き物たちだった。
そして、その原因と思われる巨大な魔物が、ゆっくりと頭をもたげる。
赤い瞳が、騎士たちの隊列を見渡した。
まるで、邪魔なものを見つけたかのように。
「……来るぞ!」
ヴィルヘルムが叫んだ。
巨体が沈み込む。
前脚に力が込められた。
そして――。
魔物が、走った。
「全員、散開しろ!!」
ヴィルヘルムの声と同時に、騎士たちが左右へ飛び退く。
直後、巨大な身体が隊列のあった場所を突き抜けた。
轟音。
地面が砕け、土砂が舞い上がる。
魔物の進路上にあった木々が、まるで小枝のようにへし折られていった。
「うわあああっ!」
逃げ遅れた騎士が、衝撃に巻き込まれて吹き飛ばされた。
「負傷者を救助しろ!」
アルフォンスが叫ぶ。
近くの騎士たちがすぐさま駆け寄った。
私も反射的にそちらへ向かおうとしたが、ノアに腕を掴まれた。
「待って、イリス!」
「でも、あの人が!」
「今は僕たちの前にも魔物がいる!」
ノアの言葉に、私ははっと顔を上げた。
目の前には、こちらへ迫るグレイウォルフ。
その後ろにも、別の魔物が続いている。
負傷者を助けたい。
けれど、ここを離れれば、今度は別の誰かが危険にさらされる。
「……っ」
私は歯を食いしばった。
「分かってる……!」
剣を握り直し、迫る魔物へ向き直る。
まずは、目の前の危機を退ける。
助けられる人を、確実に助ける。
それが今、自分にできることだった。




