第28話②、笑顔の裏側
同じ頃。
王宮の一室で、セレスティアは窓の外を眺めていた。
眼下には、騎士団の訓練場が広がっている。
遠くからでも、白い制服に赤い線が入ったアルセリア王国の騎士たちの姿はよく目立った。
その中に、小さな白髪の少女がいる。
「……あの子」
昨日、泣きながら部屋を飛び出していった少女。
イリス。
そう名乗っていた。
セレスティアは、無意識のうちに窓辺へ近づいていた。
少女は騎士たちの説明を聞きながら、熱心に頷いている。
ときどき、嬉しそうに目を輝かせる。
誰かと話すときには、柔らかく笑う。
昨日の涙など、最初からなかったかのように。
「……どうして、そんなに笑えるの?」
思わず、呟いていた。
あれほど泣いていたのに。
あれほど苦しそうだったのに。
どうして、また笑えるのだろう。
自分には、分からなかった。
一度傷ついた心は、簡単には元に戻らない。
少なくとも、セレスティアはそう思っていた。
だからこそ、傷つく前に距離を置く。
誰にも期待しない。
誰にも心を許さない。
そうすれば、失うものもなくなる。
そうやって、ずっと生きてきた。
「……殿下?」
背後から声がした。
振り返ると、侍女が一礼して立っていた。
「午後のお茶の時間でございます。ご用意いたしましょうか?」
「……いいえ。今はいらないわ」
「かしこまりました」
侍女が下がろうとした、そのとき。
「ねえ」
セレスティアは、思わず呼び止めていた。
「アルセリア王国の騎士団は、今日も訓練場を使うの?」
「はい。合同訓練に向けた見学と実地確認が予定されております」
「そう……」
セレスティアは再び窓の外を見た。
白い髪の少女が、誰かの話を聞いて笑っている。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
どこかで見たことがあるような。
そんな気がした。
けれど、思い出そうとすると、頭の奥に鈍い痛みが走る。
「……もういいわ。下がって」
「かしこまりました」
侍女が去る。
セレスティアは、窓の外から目を離せなかった。
「……気のせいよ」
そう呟き、カーテンを閉じる。
少女の姿が見えなくなる。
それなのに、胸の奥のざわめきは消えなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
午後の実地確認は、訓練場の隣にある模擬戦区画で行われた。
魔物との戦闘を想定した障害物が設置され、騎士たちはそれぞれの役割を確認していく。
「今回は、二人一組で動いてもらいます」
リュミエール王国の騎士が説明した。
「実際の戦闘では、相手の動きに合わせて互いを補うことが重要です。攻撃だけでなく、防御や退路の確保も意識してください」
私はノアと顔を見合わせた。
「僕たちが組むんだね」
「うん! よろしくね、ノア!」
「こちらこそ」
私たちは指定された区画へ向かった。
模擬戦が始まる。
私は相手役の騎士の動きを見極めながら、剣を構えた。
相手の攻撃を受け流し、ノアが動きやすいように位置を変える。
ノアもまた、私の動きに合わせて攻撃と防御を切り替えていた。
最初はぎこちなかった連携も、何度か繰り返すうちに少しずつ噛み合っていく。
「いい感じだね!」
「うん。次は右から来るよ!」
「分かった!」
私は身体をひねり、相手の剣を受け流した。
そのまま一歩踏み込み、相手の脇を抜ける。
動きが止まったところで、終了の合図が響いた。
「そこまで!」
私たちは剣を下ろした。
「お疲れさま、イリス」
「ノアも!」
汗を拭きながら、私は笑った。
身体を動かしている間は、余計なことを考えずに済んだ。
今は、騎士としてできることに集中しよう。
そう思えた。
けれど、模擬戦区画の外へ出たときだった。
「……あら」
聞き覚えのある声がした。
私の身体が、ぴたりと止まる。
そこには、セレスティアが立っていた。
王女の周囲には侍女が控え、数人の騎士が礼を取っている。
セレスティアは私を見ると、ほんの少しだけ眉を動かした。
「まだ訓練を続けていたのね」
「……はい。実地確認をしておりました」
「そう」
短い返事。
それだけで会話が終わりそうになった。
けれど、セレスティアはなぜかその場を動かなかった。
私も、何を言えばいいのか分からなかった。
本当は、聞きたいことがある。
どうして、そんなに冷たいの?
どうして、私のことを忘れてしまったの?
どうして――。
でも、そのどれも口にできなかった。
「……セレスティア殿下」
私は、ゆっくりと頭を下げた。
「本日は、見学いただき、ありがとうございます」
礼儀正しく。
失礼のないように。
騎士として、正しく。
セレスティアは、じっと私を見つめた。
「……あなたは」
何かを言いかける。
けれど、すぐに口を閉じた。
「……いいえ。何でもないわ」
セレスティアは踵を返した。
「引き続き、励みなさい」
「……はい。ありがとうございます」
遠ざかっていく背中を、私は見送った。
たったそれだけのやり取り。
それなのに、胸が苦しかった。
昔は、名前を呼べば振り返ってくれた。
笑いかければ、笑い返してくれた。
悲しいときには、そばにいてくれた。
それが、当たり前だった。
でも今は。
(……ティア)
声には出さず、心の中で呼ぶ。
昔のあなたに、もう一度会いたい。
そう願うことさえ、許されないのだろうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その夜。
セレスティアは、自室の机に向かっていた。
けれど、開いた本の文字は、ほとんど頭に入ってこなかった。
昼間の光景が、何度も思い返される。
白い髪の少女。
真剣な眼差し。
そして、どこか懐かしい笑顔。
「……イリス」
名前を呟く。
知らない名前のはずだった。
初めて会った騎士。
それだけのはずだった。
なのに。
どうして、こんなにも気になるのだろう。
セレスティアは胸元からペンダントを取り出した。
小さな装飾品。
かつて、誰かと一緒に笑っていた頃の記憶をつなぎ留めるもの。
その表面を、指先でそっとなぞる。
「……私は、もう誰も失いたくない」
小さく呟いた。
誰かを大切に思えば、失うことが怖くなる。
失うことが怖くなれば、その人に近づけなくなる。
だから、最初から誰も大切にしなければいい。
そうすれば、もう傷つかずに済む。
それなのに。
今日、あの少女が笑っているのを見たとき。
ほんの一瞬だけ。
もう一度、誰かと笑い合いたいと思ってしまった。
セレスティアはペンダントを握りしめた。
「……だめよ」
自分に言い聞かせる。
「もう、あの頃には戻れないのだから」
窓の外では、夜風が静かに木々を揺らしていた。
その風の音に紛れて、小さな光が一つ、窓辺を横切った。
セレスティアは気づかなかった。
その光が、イリスのそばにいる精霊たちと同じものであることにも。
そして、二人の再会を見守るように、淡い光が王宮の屋根を越えて飛んでいったことにも。
まだ、二人は知らない。
閉ざされた心の奥で、同じ記憶が、少しずつ目を覚まし始めていることを。




