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第26話②、床に落ちた食事

昼食は、訓練施設に併設された休憩室で取ることになった。


騎士たちがそれぞれ席につき、給仕の人たちが食事を運んでくる。


焼きたてのパンに、温かなスープ。


香草で味付けされた肉料理と、彩りのよい野菜。



「わあ……おいしそう!」



思わず目を輝かせると、ノアが笑った。



「イリスって、本当に食べ物を見ると元気になるね」


「だって、おいしいものは幸せのかたまりだよ!」


「その理屈は初めて聞いたなあ」


「えっ、そうなの?」


「うん。今度から僕も使おうかな」



私たちは小さく笑い合った。


そのときだった。



「楽しそうね」



すぐそばから、声がした。


私の笑顔が、ほんのわずかに揺らぐ。


セレスティア様だった。


彼女は私の向かい側に立ち、テーブルの上に並んだ料理へ視線を落とした。



「あなたは、ずいぶんと気楽なのね」


「……え?」


「昨日も思ったけれど、あなたは自分の立場を理解しているのかしら」



休憩室の空気が、わずかに変わった。


周囲の騎士たちが、何事かと私たちを見る。



「あなたはアルセリア王国の第1騎士団に所属しているのでしょう?」


「はい」


「それなのに、まるで遠足にでも来た子どものようにはしゃいで。騎士という立場に、少しは責任を感じているの?」



私は言葉を失った。


責任。


もちろん、感じている。


私が騎士になりたいと思ったのは、遊び半分ではない。


守りたい人がいるから。


もう二度と、大切な人を失いたくないから。


そのために、ここまで来た。



「……私は」


「年齢が幼いことを言い訳にするつもりなら、やめておいたほうがいいわ」



セレスティア様は冷ややかに告げた。



「周囲の人々があなたを特別扱いしているのは、あなたが幼いからでしょう?

 その期待に応えられなかったとき、困るのはあなた自身よ」



私は唇を噛んだ。


言い返すことはできなかった。


彼女の言葉が、すべて間違っているとは思えなかったからだ。


自分が十二歳であること。


周囲よりも幼いこと。


それでも騎士団に入ったこと。


全部、自分で選んだ道だった。



「……おっしゃるとおりです」


私は顔を上げた。


「私はまだ、学ばなければならないことがたくさんあります。だから、皆さんから教えていただいています」


「そう」



セレスティア様の目は、少しも和らがなかった。


「ならば、せめて食事の場くらい、静かに過ごしたらどうかしら」


その言葉とともに、彼女の手がテーブルの端に置かれた皿へ伸びた。



そして――。


ガシャンッ!


鋭い音が、休憩室に響き渡った。


目の前で、皿が床に落ちた。


料理が散らばる。


スープが床に広がり、パンが転がった。


誰も、すぐには動けなかった。



「……あ」


私の喉から、小さな声が漏れた。


セレスティア様は、床に落ちた食事を見下ろしていた。


「失礼。手が滑ってしまったわ」



その声は、ひどく淡々としていた。


私は、床に散らばった食事を見つめた。


(……あれ?)


指先が、震え始める。


床に散らばった食事。


責められる声。


冷たい床。


逃げ場のない部屋。


脳裏に、忘れたはずの光景がよみがえる。



――どうして食べないの?


――せっかく用意してあげたのに。


――あなたには、これで十分でしょう?



(……違う)


ここは、あの場所じゃない。


目の前にいるのは、研究員ではない。


分かってる。


ちゃんと、分かってるのに。


身体が、言うことを聞かなかった。



「……っ」



息がうまく吸えない。


視界が揺れる。


誰かが何かを言っている。


けれど、耳に入ってこない。



「イリス?」



ノアの声が聞こえた。


彼が心配そうに手を伸ばす。


その瞬間、私はびくりと肩を震わせた。



「ご、ごめんなさい……!」



何に謝っているのか、自分でも分からなかった。



「イリス、どうしたの?」


「ごめんなさい、ごめんなさい……!」



涙があふれた。


止めようとしても、止まらない。


(……笑わなきゃ)


ちゃんと笑っていなきゃ。


そう思うのに、口元が引きつるだけだった。



「……っ、やだ……」



小さく呟いた声は、自分でも驚くほど震えていた。


もう、無理だった。


ここにいたら、壊れてしまう。



「失礼、します……!」



私は椅子を引き、休憩室から飛び出した。



「イリス!」



後ろから、ノアの声が聞こえた。


けれど、振り返ることはできなかった。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




廊下を走る。


どこへ向かえばいいのかも分からない。


ただ、あの場所から離れたかった。


誰にも見られたくなかった。


泣いているところなんて。


こんな、みっともないところなんて。



「……っ、はぁ……っ」



角を曲がったところで、足がもつれた。


壁に手をついて、どうにか倒れるのをこらえる。


涙で前が見えなかった。



「……なんで」



声が震える。



「なんで、こんな……」



ティアに会えた。


ずっと会いたかった。


生きていてくれたことが、嬉しかった。


また笑い合える日が来るかもしれないと、ほんの少しだけ期待していた。


なのに。



どうして、こんなに苦しいのだろう。



「……ティア」



その名前を口にした瞬間、胸が痛んだ。


あの子は、もう私の知っているティアではないのだろうか。


それとも。


私のことを、本当に忘れてしまったのだろうか。



「……っ、う……」



涙が、またあふれた。


「イリスさん」



不意に、落ち着いた声が聞こえた。


顔を上げると、アルフォンス団長が立っていた。


いつも冷静な彼が、今は心配そうに眉を寄せている。



「……アルフォンス、団長」


「大丈夫ですか」



(……大丈夫)


そう答えなければ。


いつもみたいに笑わなければ。


けれど、私はもう笑えなかった。



「……ごめんなさい」


「謝る必要はありません」


「でも、私……」



言葉が続かない。


アルフォンスは、すぐには問いたださなかった。


ただ、私の目線に合わせるように少しだけ膝を折った。



「今は、話さなくても構いません」



静かな声だった。



「落ち着ける場所へ行きましょう。歩けますか?」



私は小さく頷いた。


アルフォンスが差し出した手を、そっと取る。


その手は温かかった。


研究施設で感じた、冷たい手とは違う。


そう思った途端、目から、また一粒の涙が落ちた。


団長は何も言わず、私が落ち着くまで、ゆっくりと歩調を合わせてくれた。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




その頃。


訓練施設の廊下には、一人の少女が立っていた。


セレスティアだった。


彼女は、イリスが去った方向をじっと見つめていた。


床に落ちた皿の音。


泣きながら謝る少女の声。


そして、逃げるように去っていった小さな背中。


その光景が、頭から離れなかった。



「……どうして」



セレスティアは、誰にも聞こえない声で呟いた。


どうして、あんな顔をしたのだろう。


どうして、あんなに怯えていたのだろう。


自分は、ただ少し厳しいことを言っただけ。



そう思おうとした。


けれど。



――本当に、それだけだったのだろうか。



セレスティアは自分の手を見下ろした。


指先が、かすかに震えていた。


その震えを隠すように、ぎゅっと手を握りしめる。



「……関係ないわ」



自分に言い聞かせる。


あの子は、ただの騎士。


自分とは何の関係もない。


そうでなければ、困るのだから。


セレスティアは踵を返した。


その表情は、いつもと変わらず冷たいままだった。


けれど、その胸の奥では。


ずっと閉じ込めてきた何かが、小さく軋み始めていた。



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