第25話③、歓迎の夕食会
歓迎の夕食会が終わったのは、夜もすっかり更けた頃だった。
客室へ戻る廊下を、私は一人で歩いていた。
正確には、少し前までノアが一緒だった。
けれど、別れ際に「少し疲れたから、先に休むね」と笑ってみせたら、ノアは心配そうな顔をしながらも、それ以上は何も聞かなかった。
団長にも、体調が悪いのなら休むようにと言われた。
大丈夫です。
そう答えた声は、ちゃんといつもどおりだったはずだ。
誰にも気づかれなかった。
だから、これでいい。
私は自分に言い聞かせながら、客室の扉を開けた。
「……ただいま」
小さな声が、静かな部屋に落ちる。
もちろん、返事はない。
扉を閉め、鍵をかける。
それから、私はゆっくりと壁に背中を預けた。
「…………」
笑顔を作ろうとした。
いつものように。
何でもないことのように。
けれど。
「……っ」
唇が震えた。
胸の奥に押し込められていたものが、堰を切ったようにあふれ出す。
「……なんで」
ぽつりと、声がこぼれた。
「なんで……あんなふうに……」
王女様の顔が、頭から離れない。
冷たい瞳。
突き放すような言葉。
私を、ただの見知らぬ騎士として見つめる表情。
あんなにも会いたかったのに。
もう一度会えたら、伝えたいことがたくさんあったのに。
元気だった?
あのときの約束、覚えてる?
私は、ずっと忘れていなかったよ。
何度も何度も、心の中で繰り返してきた言葉。
それなのに。
「……会えたのに」
私は胸元のペンダントを握りしめた。
「やっと……会えたのに……っ」
ぽたり、と。
頬に伝った涙が、白い制服の胸元に落ちた。
最初の一滴をきっかけに、涙が次々とあふれ出した。
止めようとしても、止まらない。
声を押し殺そうと、唇を噛みしめる。
けれど、喉の奥から嗚咽が漏れた。
「……っ、う……」
誰にも聞かれたくなかった。
騎士団の仲間にも。
団長にも。
ノアにも。
ましてや、あの子には。
自分がこんなにも傷ついていることを、知られたくなかった。
だって、あの子は何も知らないのかもしれない。
今の私が、誰なのか。
あの場所を出てから、どんなふうに生きてきたのか。
だから、責めることなんてできない。
できるはずがない。
「……私、ちゃんと……笑ってたよね……?」
誰に尋ねるでもなく、私は呟いた。
「ちゃんと、騎士らしく……できてたよね……?」
返事はなかった。
私はその場にしゃがみ込んだ。
膝を抱え、顔を埋める。
「……会いたかったよ……」
その言葉は、ずっと胸の奥に閉じ込めていたものだった。
「ずっと……会いたかった……」
もう一度、名前を呼びたかった。
あの頃みたいに、笑い合いたかった。
ただ、隣にいてほしかった。
「……っ、うぅ……」
涙が止まらない。
誰もいない部屋で、私は初めて、今日一日ずっと我慢していた悲しみを吐き出した。
騎士として。
誰かを守る者として。
決して見せまいとしていた涙だった。
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どれくらい、そうしていただろう。
ふと、頬に柔らかな風が触れた。
「……え?」
私は顔を上げた。
窓は閉まっている。
部屋の中に、風が吹き込むはずはなかった。
けれど、目の前に小さな光が浮かんでいた。
淡い青色の光。
その隣には、緑色の光。
さらに、金色や白色の光が、ひとつ、またひとつと集まってくる。
「……精霊さん?」
私が呟くと、青い光がふわふわと近づいてきた。
『イリス』
頭の中に、幼い子どものような声が響く。
『ないてるの?』
「……っ」
私は慌てて目元を拭った。
「な、泣いてないよ?」
精霊たちが、一斉に動きを止めた。
それから、青い光が私の頬に触れる。
『うそ』
『いっぱい、ないてる』
『かなしいの?』
次々と声が響いた。
私は困ったように笑った。
「……ちょっとだけね」
『ちょっとじゃないよ』
『こころが、いたいの?』
「…………」
答えられなかった。
精霊たちは、人間の言葉をすべて理解できるわけではない。
それでも、心の揺れには敏感だった。
私が無理に笑っていることも。
本当は泣きたいのに、ずっと我慢していたことも。
小さな光たちは、ちゃんと感じ取っていた。
『イリス、ずっと、がんばってた』
『いっぱい、がまんしてた』
『えらい、えらい』
青い光が、そっと私の頭の上に浮かんだ。
まるで、撫でてくれているようだった。
「……っ、そんなこと……」
また、涙があふれた。
「私……何も、できなかったよ……」
私は震える声で続けた。
「せっかく会えたのに……何も言えなかった……。
あの子が、どんな気持ちでいるのかも……何も、分からなかった……」
あの子を責めたいわけじゃない。
ただ、悲しかった。
私が知っているあの子が、遠くなってしまったことが。
あの場所で交わした約束が、今も二人をつないでいるのかどうかさえ、分からなかったことが。
「……私のこと、忘れちゃったのかな……」
口にした途端、胸がぎゅっと締めつけられた。
精霊たちは、しばらく何も言わなかった。
やがて、緑色の光が私の手元へ降りてきた。
『わすれたか、わすれてないか』
『それは、まだ、わからない』
その声は、いつものように幼かった。
けれど、不思議なくらい真っ直ぐだった。
『でもね』
金色の光が、私の胸元で小さく瞬いた。
『イリスが、たいせつにしてたこと』
『なくならないよ』
「……え?」
『いっしょに笑ったこと』
『うれしかったこと』
『だいすきだったこと』
『ぜんぶ、イリスのなかにあるよ』
小さな光たちが、私の周りをゆっくりと回り始めた。
『だから、なくなってない』
『イリスが、わすれなくてもいいんだよ』
その言葉に、私は目を見開いた。
忘れなくてもいい。
ずっと、忘れてはいけないと思っていた。
忘れたら、あの子と過ごした時間まで消えてしまいそうで。
でも、思い出すたびに苦しくなってしまうから。
もう思い出さないほうがいいのかもしれないと、何度も考えた。
それでも。
「……忘れたく、ないよ……」
私は、涙をこぼしながら微笑んだ。
「私……あの子と一緒にいた時間、大好きだったんだもん……」
『うん』
『しってる』
『イリス、あのとき、いっぱい、わらってた』
精霊たちの光が、少しだけ明るくなる。
『いまも、わらってる』
『でも、ないてもいいよ』
私の瞳から、また涙が落ちた。
けれど、今度の涙は、さっきまでとは少し違っていた。
ずっと、笑っていなければいけないと思っていた。
笑っていれば、いつか良いことがある。
そう教えてくれたお姉ちゃんの言葉を、今でも信じている。
だから、笑おうとしてきた。
どんなに辛くても。
どんなに悲しくても。
それでも、笑顔でいようとしてきた。
けれど。
「……泣いても、いいの?」
『いいよ』
『いっぱい、ないていいよ』
『イリスが、つらいときは』
『ぼくたち、ここにいるよ』
青い光が、私の頬に触れた。
冷たくも、熱くもない。
ただ、そっと寄り添うような優しさだった。
私は、その小さな光を両手で包み込むようにした。
「……ありがとう」
声は、まだ少し震えていた。
「……ありがとう、精霊さん」
精霊たちは、嬉しそうに光を揺らした。
やがて、私はゆっくりと立ち上がった。
目元は赤く、頬には涙の跡が残っている。
いつものような笑顔ではない。
それでも。
「……明日も、頑張らなくちゃね」
そう呟くと、青い光が私の周りをくるりと回った。
『がんばるのも、いいよ』
『でも、むりは、だめ』
「……うん」
私は、今度こそ素直に頷いた。
胸元のペンダントを握りしめる。
悲しみが消えたわけではない。
あの子との距離が、縮まったわけでもない。
明日になれば、また笑顔を作らなければならないかもしれない。
それでも。
今夜は、泣いてもいいのだと思えた。
忘れなくてもいいのだと思えた。
あの子と過ごした時間を、大切な思い出のまま抱えていてもいいのだと。
「……おやすみ、みんな」
『おやすみ、イリス』
『また、あしたね』
小さな光たちは、ひとつずつ淡くなり、やがて部屋の中から消えていった。
静けさが戻る。
私は窓辺に歩み寄り、夜空を見上げた。
遠い空には、星が瞬いている。
「……笑う門には、福来る」
お姉ちゃんから教えてもらった言葉を、そっと口にする。
今はまだ、笑うことが少しだけ難しい。
それでも。
「……明日は、今日より少しだけ、笑えますように」
そう願って、私は目を閉じた。
その夜。
私は久しぶりに、誰にも隠さず涙を流した。
そして、ほんの少しだけ。
自分の心を、許すことができたのだった。




