第20話③、小さな町の夜
夜。
食事を終えた私は、部屋に戻る前に宿の裏手へ出ていた。
町の明かりから少し離れた場所には、小さな庭がある。
もちろん、宿の敷地から出るつもりはない。
外へ出ることも、近くにいた騎士に伝えてある。
夜風が頬を撫で、木々の葉がさらさらと音を立てた。
私は胸元に手を伸ばした。
服の下に隠したペンダント。
それを指先でそっと握りしめる。
「……リュミエール王国」
小さく呟いた言葉は、夜の静けさに溶けていった。
あの子が生まれ育った国。
もうすぐ、そこへ行くんだ。
そう思うと、胸の奥が落ち着かなくなる。
(……元気にしているかな)
研究施設で過ごした日々。
辛いことも、悲しいことも、たくさんあった。
それでも、あの子と一緒にいた時間は、私にとって大切な思い出だった。
二人で励まし合って、何度も笑い合って。
いつか、自由になれたら。
そんな話をしたこともあった。
でも、あの場所での記憶は、楽しいものばかりではない。
忘れたくても、忘れられないことがある。
もう二度と、あの場所には戻りたくない。
もう二度と、大切な人を失いたくない。
それなのに。
どうして、こんなにも胸がざわつくのだろう。
「……大丈夫」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
「あの場所は、もう遠いところにあるんだから……」
リュミエール王国へ向かうことと、あの研究施設は関係ない。
そう思おうとしても、なぜか落ち着かなかった。
「私は、もう大丈夫だから」
そう言って、いつもの笑顔を浮かべる。
けれど、誰もいない庭で浮かべたその笑顔は、自分でも少しぎこちない気がした。
そのとき。
森の向こうで、淡い光が一瞬だけ瞬いた。
「……え?」
私は顔を上げた。
光は、もう消えている。
見間違いだったのだろうか。
それとも……。
私はペンダントを握りしめたまま、しばらく森を見つめていた。
夜風が、静かに吹き抜けていく。
「……気のせい、かな」
そう呟きながらも、視線を森から逸らせない。
胸元のペンダントをそっと離し、今度は空いた手を軽く持ち上げた。
「ねえ、精霊さん」
周囲に誰もいないことを確かめてから、私は小さく囁いた。
「森の様子はどう?」
すると。
さらり、と風が吹いた。
木々の葉が揺れ、淡い光が私の指先に集まっていく。
小さな光の粒が二つ、三つ。
やがて、それらは私の周囲をくるくると回り始めた。
『……イリス』
耳元で、幼い子どものような声が響いた。
「うん。どうしたの?」
『森が、変なの』
私は思わず表情を引き締めた。
「変って?」
『いつもいる子たちが、奥へ逃げているの。木々も、土も……みんな、怯えている』
「怯えている……?」
私は森の方へ目を向けた。
精霊たちは、人間には感じ取れない自然の変化を敏感に察知する。
そんな精霊たちが怯えているということは、ただ魔物が増えているだけではないのかもしれない。
「魔物が原因なの?」
『分からない。でも……』
光の粒が、不安そうに揺れた。
『森の奥から、嫌な気配がするの』
私は唇を結んだ。
昼間、街道で遭遇したグレイウォルフたち。
宿の主人が話していた、森の近くで増えているという魔物の目撃情報。
そして、先ほど見えた淡い光。
それらが、頭の中で少しずつつながっていく。
「……そっか。教えてくれてありがとう」
『イリスは、行くの?』
心配そうな声だった。
私は一瞬だけ黙り込んだ。
森の異変が気になる。
精霊たちが怯えているのなら、何か力になれることがあるかもしれない。
けれど、今は任務の途中だ。
アルフォンスにも、勝手な行動はしないようにと言われている。
それに、私一人で何とかしようとしなくてもいい。
今は、頼れる仲間がいるのだから。
「今は、行かないよ」
私はそっと微笑んだ。
「ちゃんとみんなに相談してからにする。だから、もう少しだけ様子を見ていてくれる?」
『……うん』
「何か分かったら、また教えてね」
光の粒が、嬉しそうに私の周りを一度回った。
そして、夜の闇へと溶けるように消えていった。
再び静寂が訪れる。
私は森を見つめながら、胸元のペンダントを握りしめた。
「……何が起きているんだろう」
答えてくれる者は、まだいない。
ただ、森の奥に何かがある。
それだけは、確かな気がした。
(……団長に、報告しなくちゃ)
私は小さく息を吐くと、宿へ戻るために踵を返した。
明日も、任務は続く。
今は、自分にできることをしよう。
そう心に決めて。




