第9話、異変
――ズン。
地面が揺れた。
「……っ」
「……なんでしょう」
ノアが周囲を見回す。
「分からない」
イリスは剣の柄に手をかける。
さっきまでとは違う。
空気が重い。
森の中にいる精霊たちも、どこか怯えているようだった。
《来るよ》
《近い》
《気をつけて》
「……」
イリスの表情が少しだけ強張る。
こんなことは、初めてだった。
「全員、止まってください」
アルフォンスの声が響く。
騎士たちが足を止める。
魔法師団も動きを止めた。
「総長」
アルフォンスがヴィルヘルムを見る。
「ああ」
ヴィルヘルムも森の奥を見つめていた。
「……気づいているか?」
「ええ」
アルフォンスの目が細くなる。
「この気配は、討伐対象として報告されていた魔物とは違います。それも一体だけじゃないです。」
「俺もそう思う」
ヴィルヘルムが低い声で答えた。
第一騎士団の騎士たちも、すでに武器を構えている。
その空気に。
イリスは息を呑んだ。
第一騎士団。
この国で最も強い騎士たち。
その人たちが。
警戒している。
(……そんなに、強いの?)
イリスは森の奥を見る。
「全員、警戒してください」
アルフォンスが指示を出した。
「魔法師団は後方へ。騎士団は防御陣形を」
「了解!」
「は、はい!」
魔法使いたちが慌てて後ろへ下がる。
騎士たちが前へ出た。
けれど。
――遅かった。
「――来ます!」
誰かが叫んだ。
「え?」
イリスが振り返る。
その瞬間。
ドゴォォォンッ!!
巨大な何かが木々をなぎ倒した。
「きゃあああっ!」
「うわあっ!」
森の木が折れる。
土が舞う。
視界が一瞬で白く染まった。
「全員、散れ!」
アルフォンスの声。
けれど。
魔物は想定していた方向からではなかった。
「――右だ!」
ヴィルヘルムが叫ぶ。
巨大な影が横から飛び出してきた。
「うわあああっ!」
騎士が吹き飛ばされる。
「騎士団、迎撃!」
「無理です! 速すぎる!」
魔法師団が悲鳴を上げる。
「魔法を!」
「詠唱が間に合いません!」
「早く!」
「無理です!」
混乱が広がった。
魔法陣を展開する者。
逃げようとする者。
仲間を助けようとする者。
一瞬で隊列が崩れた。
「落ち着け!」
ヴィルヘルムが怒鳴る。
だが。
魔物が腕を振るう。
「――っ!」
騎士が盾ごと吹き飛ばされた。
「負傷者!」
「こちらにも!」
「治療班を!」
叫び声が飛び交う。
イリスはその光景を見つめた。
「……!」
強い。
さっきまでの魔物とは。
まるで違う。
大きさだけじゃない。
速さも。
力も。
気配も。
全部が違う。
「イリス!」
ノアが叫んだ。
「こっち!」
「はい!」
イリスはノアのもとへ駆ける。
「魔法師団を下げて!」
「分かった!」
二人で魔法使いたちを後方へ誘導する。
しかし。
「――っ!」
魔物がこちらへ向きを変えた。
「来る!」
ノアが剣を構える。
イリスも剣を握った。
「僕が受ける!」
「ノアさん!」
魔物が突っ込んでくる。
「うおおおっ!」
ノアが剣を振る。
ガキィンッ!
「ぐっ……!」
受け止めた。
けれど。
「ノアさん!」
押し負ける。
イリスが横から斬り込む。
「はあっ!」
魔物の腕に傷が入った。
だが。
「……浅い」
イリスは呟いた。
そのとき。
「イリス!」
アルフォンスの声がした。
「はい!」
振り返る。
アルフォンスがこちらへ駆けてくる。
「総長!」
ヴィルヘルムも反対側から走ってきた。
「アルフォンス!」
「はい!」
「俺は向こうへ行く!」
ヴィルヘルムが指差した。
そこでは別の場所で魔物が暴れ、騎士たちが押されている。
「負傷者が多い!」
「分かりました!」
アルフォンスが頷く。
「こちらは私が!」
「頼んだ!」
ヴィルヘルムはすぐに踵を返した。
そして。
「――総長!」
イリスが思わず呼び止める。
ヴィルヘルムが振り返る。
「どうした?」
「……」
イリスは一瞬、言葉に詰まった。
何を言おうとしたのか、自分でも分からない。
ただ。
この人が離れることが。
少しだけ怖かった。
「……気をつけてください」
ヴィルヘルムは一瞬だけ目を見開き。
それから、ニッと笑った。
「お前もな」
そう言って。
ヴィルヘルムは別方向へ走っていった。
「アルフォンス団長!」
「分かっています」
アルフォンスが剣を構える。
「ここは私たちで食い止めます」
「はい!」
イリスも構える。
けれど。
アルフォンスが一歩前へ出たところで。
森の別方向から叫び声が響いた。
「団長!」
「こちらにも負傷者が!」
アルフォンスがそちらを見る。
「……!」
イリスは気づいた。
こちらだけではない。
森のあちこちで戦闘が起きている。
隊列は完全に分断されていた。
「アルフォンス団長……」
「……」
アルフォンスが短く息を吐く。
「皆さん。ここはあなたたちに任せます。あちらの魔物を倒したらすぐに戻ってきますので少し耐えていてください。危険だと思ったら逃げていただいて構いません。必ず助けに来ます」
「……え?」
「私は向こうの救援に向かいます」
「でも――」
「すぐに戻ります」
アルフォンスはイリスを見る。
「それまで、絶対に無理をしないでください」
「……はい」
「ノア。彼女を頼みます」
「分かりました」
ノアが頷く。
アルフォンスは一度だけイリスを見ると。
すぐに走り出した。
「アルフォンス団長!」
イリスが呼ぶ。
けれど。
その姿は、木々の向こうへ消えていった。
「……」
残されたのは。
イリス。
ノア。
数人の騎士。
そして。
怯えている魔法師団。
目の前には。
巨大な魔物。
「……」
イリスは剣を握る。
手が震えているわけではない。
怖くないわけでもない。
ただ。
胸の奥で。
何かが。
静かに目を覚まそうとしていた。
《イリス》
精霊の声。
《どうするの?》
「……」
イリスは周囲を見る。
負傷した騎士。
動けない魔法使い。
怯える仲間。
そして。
自分たちだけを残して、離れていったアルフォンス。
「……どうするって」
イリスは小さく呟いた。
そして。
剣を構え直す。
「決まってます」
いつもの笑顔ではない。
けれど。
その瞳には、確かな光が宿っていた。
「みんなを、守ります」
その言葉を。
誰も予想していなかった。
――このとき。
少女はまだ知らない。
自分が初めて。
「守られる側」から「守る側」へ踏み出そうとしていることを。




