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雨霧の回遊魚  作者: お麩
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第一章 三話

「盲点でした」


 お行儀よくキッチンの安物椅子に座った彼女は、困ったように小首を傾げた。

 

「まさか、この国が原則は夫婦別姓だなんて」


「……この国に何年住んでらっしゃるんですか」


「誕生は十九年前ですね。五月で二十年になります」


(十九、未成年じゃないか)

 

 もはや現実逃避の思考しか出てこない。

 この国の成人は二十一だ。夫婦別姓も今に始まったことではない。昔の彼女が時折、異性がどうのと話していたので、知っていると思っていたが。


「しかし、結婚出来たので問題ありません」


 シンプルな銀の結婚指輪が彼女の指でキラリと光る。

 今、書類上私たちは夫婦。あの額でフラン家が「ヴィクトルという町医者」を買い上げたようなものだ。

 現実感がなさすぎる。


「フランさん」


「何故、妻をファミリーネームで呼ぶのですか?」


「えっ」


「ヴィレナ、と呼んで頂いた方が自然かと」


「ヴィ、ヴィレナ、さん」


「ええ、それでよろしいです、旦那様」


 当然といった雰囲気で、彼女は軽く頷いた。

 どういう情緒しているのか本当に知りたい。彼女は少し前には私を痛めつけて遊んでいた女だ。それがどうして今、私が呼ぶ名前を修正して、嬉しそうに笑っているのか。


「では、できる限りフランを名乗ってください」


「えっ、どうしてですか」


「そのほうが仲の良い夫婦として自然でしょう」


「は、はぁ」


「公的な名前はそのままで構いません。裁判所を経由するのにも時間が掛かる、それは面倒です」


「あの、フラ……ヴィレナ、さん。そんな事をしたとこで、あまり意味は」


「貴方はヴィクトル・フラン。いいですね」


「あ、はい」


 彼女はもう一度頷いて、キッチンの窓を見た。

 レースカーテンは閉め切られているが、雨とはいえ昼間なので多少の光が漏れる。それを眩しそうに、不愉快そうに見る彼女は印象的だった。


(彼女は少し、変だ)


 唐突に結婚を言い出したあの日から、ずっと変だ。

 フラン家の屋敷にて、隻腕の当主と地獄の顔合わせをした後、彼女の希望で結婚式は行われなかった。


『夫とあの家で静かに過ごしたいので、日の下で綺羅びやかな結婚式は不要です』


 その一言があまりにも衝撃的だったのか、近くの使用人がぎょっとした目で彼女を見たのを思い出す。告げられた当主も目を丸くしていた。すぐに調子を戻したが。


(......元々派手好きの筈だ、彼女は)


 ずっと、違和感が拭えない。

 香水を変えたのも、白いスーツドレスが黒のドレスになったのも、言葉遣いの丁寧さも、妙な聞き分けの良さも、派手好きが息を潜めたのも。

 

(この人は、本当にフランさんなのか?)

 

 出されたお気に入りの紅茶にさえ、彼女は一度も手を出さない。以前は当然のように嗜んでいたのに。

 それに、どうしても気になることが一つ。

 

「あの、フラ、ヴィレナさん」


「はい」

 

 ファデルさんの件ですが。

 喉元まで出かかった言葉を、飲み込んだ。


 アンバー・ファデル。私の前妻。


 彼女は新聞に載る前日、1月10日に、腐敗した状態で自宅で見つかったそうだ。警察の捜査と町の噂によれば、直接の死因は己の吐瀉物での窒息死だった。近くには割れた酒瓶が転がり、家はゴミ屋敷で腐敗した身体に無数の虫が集っていたらしい。


 大酒飲みで泡商売をしていた彼女は、異常なほどに己の美しさを気にしていた。金の髪を靡かせて、美しく無ければ意味がないとさえ言っていたのに。

 その最期はあまりにも酷い。


(フラン家は、何もしていないんだよな?)


 あまりにも突然で、自然な死に方。

 いつ死んでも分からないような女性だった事は確かだ。私も彼女に良い思い出は無い。


(刹那的な生き方をしている人だったから、偶々タイミングが合ってしまったなんてことも、ありえるかもしれない、か?)


──本来届くはずのない、彼女の住む遠い町の新聞が、私の家のポストに入っていたことが、偶々?


「何か」


 雨音を遮り、凛とした鈴のような声が響く。そこで、一気に現実に引き戻された。


「いえ、その……」

 

 目の前の黒い瞳は、感情がわからない。

 以前の嗜虐的な光さえ灯さず、ただ黒いガラス玉が付いているだけのようだった。

 人形を相手にしているようで、気味が悪い。


「ね、寝る場所が、ないんですよ、この家」


「……寝る、場所?」


 思い切りねじ曲げた話題は、明後日の方向へ着地した。住居スペースになっているこの家の二階は、あまり広くはない。

 改装された屋根裏の部屋が二つと、備え付けの小さな洗面所があるだけ。

 

「部屋は、余っていないのですね」


「上にある部屋は、二つありますけど、一つは」


 口が固く凍り、息が詰まる。

 瞬きをした瞬間には、言い訳は完成していた。


「……ただの、倉庫です」


「倉庫でも構いませんよ、私は」


「駄目です」


 彼女がぱちぱちと瞬きをした。

 自分の口が、感情なく淡々と言葉を続ける。


「私の部屋を使ってください。整えておきます。私は一階の薬の保管庫を使います。簡易ベッドを買いますので、問題ないでしょう」


 彼女は不思議そうに、私の目を覗き込む。

 湿気た冷たい空気と濃艶なアンバーの香りが、じっとりと肌の上を撫で上げた。

 不愉快だ。本当に。

 

「倉庫は鍵を無くしてしまいました。だから入れません」


「それは、不便ではないですか?」


「いいえ。大したものは入っていません、色々なものが転がっている筈ですので、鍵を見つけても入らないでください」


 自分の部屋は衣類が散らかっているから、さっさと一階に持っていかなくてはならない。保管庫は薬の盗難防止のためにある部屋だったが、この際構わないだろう。

 

「なるほど、事情は分かりました」

 

 少し考え込んだあと、彼女は一つ頷いた。

 緊張が走っていた全身が解れ、気付かれないようほっと息をつく。一気に周囲の音が戻り、激しい雨音につい窓を一瞥した。

 本当に、彼女は何を言い出すのかわからない。


「ですが、通いの使用人を一人つけます。宜しいですね」


「へっな、何故」


「何故?当然でしょう?」


 立ち上がって、彼女はキッチンを軽く歩き回る。

 冷たい銀の蛇口に、青白い指を滑らせた。


「あなたは食事をまともに取っていないでしょう?栄養面も偏っているようで」


 つい、炎症の残る右頬のニキビを触る。

 彼女の言っていることは図星だ。仕事の忙しさにかまけて、自分の管理はできていない。

 食事はほとんどは既製品で、栄養面を突かれたら何も反論ができない。


「それと、掃除も。パット見は綺麗にできていますが、四隅に埃が溜まっている」


「うっ」


「しかし、貴方も忙しい身。むしろある程度清潔に保てている事自体が素晴らしい。尊敬に値します」


「は、はあ」


 褒め言葉を口にする彼女。

 フォローのつもりか?と盗み見るように顔を見上げれば、無表情の彼女と目が合った。黒くて底が見えないのに、打算も策略もない真っ直ぐな目。


「貴方は私に住居を与え、貴方の生活を私が支える。それが健全な夫婦というものではないのですか?」

 

 どうしよう。物凄くまともな事を言っている。

 あのヴィレナ・フランが、だ。


 返事に迷っていると、いきなり目と鼻の先まで顔を近づけられた。


「ッ!?」

 

 ぐい。

 と、彼女が私のあごを持ち上げる。それだけで首を絞められたように息が詰まり、全身が硬直した。

 彼女の驚くほど冷たい手からは逃げられず、漆黒の瞳から目線を外すことができない。彼女の身体で部屋の光は遮られ、アンバーの香りは狭い空間をふわりと漂う。

 お互いの吐息がかかるほど、近い。

 

「お返事は、ヴィクトル」

 

 コクコク、と頷くだけで精一杯だった。

 彼女が口角を上げる瞬間が、スローモーションで見える。きっと一瞬の事ではあった筈が、私にとってはずっと長く感じられた。

 視界は黒と白で埋め尽くされ、大きく開かれた虹彩の皺一つまで視認できるほど、近い。


「よろしい、良い子ですね、旦那様」


 満足したのか、彼女はすぐに手を離すと軽やかに自分の席へと戻っていった。

 

「っ、は、ぁ」


 彼女が離れたことで、冷や汗が一気に噴き出す。

 思い出したように手が震え、四肢は枷が嵌められたようにずっしりと重くなる。

 逃げたい。でも、逃げる気が根こそぎ奪われていくような。逃げるための熱を、脳から吸い上げられて行くような。


(気味が悪い、ずっと、気味が悪い……!)

 

 暴力と痛みで教育された恐怖は覚えている。でも、昔の彼女はもっと感情的で、無理やりで、こんな『懐柔』という言葉が似合う支配はしてこなかった。

 支配の質まで、何もかも、何もかもが違いすぎる。


「あなた、誰、ですか?」


 もう精一杯で、言葉を包む余裕もなかった。

 ただ思った疑問を言葉にして、彼女にぶつける。

 きっとシトラスの香りをさせていた頃の彼女は、少し拗ねたり怒ったりして私への罵倒を吐くはずだ。


「貴方の妻ですわ、旦那様」


 アンバーの香るヴィレナ・フランは、ただふわりと笑うだけだった。

 

──1966年 3月


「二階の倉庫には行かないでください、診療所と、それと地下にも。あそこは一階とは別に保存用の薬があるので、触れられると困ります」


 使用人と彼女にそう告げてから、数ヶ月が経った。

 彼女の言う通り、家は充分回るようになった。使用人は家事だけして本当にさっさと帰っていく。

 一方の彼女といえば、静かに読書をするだけで派手に遊び回ったりもしない。


(ヤブとは口が裂けても言えないな)


 フラン家は私を買い上げた。

 正直に言うと、私は資格など持ってないし、知識は全て師事をした時に得た物だ。この町は秘密を抱える者ばかりであるし、何とかバレずには済んでいる。

 本当は大学に行って資格を取りたかったが、そんな時間も資金も、とてもじゃないが無かった。


「やあ、ヴィクトル先生」


 カルテを記入しながら待っていると、ノックもせずに入ってきたのはスーツを着た身なりのいい壮年の男。帽子は頑なに脱がず、幽霊のような生気のなさに上がる口角は相変わらず。


 『常連』だ。


 カルテの名前も丁度書き終わった。彼の予約時間はマチマチだが、必ず五分前に来る。

 遅れたことは一度もない。


「元気ぃ?」


「お陰様で」


 機嫌が良さそうな声で語りかけてくる。『キャンディ』がよく売れたようだ。彼が当たり前のように対面の椅子へ座ると、やたら診療所が狭く感じる。

 体格が良いというのも、窮屈で大変そうだ。

 

「面白い話を持ってきたんだけど──」

 

 いつも通り注文を受ける。特に注文には変わりない。

 席を立って、あれを持ってくる。今回は少し特殊だ。


「はい、こちらです」


 持ってきた紙をみて、彼は不思議そうに首をひねった。

 いつもならここで『処方箋』の小袋を手渡して終わりなのだが、彼に渡した紙に書いてあるのはただの住所だ。


「これは?」


「最近、患者さんが増えたので薬剤師を雇いまして。今度からは処方箋はこちらでお渡しいたします」


「へぇ……?」


「こちらではお子さん用のお菓子も用意していますから。直接お求めいただけますよ。うちではもう置いてないので」


 暗に、ここではもう薬の販売をしない事を告げる。

 男は思案するように顎に手を置いて考えていたが、一つ大きく頷いてにやりと笑った。

 狼のような大きな犬歯が見えたが、見なかったことにしておこう。秘密の追及など、この町ではセンスがない。

 

「そっか。ヴィクトル先生も忙しいもんね。商売繁盛で何より何より」


「何を冗談言ってるんですか、全く」


「診察はここ?」


「いえ、向こうで直接お願いします」


「分かったよ〜」

 

 この男には、よっぽどの事がない限りもう会わないだろう。彼は自分の持つ狼印の懐中時計で時間を確認しながら、何度か頷いた。帰る時、帽子のツバを摘んで会釈しながら、彼は変わらない声で笑う。


「じゃあ、さよならヴィクトル先生」


「ええ、二度と来ないでくださいね」


 パタン、と音がして扉が閉まる。

 診療所は相変わらずの落ち着いた空気に支配され、ふぅ、と一つため息をついた。

 これはヴィレナさんからの指示だ。流石にフラン家の婿が手を染め続けるのはマズいとのことで、別の債務者に窓口が移った。


(今更だ。足を洗ったとして手は汚れたままだし)

 

 私の犯した罪が消えるわけではない。私の売った薬で苦しむ人々も、きっとこの町にはいるだろう。

 だが、それを気にする余裕は私には無い。

 そこまで聖人君子でいられるほど、出来た人間ではないのだ。


(とりあえず、カルテをまとめて締め作業に入ろう)


 もうすっかり日は落ちた。白熱電球の明かりを頼りに、小さなラジオを棚の奥から出して、テキトウにチャンネルを合わせてみる。丁度良くスローテンポのインストの曲が流れていたので、少し気分が良かった。歌詞のない曲は何も考えずに済む。


 曲が暫く続いた後、一拍の無音。

 低く落ち着いた男性の声。


「こちらは、ラジオ・クロノ」


 わずかな間。


「四回目の合図のあと、丁度十九時になります」


 ぴ、ぴ、ぴ、ぽーん。


「ラジオ・クロノ。今日も正確に十九時です。こんばんは、皆様。明日は晴れ。よい天気になるでしょう!さて次の音楽は──」


 カーテンはすでに閉め切っているから、このままでもいいだろう。白衣は脱いで丁寧に掛けておき、書類をすべてまとめておく。

 この番組は好きだが、彼女が待っている。ラジオはまた明日聴いたらいい。

 

「あら、お疲れ様でした、旦那様」


 キッチンに続く扉に手を掛けようとして、急に扉が開く。彼女の使用人が丁度出ようとしていたようで、丁寧な所作で一礼をする。クラシックなメイド服は、フラン家の財力を感じられた。


「ええ、お疲れ様です。彼女は?」


「お嬢様は既にお席につかれております。食器の洗い物は──」


「やっておきます、そのまま帰宅していただいて構いません」


「畏まりました、それでは私はこれで失礼いたします」


 彼女を見送り、玄関に鍵をかけた後。

 電気を消してキッチンから漏れる明かりの方に目をやった。木製の扉を開くと、白熱電球に照らされた部屋が眩しい気がして少し目を細める。


 いい匂いだ。後ろ手に扉を閉めながら、椅子に座って本を読み耽る彼女に声をかける。


「ヴィレナさん」


「はい、お仕事は終わったのですか?」


「ええ、不足なく」


 キッチンの机のうえにあるのは、丁寧に焼かれたオムレツとグリーンサラダ。野菜のスープに白パン、そして小さなチーズ。

 非常に美味しそうな夕食だ。以前とは比べられないほどまともである。そして品数が多い。とても嬉しい。

 ただ、やはりおかしな点が一つ。


「やはり、食べないのですか?」


「ええ。私は軽く頂きましたから」


 料理があるのは一人分で、彼女の目の前にはミネラルウォーターが入ったカップが一つ。初めて食事を共にする時は驚いた。

 人に食事を取る所を見られるのが恥ずかしい。との事だったが、それで理由が付くものだろうか。

 拒食や偏食は健康を害する。一度診察を、と申し出たが笑顔で断られてしまった。


「本当に食べていますか?」


「はい。問題なく」


 彼女はこちらを一瞥もせず、本のページをペラリとめくる。ここ数ヶ月のことでいい加減慣れはしたが、一人での食事は味気ないものだ。書類は棚の隅におく。ここなら濡れない。

 手を洗って席に着くと、ヴィレナさんがじっと私の方を見つめていた。


「なんでしょう」


「お構いなく。私はあなたが健康的に食事をしている姿を見たいだけなので」


「あの、気まずいのですが」


「繊細ですね」


 自分のことは棚に上げているくせに。

 少し抗議をしていたら、渋々と言った様子で本に目を落とした。時折見られてはいるが、ある程度はマシになったろう。

 キッチンに響くのは、二人分の食器の音。ヴィレナさんが時々紙のページをめくる音。時折、窓の外から車が水をはねる音も混ざる。


(重いなあ、空気が)


 食事を飲み込む音さえ気を使う。お互いは無言で、対面に座るだけ。アンバーの香りはもうしない。

 彼女曰く、面倒になったらしい。


(なんか、ラフになったなヴィレナさん)

 

 変わらないのは、緑のブローチ。そして光のない黒い瞳。それと膝上に掛かった緑のショールぐらいか。

 返してくれないかな、あれ。


「あの、ヴィレナさん」


「はい」


「何を、読まれているんですか?」


 目に入った本が、いつもの厚い本とは違い雑誌だった事もあって声をかける。

 彼女は不思議そうに小首をかしげた。


「料理の本です」


「料理?」


「ええ。私も何か作りたいと思って」


 彼女が?料理?

 とてもじゃないがイメージが沸かない。作ってもらうのが当たり前、の振る舞いのほうが想像ができる。


「作るって、何を?」


「決めていません。ですが、妻が夫へが料理を振る舞うのは自然なことでは?丁度、教師役もいますし」


 彼女が言うのは使用人のことだろう。今食べているこの料理は確かに美味しい。あの使用人がどれほどフラン家に仕えているのかは知らないが、熟練した技術によるものだとは私でもわかる。


「悩んでいるんです、旦那様は何が食べたいですか?」

 

 ここで断ったら無言で睨みつけられそうだ。

 少なくとも昔の彼女はそういう振る舞いをしただろう。


「卵料理とかは、好きです」


「卵」


「ええ。昔よく作りました、簡単ですよ」


「お料理ができるのですか?」


「ええ、まあ。娘が好きで以前は──」


 そこまで言って、はっと息が詰まる。

 彼女の前で言うつもりはなかった。だからコホンと一つ咳をして、笑って誤魔化す。


「娘さん」


「はは、すみません。忘れてください。料理の話を」


「二階の、奥の部屋に住んでいた方ですか」


 カチン。と。


 一切の時間が止まったようだった。身体は硬直し、彼女のほうに顔を向けるのも、油をさしていないブリキの人形のような動きだった。

 二階。奥の部屋。なぜ。


「どうして、それを」


「倉庫と聞いていましたが、鍵がついていなかったので」


「入ったのですか」


「ええ」


 頭の整理がつく前に、カッと頭に血が上っていく感覚がした。視界が一気に狭まっていく。


「なぜ、なぜ入ったんですか」


「扉が開いていたからです。老朽化で扉の立て付けが悪くなって、閉めようと思って──」


「それならば、早く閉めればよかったでしょう。なぜわざわざ部屋の中を見るような真似をしたのですか、どうして踏み込んだのですか」

 

 信じられない。どうしてもあの部屋だけは閉めて置かなければいけなかったのに。何故勝手に入った。どうして彼女は約束を守らない。


「旦那様......?」


「貴方は小さな約束一つ守ってくださらないのは何故ですか?言いましたよね、絶対に入るなと。それを破る理由があったのですか」


「私は──」

 

 彼女の声が脳に届くたび、怒りが燃え上がる。

 一部の理性が駄目だと叫んでいるのに、慣れない怒りに振り回されている。自覚があるのに、焼けるような痛みが胸を焦がして止められない。


「──ッ゛」


 唇を必死に噛んで、言葉を遮る。

 落ち着け。これ以上の言葉は彼女を酷く傷つける。

 大丈夫。大丈夫。落ち着け。とにかく、まずは。


「旦那様、あの」


「……席を、外します」


 足早にその場を去る。

 彼女の顔など全く見れず、暗い診察室に飛び込んだ。奥にある保管庫へ入ると、乱暴に扉を閉める。

 あの部屋は、娘の存在を唯一証明する部屋だ。

 

 彼女の、生きていた証を。

 証明してくれる、部屋だ。


 それを、彼女は勝手に空けて。


「はぁ、はぁ……!」


 ドク、ドク、と鳴り響く心臓を必死に落ち着ける。

 簡易ベッドに横たわれば、ようやく少し余裕ができた。

 突然大声を出したせいで喉は痛みを主張し、落ち着くまで時間がかかる。

 タバコを吸おうとして、場所が場所なのでやめた。暗くて見えないし、今は夜だ。外に出るのも少し危ない。


(大丈夫、判断はできている、問題ない)


 額に手を置くと、少し熱っぽくなっていた。

 この部屋は毛布に包まらない限り寒さが身を撫でる。今の自分にはちょうど良かった。彼女は決して自分で開けた訳じゃない。開いた扉を閉めようとしていただけど、言っていたじゃないか。


──それに、地下には踏み込まれていない。


 暫く、息を整えていると、ゆっくり身体の緊張がほぐれていく。浅かった呼吸は深くなり、ぐったりとした疲労感が全身を襲う。

 怒るのは、慣れない。

 

「……疲れた」


 目の端に溜まった水を拭って、毛布を手繰り寄せる。

 暗い密室で1人きり。緩やかに眠りに落ちていった。


…………

 

「さむ」


 ぱっと目を覚ますと、薄暗い部屋。

 小さな窓ガラスはあれど、まだ暗い。


「今、何時だ」


 手探りで懐中電灯を探し出し、持ち込んだ時計をみる。

 午前五時。まだ薄暗い。


「……シャワー浴びるか」


 流石にこのままだと不潔だ。

 のそのそと起き出して、着替えを持ち懐中電灯片手に一階のバスルームへと向かう。キッチンを経由する必要はあったが、電気をつけても彼女の姿はなく皿は片付けられていた。

 昨日の光景がフラッシュバックする。

 彼女はどんな表情をしていただろうか。


「気まずい……」


 シャワーを浴びながら、清潔に体を洗っていく。

 温かいお湯に打たれていると少し気分が軽くなる。彼女が起きてくるまで時間があるだろう。改めて、昨日大声を出してしまったことは謝る事が最優先だ。


(歯も磨いてしまおうか)


 すぐに朝食を食べるから意味ないか。と一瞬脳を過ったが、気分的に良くない。

 着替える最中、鏡に映った自分の顔が目に入った。


(顔色が少し、変わったか?)


 整えられた食事のおかげで顔色は確実に良くなっている。右頬のニキビはすっかりなくなり、髪の艶もいい。クマは治る気がしないが、充分眠れている。

 多少やつれてはいるものの、健康的という言葉が似合う顔色をしていた。


(コーヒーでも飲むか)


 寒い空気に触れれば、やはり温かいものが欲しくなる。棚を開ければ、最近ようやく買えたコーヒーが一瓶ちょこんと置かれていた。

 コンロで火を沸かし、ふと外を見れば雨がやんでいる。薄く白み始めている空を見ても、雲が少ない。


(……晴れ、か?珍しい)


 そういえば、昨日ラジオで言っていた気がする。どうせ天候はすぐに変わると聞き流してしまったが、晴れはかなり珍しい。

 ゆっくり注がれるコーヒーが、白いカップに茶色の渦を作っていく。湯気が昇り、芳ばしく深い香りがキッチンにふわりと広がった。


(美味しい……)


 ふう、と一つため息をついた。

 コーヒーの味が舌に染み渡り、熱いものが喉を通る感覚。

 彼女が紅茶を飲まなくなってから、アールグレイの消費は緩やかだった。精々、私といつも来る使用人に振る舞う程度。だが在庫ももう少ない。


(彼女が起きた時に出したら、少しは喜ぶだろうか)


 私は今の彼女の好みを、あまり知らない。


「旦那様」


「っ!?」

 

 いきなり背後からの声に、全身がビクッと震えた。

 振り返ると、音もなくヴィレナさんが後ろに立っていた。

 昨日の格好のままだ。いや、似たような服、と言うだけか。少し服の装飾が違う。俯いているせいで目元には濃く影が落ち、生気の無さは常連の男に少し似ていた。


 少しカサついた唇から、抑揚のない声が紡がれる。


「朝日を、見に行きませんか?」


 朝日、と口のなかで繰り返した。

 早朝でも、港にそこそこ人はいる。車の通りもある。深夜ほどは危険がないだろうが、何故。

 聞き返そうとして、彼女の顔を見て思い留まった。


 どうして貴方が、そんな迷子のような顔をしているんだ。


「ヴィレナさん」


「……はい」


 壁掛け時計を確認すると、午前六時。まだ、日の出を見るには一時間ほど時間がある。


「コーヒー、飲んでからでも良いですか」

 

 ヴィレナさんがようやく、顔を上げる。視線が合うが、真っ黒な目は少しばかり光を反射して、わずかに輝いていた。

 はい。と彼女の声が鈴のように溢れる。

 肩に羽織った緑のショールを、彼女はぎゅっと掴んでいた。

 

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