第一章 二話
黒衣を身に着けた彼女の肌は、白熱電球の光に照らされ生気のない白を浮かび上がらせていた。
微笑みが、死刑宣告をしに来た死神に見える。
「結婚してくださらない?」
そんな気狂いのようなことを宣ったフランさんは、今は昨日と同様応接室でソファに腰掛けていた。出したアールグレイには手もつけず、腰掛ける私を黒い瞳で正面から射抜いている。
さっきから一度もまばたきしていない。
「あの、フランさん。先程は何とおっしゃいました?」
彼女と私は債権者と債務者の関係だ。
私は借金返済の為にフラン家が卸す「キャンディ」の窓口をやっていて、彼女は取り立てと同時に注文を受ける役割のはず。
オマケに彼女の性格はサディストで、私のような立場の弱い人間を痛めつけ喜ぶ事はあっても、対等になろうとはしないだろう。
そんな彼女が私と結婚?
聞き間違いな気がしてきた。
「結婚してください」
聞き間違いじゃなかった。
彼女はどうやらご乱心のようだ。
眉間に手を当てて揉みほぐすが、何度考えても理解ができない。
「ええっと、まず。フランさん、結婚の件についてですが」
「ヴィクトル」
「はい……」
なんだ、また理不尽ゲームでも始まるのか。
「私は貴方を高く買っております」
「はい……はい?」
黒の瞳は、いつものような嗜虐的な光を宿しておらず、ただ淡々と事実だけを紡いでいるようだ。
「結論から申しますと。優秀な医者であるあなたを、私は手放すのが惜しい。だから、あなたを迎えたい」
(いきなり何を言ってるんだ、彼女は)
彼女の表情は特に変わらず。雨音を背景音にして私を真っ直ぐ射抜いてくる。ずっしりと重い空気は私の肩にのしかかり、鉛を背負っている気分だった。
「ネブロンの町には、まともな医者は殆どおりません」
「……」
「環境と言えば、湿気も多く不衛生、人によっては医者だというのに衛生観念も最悪。ですが」
ヴィレナさんの視線が、私の手元に落ちた。
「ヴィクトル、あなたの、その手のあかぎれの意味を知っていますよ。荒れ模様は清潔さを意識して何度も手を洗っているから、そうですよね」
「……はぁ」
絶対裏がある。
今までフラン家は散々私を利用してきたのにも関わらず、突然掌返しは余りにも怪しすぎる。
「怪しいという顔をしていますね。唐突なお話ですから、もっともでしょう」
彼女の瞳は私を貫く。
そこに、愉悦やからかいの光は一切ない。
「あなたは医療品の管理、保管、すべて完璧に行っている。住人の足元を見ることさえしない」
「……買いかぶりすぎだと、思いますけどね」
「いいえ。私は正当な評価を下しているだけ。どれだけ理不尽な目に遭おうが、瞳の奥の灯火は未だ消えずに揺らめいている」
「はは、何のことですか。全く見当もつきませんね」
誤魔化そうと、愛想笑いを浮かべるが。
「あなたは医者としての誇りが死んでいない」
一瞬、目に痙攣が走る。
全くもって、勘違いも甚だしい。それなら私はこの家にとっくに住んではいない。
「そんなものありません。普通の事を普通にやっているだけです。ほかの医者と同じですよ」
「あらあら、ご冗談を」
彼女は引かない。
私がどれだけ否定しても、一切の弱腰を見せない。まるで大木のようで、どれだけ叩いても靡かない。
「今、貴方の立ち位置は非常に不安定。ですがフラン家に入れば、ある程度命の保証はされるでしょう。それは嫌ですか?」
「私に命の保証を与えるほど、フラン家にとって価値があるとは思えない」
「価値はあります。先ほどご説明をいたしましたが、貴方はこの町では貴重なまとも寄りのお医者様。優良な医療とはつまり生存への直結」
彼女はふぅ、と呆れたようなため息をついた。
「お互い利益がある。素晴らしい関係性でしょう?」
利益。利益か。
確かに今のまま放置され、ある日突然始末されるぐらいなら、保証がある方が生きられる可能性は高い。それも、フラン家のお嬢様である彼女が提案しているのだから、嘘ではないのだろう。
「結婚はお嫌かしら?貴方であれば、背中を預けてもいいと思ったのですけれど」
「……なんて?」
「聡い貴方であれば我が家の実態はお分かりでしょう?魔の手によって、明日には命が枯れているかもしれません」
冷め始めたアールグレイを見つめながら、声色は震え、はく、と口が一度空気を吐いた。
「毒でも飲まされたら、一体医者がくるまでにどれだけ時間がかかると思います?それでしたら、貴方を抱え込んでしまったほうが、家の体裁としても申し分ない。貴方も堂々と日の下を歩けましょう?」
それに、私。
と彼女の瞳が僅かに揺れる。
「毎回見知らぬ殿方に身体を見られるなんて、嫌です」
「ッ……」
たしかに、この年頃の女性が治療のためとはいえ、人様に肌を晒すのは抵抗があるだろう。特に、お嬢様となれば尚更だ。私にも利益はある。だが、それはつまり。
(フラン家にはいれば、それこそ一生首輪を繋がれる、ということだ)
今も状況は大差ない。返済の完遂を考えると、正直乗ってしまった方が楽だろう。
「勿論、専属の医者になるならば我が家は此処からは少し遠いので、この家を離れて頂くことにな──」
「それは駄目です」
頭で考える前に、言葉が口からついて出た。
言った後ではっと我に返るが、もう遅い。
彼女は小首を傾げて、私を見ていた。言葉の真意を探るように。
「なぜ?」
「この家は、私の大切な記憶が詰まっています。貴方にとって価値はないのかもしれませんが、私にはある。家を離れるというのなら、今のままで私は構わない」
これだけは、これだけは譲ってはならない。
目の前の悪魔のような支配者に、逆らうことになったとしても。
恐怖で逃げ出したいと身体が悲鳴を上げても。
医者としての私を踏み躙っても。
真っ直ぐ彼女の目を見て、告げる。
私は生きて、この家にいなければ。
「どうぞ、今のまま私を使ってくださって構いません。常連の相手も、『キャンディ』の管理も、フラン家を裏切ったことは一度もありません。信頼していただけていることは喜ばしいと感じ入ります」
引いてはいけない。
彼女の瞳の漆黒が、私を飲み込まんばかりに射抜こうと、いつの間にか彼女の顔から笑顔が消えていようと。
私は絶対に引いてはいけない。
(……恐ろしい)
握り込んだ爪が掌に刺さる激痛で、必死に脆い理性を繋ぎ止めていた。
「ですが、私はこの家にいなければならない。この家だからこそ、安心して治療を行えるのです。首輪をかけて連れて帰りたいというのであれば、今後、指先が鈍るやもしれません」
「随分、情緒的な言い訳ですね」
「契約上、私は貴方に逆らう事は出来ません。それは重々承知しております。ですが、あなたの明瞭な聴覚へ訴える事は許されるでしょう、フランさん。貴方が欲しいこのヴィクトルは、この家にいるからこそなのです」
「何故」
彼女の目が、すっと細められる。
「何故、そこまでこの家に執着を?記憶だけで、そこまで意固地になる理由でも?」
ここで下手に嘘をつけば、彼女はすぐに気付くだろう。
わざわざ己の首を締めるような真似はしたくない。
「……お答え、できかねます。しかし、貴方のいう情緒的な理由と解釈して頂いて構いません。フラン家に損害を与えるような事ではない、ということだけは保証します」
沈黙。
ざぁぁと強くなる雨は窓を打ち、時折コツン、コツン、と固いものが当たるような音がした。アンバーの香りが私の首に纏わりつく。
モノトーンの視界の中、エメラルドが異様に光り輝いて私を睨みつけている様だった。
「ふふ、この家に、居られればよいのでしょう?」
「え?」
唐突な確認に、思わず声が出た。
宝石に飛んでいた目線を上げると、彼女は小首をかしげていた。絹のような黒髪が、肩からするりと落ちていく。
「問題なく診察出来ることも、必要ですよね」
「え、ええ、まあ」
「しかし、今のままではいつ切られてしまうか分かりません」
「そういう物だと覚悟しています」
「それではその危険が無いほうが、安心できますよね」
「そりゃあ、まあ」
彼女はふっと、女神のように微笑んでみせた。
「では、結婚しましょう」
「だからどうしてそうなるんです!?」
思わず大声が漏れた。
先ほどまでの話を、彼女は聞いていたのだろうか?
「合理的な判断の上ですよ、ヴィクトル。私も貴方も、お互い利益を得る関係にあるべきです」
「結婚したところで、そんな関係にはなりません。私は意地でもここから離れませんよ」
「ええ。ですから、私がここに住みます」
「はい?」
何を言ってるんだこの女は。
わざわざ綺羅びやかな生活を手放して、このボロ屋に住むだと。
美しい装飾もない。快適なベッドもない。高い香料もあるわけがない。
ここにあるのは、シンプルな壁。固く古いベッド。鼻をつく薬品の匂いだけだ。
「じょ、冗談言わないでください。貴方が此処に住む?」
「ええ。結婚すれば貴方はフラン家に始末されずに済む。診察も今までどおりできる。そして私の夫として側につきながら、この家を守れる。買収はしません、ご安心を」
「い、いえ。あの、魅力的な話ではあるんですが、やっぱりお断りを──」
この女の夫など冗談ではない。
目の前の穏やかな態度に一瞬揺らぎかけたが、そもそも彼女は暴君だ。
(絶対に殺される……!!)
一番最悪な
「借金」
ビク、と身体が跳ねる。
彼らとの契約上、私は拒否する権利がない。何をされようと、どう処分されようと、文句が言えないのだ。
「帳消しに、してあげますよ?」
にこ、と天使のような笑みで悪魔が笑う。あの膨大な額が消える。一瞬あっけにとられるが、徐々に徐々に腹がむず痒くなり、ついに沸き上がる笑いが溢れてしまった。
「あっはは、何言ってるんですか」
「どうかしましたか?」
あり得ないのだ。このフランという家が、どれだけ金問題に厳しいのか。彼女はただの女性だ。
こてんと小首を傾げた彼女は、まだ若い箱入りのお嬢様。父親に頼み込めばなんでもできると思って、自由に動いてしまう危うさを持っている。若いゆえの万能感とは、恐ろしいものだ。
ああ、危なかった。
彼女の声は重く、まるで真剣なように聞こえてしまう。
「フランさん、無理ですよ。借金を帳消しにする?それはあなた個人で判断できることではない」
「はい」
「フラン家当主である、あなたのお父上から許可が必要です。特に金銭面に関しては厳しく取り締まるお方だ。ここで口約束をするにも、難しいと思いますよ」
「許可は頂いておりますわ」
「だから──え?」
今彼女はなんて言った?
「許可は頂いております。まだこちらに住むことは伝えていませんが、問題ないでしょう。もとより、父の目から見たら虚弱、と言われましたので、医者の側へいられることは好意的でした」
待て、手が早い。早すぎる。
なぜ外堀が埋まってるんだ。昨日の今日だろ。
なぜ当主が好意的なんだ。
「待て、待ちなさい、いつ説得を!?」
「今朝ですね、朝食のタイミングで」
「あなたが!?」
「ええ、私から直接お話いたしました」
「どうして!?」
「あなたに価値があるからですよ、ヴィクトル」
白熱電球が、一瞬、チカ、チカ、と瞬いた。
それをものともせず、彼女は一切姿勢を崩さずに私の瞳だけを視線で貫いている。逃す気はないと言われているようで、背筋にゾッと冷たい悪寒が走る。
「は、はは。でも、無理ですよ」
「何故?」
「私、妻帯者ですから。この国では多重婚は認められていません」
「え?」
初めて、彼女がキョトンとした年相応の顔をした。
当然だ、昨日今日で話が進んでいるのだとしたら、調べられている訳がない。わざわざ市役所に金を払って債務者の婚姻履歴を確認するなど、彼らにとってメリットがない。
──アンディ・フィデル。私の書類上の妻の名だ。
最初から夫婦仲なんてものは無く、書類上の関係だけ。とにかく美に執着している女性で、記憶上は碌な人柄ではない。
しかし、こんな形であの存在が役に立つとは思わなかった。
「お引き取りください、フランさん。私はあなたの願いは叶えられない」
法律上の問題は流石に彼女も手が出せない。可愛い娘が内縁の妻など、当主は絶対に認めないだろう。
「どなたですか?」
「言えません。ともかく、お引き取りください。法律がある限り、私はあなたと結婚は出来ません」
冷めたアールグレイをじっと見つめたまま、フランさんは考え込むように唇を指でなぞった。
凍える雨の中、わざわざ来訪して貰って申し訳ないが、お互いこればかりはどうにもできない。
「紅茶、淹れ直しましょうか」
話は終わりだ、と話題を切り替える。
これ以上彼女のわがままに付き合ってはいられない。音の少ない壁掛け時計を見れば診察開始の十時はとっくに過ぎていた。
「フランさん?」
「……ふむ、あなたは、障害が無ければ私と結婚できますね?」
目線を上げないまま、ポツリと声が漏れた。
どうしてそこまで私に執着するのか分からない。昨日までの彼女とは全く別物で、手折れば死んでしまうような。
(………なんだ、落ち込んだのか?)
俯いた顔に黒髪が掛かり、深窓の令嬢という言葉がよく似合う、静観な雰囲気が漂っている。
「フランさん、お父上が心配されます。もう帰ったほうがよろしいかと」
その言葉に小さく、はい、と返事をしフランさんは驚くほど素直に立った。俯いているせいで表情はよく見えないが、放っておけない当主の気持ちは、少し理解できる気がする。
(待て、待て。彼女はサディストだぞ、何が深窓の令嬢だ。嗜虐の悪魔の間違いだろ)
玄関まで誘導する中、彼女の上着を着せながら軽く頭を振った。一時の感情に流されれば、碌なことにならないのはよく知っている。
扉を開ければ黒塗の車が当然のように停めてあり、彼女の姿をみると使用人たちはすぐ駆け寄ってきた。
雨は強まり、傘だけでしのぐのは難しそうだ。
「フランさん」
「はい」
「これを」
安物で申し訳ないが、簡単な雨よけ程度にはなるだろう。深緑のショールを受け取って、不思議そうな顔をする。
「雨除けに使ってください、要らなければ捨ててもらって構いません」
今の彼女が雨に打たれれば、風邪を引いてしまうのではという気持ちはあった。多少優しくして、罪悪感を軽くしたいという下心もあったかもしれない。
ただ、このまま彼女を送り出すのは良心が咎めた。
それだけだ。
「......ありがとうございます、ヴィクトル」
ショールを羽織ると、彼女はふっと笑って使用人たちと車に乗り込んでいった。排気ガスを吸い込む前に、咳のフリをして白衣の裾を口に当てながら、車を見送った。
扉を閉めれば、アンバーの残り香が暖まった空気に混ざって鼻をかすめた。冷めきった紅茶をシンクに流し、洗剤を含んだスポンジで洗っていく。
「……」
彼女は、一度も瞬きをしなかった。
──1966年 1月11日 ネブロンの町 朝9時
公現祭の熱も通り過ぎ、平和な日常が戻ってきた頃のこと。郵便ポストに、新聞が投げられる音がした。
珍しく雨が止み、曇りではあるが気分のいい朝だった。気が抜けた気分でタバコを吸いながら玄関に出る。
(またすぐ雨に戻るだろうが)
ポストから新聞を取り上げた。裏口から入り、キッチンの窓を僅かに空けて煙を吐き出しながら空を見る。冷たい潮風が頬を撫でた。
(本当にいい天気だ。曇りだが)
使い古された銀のヤカンに水を入れ、カチ、と音をさせてガスコンロに火をつける。今日は風もあるからコインランドリーに行かなくても洗い物が乾くだろう。大変助かる。
暫くのんびり窓の外を眺めていると、ヤカンがピーと音を出して限界を知らせた。タバコに水をかけて消す。
紅茶の練習用にやり始めた習慣だが、そこそこ慣れた。今ではそれなりに美味い紅茶を作れるようになったと自負している。
最も、彼女に出すのはカルキの匂いが抜けない水道水ではなく、高価なミネラルウォーターで作ったものだが。
(あっアールグレイが切れてる)
気づいてよかった。アールグレイは彼女のお気に入りの茶葉のはず。後で買っておかなければ。
代わりに間違えて買った別の茶葉を手に取る。水道水で作ったお湯は、多少カルキが抜けているとはいえそのままでは飲みづらい。
(紅茶なんてアールグレイ以外名前知らないからな、コーヒーのほうが好きだし)
隣にある、暫く空けられていないコーヒーの瓶を名残惜しく見つめる。彼女がくる前は眠気覚ましとして常用していた。
(もうこれは飲めない、あとで捨てておこう)
そういえば、彼女もしばらく顔は出していない。年明け前のあれが異常事態だったわけだ。姿が見えないということは、受理されなかったのだろう。
アプリコットとラベリングされた瓶から茶葉を出す。紅茶を無心で淹れ、使用済み茶葉を捨てながら一口飲んでみた。
(甘いが酸味があるなこれ)
椅子に座って新聞を広げると、インクの匂いがふわりと香る。紅茶を飲みながら文を追っていくと、ふと違和感を感じて止まった。
脳が理解をする前に、何か見知ったものが通り過ぎた気がした。それを探そうとして、じっと文をなぞっていく。
訃報公告。
あまり見たくない、新聞の小さな一角。
そこに載っていた、一つの名前。
「えっ」
アンディ・フィデル。
妻の、名前だ。
コン、コン。
玄関にノック音が響く。私が動かずにいると、カチャン、と鍵を回す音がした。そのまま革靴の足音が近づいてきて、探し回るようにうろついたあとで、奥から現れた彼女。
美しい黒の外出用のドレスを身にまとい、胸元のエメラルドブローチが怪しく光る。
艷やかな髪は肩からするりと滑り落ち、未だ光を映さない黒い瞳は、私をまっすぐ射抜いていた。
「ヴィクトル」
凛とした、鈴のような彼女の声がキッチンに重く響く。
「これで、結婚できますね」
肩にかけた深緑のショールを撫でながら、ヴィレナ・フランが、嬉しそうに微笑んだ。




