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雨霧の回遊魚  作者: お麩
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第一章 四話

 今日は、珍しく晴れの日だった。

 港は海に出る人がまばらにおり、早朝だというのに忙しない。


(出かける姿を見られても、基本スルーなのが有難いな)


 フラン家と私の関係は噂になっているだろう。興味深そうな視線がチクチク刺さるのはどうしようもない。


 淡い光を放つ手持ちのカンテラが、カラン、と音を立てる。懐中電灯でないのは、彼女がこっちの光のほうが好き、と言ったからだ。


(……しかし随分気に入っているな)


 隣で歩くヴィレナさんをちらりと見上げる。

 首元はいつもの緑のショールで、軽く方リボン巻をしていた。何度か気にするように触っていたが、その仕草が年相応に見えて随分可愛らしいなと思う。


(気に入ってくれたなら、やった甲斐がある)

 

 彼女は視線に気づいて小首を傾げ微笑んでくる。しかし、周囲が気になるのかすぐに視線は外され、明かりのもとで作業する船乗りたちの動きをじっと観察していた。


「こんな朝早くからお仕事があるのですね」


「はい。魚も朝早くは寝ているので、取りやすいんですよ」


「そうですか……夜に行動することが多かったので知りませんでした」


 あまりにも彼女がじっと見つめるので、失礼を承知で軽く腕をトントンと叩く。あまり人を凝視するものではない。


「朝日を見逃しますよ、行きましょう」


 彼女はすぐに目線を外し、一つ頷いた。持ってきた日傘をギュッと握りしめ、前を向く。

 本当に聞き分けがいい。見違えるようだ。


 カツン、カツン。


 未だ湿気る道路に、二人分の革靴の音が鳴る。

 街頭は点在し、淡い光を放ち道を照らす。


(……いつ、謝ろうか)

 

 道中、昨日のことがずっと頭から離れない。朝の彼女も随分落ち込んでいた様でずっと雰囲気が暗かった。

 リボンに巻いてあげたら少し機嫌が直ったまでは良かったが、そこから先は何となく、気まずい。


(朝日が見終わったあと?朝食のとき?使用人がくる前には伝えなくては)


 厚手のコートのポケットから懐中時計を確認すると、今は丁度朝の七時頃。見晴らし台につくと、まだ太陽は顔を出していなかった。頬を撫でる潮風が髪を揺らすのが擽ったくて、頬を擦るとその冷たさに肌がヒリヒリした。


「間に合いましたね、ヴィレナさん」


 カンテラの明かりを消して、準備を整えた。

 ほぅっと吐く息が白く、自然と空気に溶けていく。


「寒くないですか?」


「……ええ」


 何か、少し返事が弱い。

 不思議に思って彼女の顔を見上げる。癖のある黒い髪は風に靡いて、彼女の顔を隠しており上手く見えなかった。

 まっすぐ、正面を向いて彼女は微動だにしない。手に持った日傘を杖代わりにして、しゃんと立っていた。

 少し、肩に力が入っている。なんでだ。


(まあ、朝日でも見たら彼女も少し気が紛れるかな)


 その時、白んだ地平線上から、一筋の光が顔を出す。


(……眩しい)


 神の目がこちらを静かに見つめ返す。

 揺蕩う水面は煌めき、ざぁっという波音は朝の静寂の中に溶け込んでいく。真っ白なカモメがキャアキャア鳴いて、羽ばたいていくのを眺めていた。


「ヴィレナさん、あの」

 

 冷たい潮風の匂いを感じながら、貴重すぎる朝日を浴びてとても気分が良かった。だからこの清々しい気分のまま、一言謝ってしまおうと思った。

 しかし。


 バサッ。


「?」


 彼女は日傘を、まるで日光から隠れるように差した。黒い手袋をはめた手が、ぎゅっと日傘の柄を握りしめる。一瞬見えた彼女の瞳は、苦しそうに歪んでいた、気がする。


「ヴィレナさん?どうしたんですか......?」


「すこし、眩しかっただけですわ」


 にこ、とヴィレナさんが笑う。

 ただいつもの雰囲気とは違い、僅かに引きつった顔。


(なんだ、この違和感)


 彼女は顔以外は全身の露出がないうえで、日傘までしている。もはや傘ですっぽり顔さえ隠してしまっているので、日の当たる場所がない。


(……なんで日光に、こんな苦しそうな顔をする?)


 何かがおかしい。違和感がずっと脳裏をよぎり、しかしそれを正確に言葉にすることができない。もどかしさを感じていると、一瞬光がキラリと目の奥を刺す。


 神々しく輝く神の目が、ついに私の視界へとねじ込まれた。


「うっ!」


 つい目を離せず、気づいた時には目が乾いてついキツく目を閉じた。瞼の奥で奇妙な光のモヤが万華鏡のように広がっている。

 痛い、眩しい。何で直射日光を熱心に見つめてしまったんだろう。


「は、あ……」


 「?」

 

 何か妙な声が聞こえ、隣をみる。目に入ったのは、ヴィレナさんが胸に手を当て浅く呼吸をしている姿。


「ヴィレナさん?」


 彼女の身体は震え、ついにしゃがみ込んでしまった。慌てて背中をさするが、酷く辛そうな様子はかわりない。呼吸も荒く、ぎゅう、と目を瞑っている。


「ヴィレナさん、どうしました!?」


「熱い、熱い、うぅ……!」


「ヴィレナさん、喋らなくていい。呼吸をしてください、深呼吸を、ゆっくりで大丈夫です」


 首元に巻いた緑のショールを、彼女は命綱のように握りしめている。日陰のベンチに誘導し、時間をかけて息を整えていくと、彼女はようやく落ち着いてきたようだ。

 浅かった呼吸も深くなり、黒い瞳が僅かに開く。


「ヴィレナさん、大丈夫ですか」


「申し訳、ありません、私」


「いいえ、体調不良は万人に起こることです。問題ありません。大丈夫、私が側にいます」


 この様な症状が急に出るなら、何か切っ掛けが必ずある。

 しかし、思い当たらない。彼女の手足を軽く見てみたが、虫に刺された様子もない。ショールをずらして首元を確認してみたが、湿疹や炎症もない。


「私、太陽が、駄目なんです」


「いつもはどう対処されていましたか。して欲しいことは」


「はぁ、いいえ。このまま、日が当たることが無ければ、自然に、治ります」


 これは日常的な発作か?アレルギーのような皮膚反応はない。なら精神的なものか?使用人に過去の症状聞いてみなければいけない。

 このまま放置して日常を送らせてしまうのは危険だ、家に帰ったら必ず調べなければ。

 けれどその前に、最優先すべきことは。


「ヴィクトル……?」


 ショールを解いて頭から被せ、完全に視覚情報を無くす。

 とにかく、自然に治るというのなら、早く彼女を安心させてやらねばならない。そのまま抱き寄せて、背中を擦る。慣れている人間が近くで感じられるほうがいいだろう。特に心臓の音は、安堵感を感じやすいと聞く。


「ヴィレナさん。大丈夫ですよ、少し気を張りすぎたんです」


「私、あなたに、喜んで貰いたかった、だけで」


「ええ、ええ。もう充分です。落ち着いたら、すぐに家へ帰りましょう」

 

 彼女が完全に収まるまで、暫くその場に留まる。

 カモメがケラケラ鳴く音が煩い。波の音さえ耳に響くようだった。

 神の目は、変わらずじりじりと世界を照らす。

 彼女を守るための影は酷く不安定な気がした。


──同日 午前八時 ヴィクトルの家


 二階にあるマンサード屋根の寝室。敷かれたベッドの上にいる彼女は、少し物憂げな顔をして考え込んでいた。

 手元には、いつものブローチが転がっている。

 

「ヴィレナさん、体調は?」


「問題ありません、旦那様」


 屋根は布で遮られ、カンテラの揺らぐ橙色のあたたかな明かりが、彼女の白い肌をぼぅっと光らせる。

 よかった。呼吸も安定しているようだ。あれから発作が起こることもない。

 

「手首を借りますね」


「はい」

 

 素直に差し出された手を持って、脈を測る。

 指先から伝う体温は、氷のように冷たい。まるで元々体温なんてないような。まさかな。まだ布団に入って間もない。冷えただけだろう。


「脈が弱いのは、元々ですか?」


「ええ」


 弱い、というより感じられない。

 手が冷えているせいか?たまにそういう事はある。


「ヴィレナさん、失礼ですが首元の脈を測らせて頂きたい」


「旦那様、私は問題ありません」


「いえ、でも」


「問題ないですから」


 ガシ、と強い力で伸ばした手を掴まれる。

 痛みさえ感じる力に少し驚いたが、彼女を刺激する意味は今はない。これほど元気なら様子見のほうがいいだろう。彼女の雰囲気も、これ以上の接触は拒絶している。


「分かりました、もし悪化するようでしたら言ってください」


「大袈裟です」


「それぐらいが丁度いいんですよ、夫でしょう、私は」


 ヴィレナさんの瞳が少し揺らめいた。手は私の手は掴んだまま、毛布のかかった膝上へ落ちる。力が、入っていない。


(さすがに、今のはズルかったか)

 

 彼女が常に言う言葉を返したら、反論できないと分かってて口にした。汚い大人だ。

 流石に中腰はきついので、断ってベッドの上に座らせてもらう。温かなランプの光は彼女の顔を半分照らすが、その分影は濃く落ちる。


(彼女が少し、子供みたいだ)

 

 彼女も大変なのだろう。強引に始まった生活とはいえ、元の生活よりもずっと不便は多いはずだ。知らぬ間にストレスを抱えることは想像がつく。特に年頃のお嬢さんなら、尚更だ。


(あの子も、眠れない日はこういう顔をしていたな)


 この部屋は狭い。カンテラの炎は温かく私たちを照らしている。

 物語に出てくるブギーマンのような怪物が、入る隙はないのだ。だからそんな、不安そうな顔をする必要はない。


「ヴィレナさん、昨日の件なんですが」


「……はい」


 カンテラの炎が、その身を揺蕩う。

 

「怒鳴ってしまってすみませんでした、混乱してしまい、決して本意では無かったんです」


「それは、ええ」


「もう、あの部屋には入らないでください。本当に鍵をつけます。あなたは軋んで開いた扉を閉めようとしてくれただけ。そうでしょう?」


 こくり、とヴィレナさんが頷く。

 黒髪がはらりと肩から滑り落ち、白い毛布の上を泳ぐ。


「正直に伝えなかった私が悪かったです。許してくれますか?」


「……こちらこそ、勝手に入ってしまい申し訳ありませんでした」

 

 しゅん、と落ち込んだ様子の彼女が、不意に過去の記憶と重なった。空いた方の手が彼女の頭に伸びて、無意識に撫でる。柔らかく絹のような黒髪なのに、その一本一本が酷く冷え切っている。


「……?旦那様?」


「!っい、いえ。何でもありません」


 ドキッと心臓が跳ねた。慌てて、手を引っ込める。

 私は一体、何をしているんだ。必要もないのに、女性の髪を触るなど非常に宜しくない。

 ヴィレナさんは、不思議そうな顔をして私を見ている。そりゃあそうだ、とにかく話題を変えなければ。


「な、何か、飲みますか?」


「……」


「ヴィレナさん?」


 「白湯を、一杯」


 白湯か。温かな物を飲めば確かに落ち着くだろう。特に彼女の身体は冷え切っている。いい選択だ。タバコでも吸っている間に直ぐに作れるだろうし。

 ミネラルウォーターはまだあったか、記憶をたどる。多分、あった気がするが。


「ヴィクトル」


「はい?」


 扉を開ける瞬間、彼女の声に手をとめる。

 振り返れば、彼女がカンテラの光を反射した黒い瞳で、じっと私を見ていた。


「何故貴方は、人に手を差し伸べるのですか?」


(………………)


 その問いに即答できるほど、私は清い人間ではない。

 

「私は、私が出来ることをしているだけですよ」


「そう、ですか」


 彼女はそれ以降、口を開かなかった。


 パタン、と木製の扉を閉める。

 彼女が少し変なのは、もう日常になってしまった。


(ただ、そろそろ落ち着いてくれたらいい。ついていくのが大変だ)


 階段をギシ、ギシ、と踏みしめて降り、キッチンへ向かう。窓を少し開けると、小雨が降っている事に気づいた。はぁ、と息を吐くと温かい空気が漏れて窓の外へ消えていく。

 結露で濡れた指をキッチンタオルで拭いながら、残念な気持ちが隠せない。


(やっぱり、短い時間だったな)


 取り出したタバコをくわえ、愛用のライターで火をつける。シュボ、という赤い熱と共に燃え移り、空気を餌に煙が上がる。

 なんだかんだこの熱を感じる瞬間が、一番好きだ。


「ふぅ……」


 溜息と共に、今度は健康に悪い白色の煙が窓の隙間から漏れていく。朝から色々と忙しかったが、ようやく一息つけた気がした。昨日の件も片付いたことで、肩の荷が下りた。

 もう、元通りだろう。


『貴方は、まだ医者としての誇りが死んでいない』


 二カ月前、彼女に言われたあの言葉が、私の心を撫でる。複雑な気持ちだった。

 とにかく必死で生きてきて、今ここにいる。本当に大事なものは守れずに、手先にいる健常者たちには『白い夢』を与え、己の良心は臭い物だと蓋をした。


 そうしないと、生きてこれなかった。

 未だに、娘の亡くなった時の記憶が脳裏にこびり付いている。


 あれは今日みたいな晴れの日だった。

 娘が、ニーナが、一緒に出かけようと私を誘って。 

 長靴で楽しそうに水溜まりを踏み抜き、飛び上がった水滴が朝日を浴び虹色に煌めいて、綺麗だったのを覚えている。

 風に靡く柔らかなストレートの黒髪が、彼女の頬を撫でていた。


『────!』


 確かに、楽しそうな雰囲気で何かを言っていた気がするのだ。

 

 人間は、死人の声から忘れていく。

 もう、あの子の声が、分からない。


 カサッ


「?」


 視界の端で何かが動いた気がして、ふと我を取り戻す。

 なんだ、と思って視線を動かしてみると、何か妙なものがコーヒーカップの中にいた。


「蜘蛛?」


 覗き込むと、酔っ払ったようなおかしな動きをした茶色の蜘蛛だった。毛がざわざわと蠢いて、4対の細い脚がぎこちなく藻掻く。


 朝日を見に行く前、私が飲んだ後のコーヒーのカップ。飲みきってはいるが、濯ぐのを後回しにしたせいでまだ内容物が少し残っている。

 蜘蛛はカフェインで酔うらしい。

 なるほど、これを舐めたか。


(変な動きだ)


 蜘蛛は必死に歩こうとしているが、フラフラと溺れるような動きしか出来ていない。濡れたカップの縁を登ろうとして、水滴が絡み、脚を滑らせズルズルと落ちる。悔しそうに脚がバラバラに蠢き、勝手に転ぶ。


 何度も、何度も、無駄なことを繰り返す。


 身体は泥にまみれたように茶色く汚れ、酷く苦しそうだった。

 そのうち段々と動きが鈍くなっていき、ついには完全に止まる。時折、ピク。と動くから、死んではいないようだが。諦めたのか?


 ベシャッ。


 カップを逆さまにすると、蜘蛛は背中からシンクに落ちた。衝撃に蜘蛛はまた少し動いて、失敗しながらも必死に身体を起こす。そして、あの筒状の地獄から解放されたことに喜んでいた。

 気の所為、かもしれないが。


「……」

 

 特別、何も考えてはいなかった。

 ただ、弱くて、ふらついて、必死にもがこうとしても逃げられないその命が、酷く惨めに思えてしまった。

 だから、短くなった煙草を持って、熱を持った先端を。


 蜘蛛に、押し当てた。


──ジュ。


 と、焦げる音が鳴る。小型の蜘蛛は一瞬大きく震えたが、次の瞬間には焦げた死体が残るばかりだった。放して、チョン、と突っついてみても動かない。

 頭に何か模様があったようにも見えたが、もう焦げ跡と煙草の灰でよく分からなくなっていた。


(なんだ、こんなもんか)


 毒があるといけないので、ティッシュで何重にも包んで捨てた。

 そういえば、キッチンでの喫煙があの使用人にバレたら、軽い叱責が飛んでくる。気をつけなければ。私が家主なのに。


「カップは捨てておこう、気分が悪いし」

 

 記憶を洗い流すように、蛇口を捻って冷たい流水を出した。

 私は彼女のために、白湯を作らねばならないのだ。不潔な節足動物に構っている暇はない。


──同日 九時


「リベール、少しいいですか?」


「はい、旦那様」


 ヴィレナさんを診る為、今日は臨時休業となった。

 出勤してきたいつもの使用人、リベールは、主人の状態を聞くと即座に協力を申し出てくれた。助かる。

 

「お嬢様が太陽が駄目?まさか、むしろ太陽を心待ちにする方でしたよ!」


 使用人の彼女は高く結われた赤毛を揺らしながらそう言った。応接間のソファに座りながら、そばかすをぽりぽり掻き、灰色の目は二階の方を見る。


「こんな湿気た町から出て、太陽の下で過ごしたいってずっと言ってました」


「そうですか、発作のようなものは見られましたか?」


「旦那様、私はお嬢様が幼い頃からお仕えしています。でも、お嬢様はそんな素振り見せたことないです」


「貴方はどの程度彼女の世話を?」


「もう、全部ですよ。郵便も、お仕事の手配も。もちろん、ほかのメイドにも手伝ってもらってましたけど」


「嘘はありませんね」


「こんなくっだらない事で嘘ついてどうするんですかっ」


それなら、長年仕える使用人に隠し通すのは不可能だろう。発現は最近のはずだ。特に私の家に来てからだろう。

 

(調べなければ、何かあるはずだ)


「旦那様?」


 リベールが恐る恐るといった風に声をかけてくる。

 よほど、怖い顔をしていたのだろうか。眉間を解して、彼女に笑いかける。

 周囲を不安にしてどうするんだ。


「はい、何ですか」


「旦那様はお嬢様のこと、恨んでないんですか?」


「なんですか、藪から棒に」


 驚いて彼女の目を見れば、じっと私の目を射抜いてくる。この目は知っている。人懐っこそうな顔つきの彼女だから分かり辛いが。

 これは人を、計る目だ。


「私、知っています。お嬢様が旦那様にしていた色々なこと。とても苦しくて、痛くて、辛かったはず」


「それで?」


「今、お嬢様は弱っています。この際、少しだけ苦しめる、なんてしてもバチは当たらないんじゃないんですか?」

 

 灰色の瞳は、私の顔の僅かな変化さえ見逃すまいと、じっと見つめてくる。彼女の言っていることは理解できた。

 けれど。


「私は」


 はく、と一瞬喉が詰まる。


「私は、手を貸しているだけです。出来るだけ」


 殴られたとして、殴り返し続けていたら意味がない。人には、肉体の傷を癒やす場所が必要だ。

 たとえその患者に過去何があったとしても、縋ってきた相手の寝首をかくようなことは私はしない。誰にでも平等な治療を受ける権利はある。


「彼女にも似たような事を聞かれました」


「それにはなんて答えたんです?」


「同じように」


「ふぅん」


 リベールはほんの少しだけ、口角を歪めた。


「ヤブ医者のくせに?」


 一瞬、心臓がドキリと跳ねる。うっかりすれば、喉から出てしまうのでは、と言うほどに。

 努めて冷静に、彼女を見る。強気のふりをしなければ、灰色の目双眼に怯え、震えてしまいそうだった。

 

「知ってたんですか」


「お嬢様が結婚するお相手です。当然でしょう?」


 なるほど、だからこんな風に仕掛けてきたのか。

 当然フラン家に信頼されているとは思っていない。ヤブが相手ならなおさらだ。リベールは彼女の使用人でもあるが、監査員としての役割もあるのだろう。

 

「私、人の嘘がわかるんです」


 笑顔のまま、彼女はゆっくりと言う。

 まだ、じっと私を見ている。輝く灰色の目の裏で、彼女が何を考えているのかは分からない。けれど、なんだか目を離してはいけない気がして、じっと我慢していた。

 数秒後、彼女の双眼が、ふっと細められる。


「旦那様は、ねじ曲がってますね」


「……なんですか」


「いいえ?でも、私ねじ曲がった人好きなので。それに、不器用で酷くねじ曲がってるだけで、芯は腐ってなさそうですし」


「はぁ、酷い言いようですね」


「褒めてるんですよ〜!」


 うふふ、と楽しそうに無邪気に笑う彼女は、一体私の何を見ているのだろうか。立ち上がって応接室を出ようと、彼女はドアの方へ向かう。高く結われた赤髪が、ゆらゆらと揺れている。


「あ、でも」


 不意に思いついたように、彼女が綺麗にくるりと振り返る。


「なんか旦那様って、すぐ騙されそうですね」


「はい?」


「あはは、甘えられたらころっと行っちゃいそうですよね〜、きっと痛い目見ますよぉ!」


「何を、変なこと言わないでください」


「すみませぇ〜ん!」


 全力で舐めてます!という態度でケラケラ笑いながらリベールは扉の向こうへ消えていった。あれが本性なのだろう。

 とても楽しそうで、自由で、この家には似つかわしくないような気がした。


──一週間後 夜二十一時

 

 ヴィレナさんはその日のうちに回復した。

 調べていたら、このように特定のトリガーを踏んでしまった場合に、発作のようなものを起こす人もいるらしい。

 まだ名前は正式に決まっていないが、一般的には不安神経症の一部、と言われているようだ。


(やっぱり、ストレスが原因か?)


 このような病状が時折見られるのなら、彼女の父親が彼女を『病弱』と思うにも無理はないかもしれない。しかし彼女の様子を記録でつけていたが、あれから目立った病状はない。


(しばらく様子見だな。太陽だけじゃなくて、強い光に反応するのかもしれないし。だから、懐中電灯よりカンテラを好んだ、というのはありそう……)


 港での彼女のひと言が、脳裏をよぎる。

 つい先程まで、頭から抜けていた彼女の明確な主張。


(熱い、って、何だ?)


 神経不安症に、そんな症状あっただろうか。

 彼女の事を考えれば、あまりジロジロ見られるのは嫌かもしれない。負担にならない程度に、観察を続けなければ。彼女は不安定な要素が多すぎる。


(そろそろ、彼女に寝る時間を知らせに行こう)


 診察室の電気を消して、キッチンを経由し二階へ上がる。階段は明かりがないから、懐中電灯を持って。彼女が寝ている姿は見たことがない。

 こんな時間でも、部屋をノックすれば必ず「はい」と鈴のような声が聞こえてくる。不眠なのだろうか。


(睡眠不足、という事もあり得る。睡眠が確認できるまで側に、いや、気が散るか?)


 悩みながら、寝室の前にいく。

 元々は私の部屋だったのに、もうすっかり彼女の存在が馴染んでいる。


 ちらり、と左奥の部屋を見た。近々、鍵をつける予定だ。あそこだけは、停まった時間でなければいけない。


 ふるりと頭を振り、思考を霧散させる。

 今は彼女に用があってきたのだ。


「ヴィレナさん、そろそろ寝る時間ですよ」


 ノックと共に声をかける。

 彼女はきっと、カンテラの明かりを頼りにまた本を読んでいるのだろう。たまに話を聞かせてもらうが、彼女は色々な小説を読んでいた。

 今度はなんだろう、前に聞いた人魚姫の話は悲しい終わりをしたから、もっと楽しげな話も読んでほしいけれど。

 

「……ヴィレナさん?」


 返事がない。今日は疲れて眠ってしまったのだろうか。安全を確認したい気持ちと、少しの好奇心が混ざったまま、失礼します、と声をかけて扉を空けた。


「あれ?」


 彼女がいない。

 ベッドの上はもぬけの殻で、あのカンテラは彼女と共に姿を消していた。ということは、部屋を出たはずだ。


(どこへ?裏口から外へ出た?)


 いや、ありえない。裏口は鍵がかかっているし、その鍵は常に私の部屋にある。


「……あの部屋?」


 二階の奥の部屋。娘の部屋の前に急いで行ってみるが、取っ手に薄く撫で付けた小麦粉が乱れていない。こういう細工は妙な所で役に立つ。


「どこにいったんですか、ヴィレナさん……!」


 出口は診療所の玄関しかない。

 となれば彼女はまだ家を出ていないはず。こんな時間に一人で外出するのはとても危ない。


 家の全て明かりをつけて、見て回ったがどこにもいない。玄関の鍵も閉まっている。以前持っていた合鍵は、使用人の彼女に渡していたはずなので今の彼女は持っていない。

 外に出たなら、鍵が空いているはずだ。


 地上にはどこにもいない。家から出てもいない。窓も一つも空いていない。

 最悪の想像が脳裏をよぎる。


「まさか、地下……?」


 考えた瞬間、全身が冷水を浴びたように一気に冷えた。


「……」


 脳に水面のような静けさが支配していく。

 全身から血の気が引いていくが、冴えた頭は理屈を飛ばして、既に身体へと命令を下していた。

 キッチンの奥からナイフを取り出して、ポケットに隠し地下室への階段へと向かう。


 一連の動作に、何の躊躇もなかった。


 二階の階段の側。静かに開くと、地下に続く階段の奥から、明かりが漏れている。


(ヴィレナさんは、どうして約束を守らないんだ)


 カツン、カツン。と己の靴音が階段に響く。

 いないでくれ。私が電気を消し忘れたのだと、そうだと言ってくれ。脳の一部でそんな声が聞こえるが、視界は驚くほどクリアで彼女を探している。


「──ヴィレナさん、ここは降りてはいけないと、言ったでしょう?」


 階段を降りきった先、裸の豆電球が揺れる狭い地下の空間に、彼女はいた。癖のある黒髪は背中を流れ落ち、彼女の顔は見えない。


「ヴィクトル・フラン」


 彼女の声が、いつもより、重い。

 当然だろう、そんなものを見てしまっては。

 

「これは、どういうことだ?」


 彼女が振り返る。

 黒い瞳は無機質で、相変わらず感情が読めない。

 ギラリ、とエメラルドブローチが反射で光ったような気がした。


「見てわかりませんか?」


 彼女の目の前あるのは、大きなガラスの、筒状の機械。

 中は擬似羊水で満たされ、その白い体の構築を助けている。まだ、不完全な身体。


「娘のニーナです」


 私は、出来かけの娘の体を前にして、力なく笑うしか無かった。

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